問題提起としての「二度目の人生を異世界で」ヘイトスピーチ炎上事件
2018年6月に、ライトノベル「二度目の人生を異世界で」の作者、まいんさんという方が過去(5年ほど前のようです)ヘイトスピーチをしていた事で中国、日本で炎上騒ぎとなり、同作品のアニメ化中止、出版停止という事態にまで発展しました。
この事件には、現代社会特有の問題点がいくつか含まれていて、意外に含蓄があります。そこで少し掘り下げて色々と考察してみました。
この事件のポイントは、恐らく以下のようなものでしょう。
1.“表現の自由”問題
2.消えない過去のネット情報
3・社会的制裁のコントロール
順番に説明していきます。
1.“表現の自由”問題
これはヘイトスピーチへの規制が“表現の自由”に反しているのではないか?という問題です。
「自由というからには、ヘイトスピーチすら認めなくてはならないのではないか?」って疑問を感じている人達がいるのですね。
が、これ、民主主義における“自由”の意味を勘違いしています。
表現の自由に限らず、民主主義での自由は「他人に危害を加えない(他人の権利を侵害しない)」限りにおいて認められているものです。
(少し検索して調べみれば、説明してくれてあるページが直ぐに見つかりますよ)
もし他人に危害を加える事を認めてしまったなら、他人の自由を奪う事になってしまって、そもそも自由を護れなくなってしまうので、これは自明ですよね。
と言うか、本当になんでもかんでも認めてしまったなら、それは単なる無法地帯です。法も何も関係ありません。
ヘイトスピーチは、どんなに寛容に判断しても名誉棄損は確実で、場合によっては脅迫、殺人教唆である可能性すらもあるので、他人に危害を加えています。とてもじゃありませんが社会的に認められるものではありません。
だからこそ、2016年にヘイトスピーチ規制法が問題なく成立しているんです。ここでも“表現の自由”が多少は話題になりましたが、公権力の濫用を気にしたものであって、他人への危害を認めるかどうかが議論の焦点になった訳ではありません。
つまり、ヘイトスピーチは犯罪です。
何名か、ネット上で“表現の自由”を理由にまるでヘイトスピーチを促しているかのような書き込みをされている方がいましたが、犯罪を煽る事も犯罪なので(煽動罪と呼ばれています)、その書き込みは犯罪と判断されてしまう危険性があります。
ヘイトスピーチ規制法自体に罰則がありませんから、仮に国が動くとしても注意勧告くらいで終わりでしょうが、それでも公の場で犯罪(とされる可能性のある)行為を執るのは社会的に好ましくありません(投稿サイトだった場合、運営にも迷惑をかけるでしょう)ので、せめて“ヘイトスピーチは犯罪です”等、何かしら注意書きをするか、ヘイトスピーチ規制法を撤廃するよう求める方向に内容を修正しておいた方が賢明ではないかと思われます。
ただし、です。
今回の事件で作者のまいんさんの行ったヘイトスピーチが、このヘイトスピーチ規制法の対象になるかどうかは分かりません。
条文を読んでもらえば分かりますが、これ、かなり曖昧な法律で、はっきり言って裁判所に判断してもらうしか白黒つける方法はないのじゃないかと思います。
そして、恐らくはそんな裁判はほぼ確実に行われないでしょう。
先にも述べた通り、この法律には罰則がないのですよ。具体的な罰則もないのにわざわざ金をかけてまで裁判を起こすような奇特な方がいるとは思えません。
それに、そもそも裁判が行えるかどうかも疑問ですし。
裁判って誰でも彼でも自由に起こせるものじゃないんです。その行為が、訴えた人間(集団)にとって、直接的な利害関係にあると裁判所が認めた場合しか、裁判は開かれないんです。そうしないと、訴訟が多すぎて、裁判所が機能しなくなってしまうからですが。
だから、多分、今回のヘイトスピーチが法律上のヘイトスピーチに当たるかどうかは恐らく永久にグレーになるのじゃないかと思われます。
もしかしたら、これを読んで「法律がそんなにいい加減で良いのか?」って思う人もいるかもしれません。
が、法律って意外にいい加減なものなんですよ?
