18.漫画とイラスト、エゴとアイディア。
日曜日の午後、暇である。
今日は小雨に頼んでいたイラストを見せてもらう日だが『3時に来てください』と時間指定されているので、昼食をとってからの時間やることがない。
小雨の家に行