法が定まっただけじゃそれがどう機能するかは分からなくて、裁判所(というよりも“社会”と言った方がより正確ですね)がその法律をどう解釈するかで変わって来てしまうんです。
その代表例が“自衛隊”でしょうか。
実は自衛隊って憲法に違反しているのか違反していないのか未だに決まっていないのです(因みに、だから集団的自衛権はそんな状態での更なる拡大解釈って事になってしまいます)。
何故なら、裁判が開かれたのに、裁判所が結論を出さなかったから。
まぁ、素直にこれがどういう事なのか想像するのなら、「自衛隊は憲法に違反しているようにしか思えいないけど、国にとって必要なものだから、答えを出さずに保留にしておいた」って感じになるのじゃないでしょうか?
個人的には、“まぁ、仕方ないかな?”と思っちゃいます。
軍事力を放棄なんて、シビアな現実世界を考えるのなら、いくらなんでも無謀過ぎますから。
ちょっと話が逸れましたが、このまいんさんという方のヘイトスピーチは、少なくとも法律上は問題にならない可能性の方が大きいと思われます。
法律上のヘイトスピーチに当たるかどうかがグレーである事だけがその理由ではありません。通常、法律は過去に行った行為にまでは適用されません。そして、このまいんさんという方が問題のヘイトスピーチを投稿したのはヘイトスピーチ規制法が成立する以前なんです。
その内容を削除していなかった点が微妙と言えば微妙ですが、それでも本人が忘れていたとでも言えば過失程度で済むでしょう(それが本当かどうかは置いておいて)。
ここで問題になって来るのが次のポイントです。
2.消えない過去のネット情報
仮にです。
この今回の事件の当事者であるまいんさんという方が、以前は偏った思想を持つ仲間達に囲まれて一時的にその影響を受けていただけで、作家となった今では更生していて、その社会的責任を重視し、ヘイトスピーチを行うなんて考えはきれいさっぱりなくなっていた、としましょう。
ところが、それで過去のその情報を消したいと思っても消せない…… そんな事態に陥ってしまったとしたら、どうでしょう?
今回の事件では、本人がそもそもそれを消していなかったのですが、有名人ですし、誰かがそれを保管していたとしても不思議ではありません。
いえ、どのタイミングかは分かりませんが、実際、それを保管している人がいて、その内容がネット上に公開されてありました。
本人が意図しない内容が、恐らくは許可も取らずに公開され続けているのですから、これもちょっと問題にすべき点です。
或いは、これから長期間に渡って、彼はこの件で責められ続けられる事になるのかもしれません。
誰でも一度や二度は酔って変な言動をしてしまった事なんかがあると思います。これが記録に残らないような方法で為されたのなら、何も問題にならないケースの方が圧倒的に多いでしょう。
が、一度、ネット上に投稿してしまったなら、そうではなくなります。
過去の記録が何処かに残っている可能性(拡散されてしまったケースを考えると分かり易いですが)は捨てきれず、それがいつどんな拍子で、悪影響を及ぼすか分かりません。
これは現代、ネット社会の問題点の一つです。
何度かニュースになっていますが。
今回のケースとはタイプが異なっていますが、例えば恥ずかしい写真などを第三者にネット上に投稿されてしまい、それがいつまでも残り続けるなんて事態も考えられますね(確か、実際にそんな事件もあったはず)。
法律には時効がありますが、ネット上にそれはありません。もしも、一時の過ちでネットに発信してしまった情報で、死ぬまで責め続けられるなんて事になってしまったなら、軽くホラーですよ。
しかも、世の中にはデマを拡散するような輩もいますからね……
これ、解決する為には遠い過去の過ちはスルーするというようなネット文化を醸成する必要があるかもしれません。
難しい気もしますがね。
もちろん、これは社会的制裁をどうコントロールするのか?
って話でもあります。
3・社会的制裁のコントロール
社会通念として、“力を持った者には、それ相応の責任がある”というものがあります。“社会通念”と聞いて軽く考える方もいるかもしれませんが、決して馬鹿にはできません。
例えば、裁判の判決で同じ事をしても責任が重い方がより罪が重くなるなんてケースがあります。
だから、社会的に影響力の強い作家にだって当然、それ相応の責任がある事になります。その作家の行動によっては、社会に悪影響を与えてしまうのだから、これは当然ですね。
だから作家であるまいんさんが行った今回のようなヘイトスピーチは、特に問題視されるべきなんです。
断っておきますが、ヘイトスピーチ(に限らずネガティブキャンペーン全般ですが)は、それがある事自体がその社会全体にダメージを与えます。
それは外国への攻撃というよりは、むしろ自分の国への攻撃なんです。
数年前、日本で行われているヘイトスピーチが問題として国際的に取り上げられ、日本のイメージが傷ついた事がありました。世界から日本はヘイトスピーチを認める低俗な国と思われてしまったのですね。
その時、ネット上では「足を引っ張らないでくれ」、「もう少し考えて行動しろ」などといった主張がされていて、ヘイトスピーチは在日韓国人が日本を貶める為に行っているというような陰謀論まで出る始末でした。
そもそも批判をするのにヘイトスピーチなんて必要ありませんから、反感は一般の感覚からすれば真っ当なものでしょう。
証拠と根拠とを示して、正々堂々と社会的に意義のある批判をするのであれば、咎められないどころか、むしろ評価さえしてくれるのですから。
例えば、コピノ問題。
これは韓国人男性が、フィリピンで子供を作り、そのまま帰国してしまう事で、貧困に苦しむ母子家庭が大量に生まれている問題を言います。
フィリピンはキリスト教のカトリックを信仰している場合が多く、カトリックでは堕胎を禁止されている為(法律でも禁止されているようです)、女性達はそのまま出産する場合が多いのだとか。
このコピノ問題を訴えれば、世界中の国々に影響力を持つカトリックを味方に付けられそうですし(韓国にもカトリックは強い影響力を持っています)、何よりも貧困に苦しむ女性やその子供を助けられます(これが一番大事ですね)。
もっとも、日本人男性が加害者になっているジャピーノ問題もあります(もちろん、他の国の男性が加害者のケースも)。
ジャピーノの方が数は多いという指摘もありますが(なんとコピノの十倍という報道もありました。ただ、どこまでこの数字が正しいのかは分かりません)、DNA鑑定の結果、誤りである事が分かったり(ただ、この話は裏を取っていませんので、参考程度の認識でお願いします)、日本のバブル期に社会問題化したものであるのに対し、コピノ問題は現在進行形で悪化しています。
つまり、訴える事でこれからの被害を抑えられる可能性が大きいのですね。
(当然ですが、日本人だろうが韓国人だろうがした事の責任は取らなくてはならないのは同じですし、何度も書きますが、貧困に苦しむ母子家庭を救える点にこそ最も価値があるのです)
今回の件で、まいんさんは社会的な制裁を受けている訳ですが、ヘイトスピーチではなくこういった意義のある批判をするよう世の中の人間に対し促すといった意味で、それには価値があるとは言えるかもしれません。
――が、果たして、一体、どこまでの制裁が適切だと言えるのでしょうか?
遥か昔から、何らかの好ましくない行動を執った者に対し、その社会の一般の住民達が、法的な罰ではない“独自の制裁”を行ってしまうというケースが往々にしてあった訳ですが、ネットが普及してからはこれが著しくなっています。
酩酊したアイドルの猥褻行為、政治家達の不倫、デザイナーの盗作疑惑。これらの有名になった数々のニュースで、当事者達は社会的制裁を受けましたが、実はこういった有名な事例以外にも社会的制裁は数多く行われているのだそうです。ネット上で猥褻、差別的な文章などのあまり好ましくない投稿を行った事が会社などに知られ、白い目で見られたり評価が下がったり就職に失敗したり、といった事件が多々発生しているのだとか。
“ネット上というのは間違いなく公の空間だが、家の中で作業している所為でその感覚が麻痺して気が緩み、つい反社会的な投稿をしてしまうのではないだろうか?”
なんて推測を読んだ事があります。皆さんも気を付けてください…… と、それはさておき、こういった社会的制裁の全てが妥当なものとはとても言えないでしょう。
近代刑罰の基本は“更生”だって知っていますか?
(だから、受刑者がいなくなってしまう死刑は特殊な刑罰なのですが)
感情的には納得ができない人もいるかもしれませんが、これは“刑務所の失敗の歴史”と関連しています。
刑務所に入れられて罰を受けた人間が更生してもう罪を犯さないような人間になって社会復帰する事を普通は期待する訳ですが、実際には刑務所が犯罪の再生産装置になってしまう場合が往々にしてあるのだそうです。
刑務所の酷い境遇が原因となって、凶暴な性質が悪化してしまったり、刑務所で犯罪集団と知り合う事で、より反社会的な人間になってしまったり。
これでは社会はより大きな損失を被ってしまいます。だから、刑罰は“更生”を目的とするようになって来たのですね。
時効という社会制度の根拠もこの“更生”と結びつけて考える事が可能です。既に長期間罪を犯していないのなら更生されていると判断でき、ならば“刑罰を与える必要はない”という事になりますから。
ところが、社会的制裁にはこの時効がありません。
ここで、先に挙げた“消えない過去のネット情報”の問題とセットで考えてみてください。こんな事態だって起こり得てしまいます。
『十年以上前に、いじめをしていた経験があるが、もう本人は充分に反省している。ところが、その記録がSNS上に残っていて、偶然、それを発見され、しかも会社の同僚達の間に広まってしまった。それ以降、社内で“パワハラするかもしれない”と警戒をされるようになり、昇進にも響きそう……』
心情的には“ざまぁみろ!”って思う人もいるかもしれませんが、近代刑罰の思想的には少なくとも問題があります。
さて。
この“更生”の考えを当て嵌めた場合、今回のまいんさんの事例は既に罰を与える必要はないように思えます。
少なくとも数年間はヘイトスピーチを行っておらず、声明を見た限りでは今現在はそれが適切な行為だとは考えていないように判断できますから、“更生されている”と捉えても問題はないように思えるからですね。
もちろん、“責任ある立場”の人間という意味で、ある程度の社会的制裁を正当付ける根拠はあるかもしれません。
が、仮にこれから彼の作家生命が断たれる事になってしまったとしたなら、個人的には少々、同情をします。
もし、彼が他に生活する為の社会的スキルを身に付けていなかったら、人生設計がくるってしまいます。いえ、もしかしたら、作家を止めたとしても、会社に就職し難くなったりといった社会的制裁を受け続ける可能性だってあるでしょう。これで生活の手段が限られてしまったとしたら、罰としては重過ぎるのではないでしょうか?
この事件を逆手に取り、その特殊な経験を題材にして、ノンフィクション小説でも書いて起死回生を狙うなんて道もあるかもしれませんが、本人の資質によっては難しいかもしれませんし……
過剰な社会的制裁は、明らかに社会問題の一つだと思います。
そして、過剰に罰を与え過ぎない為には、“社会的制裁のコントロール”が必要になってくるはずです。
もちろん、完全にそれをコントロールする事は不可能でしょうが、国の方でガイドラインのようなものを作成するくらいならできるのじゃないでしょうか?
多少のブレーキの役割くらいは果たしてくれると思うので、国に求めてみる価値は充分にあると思います。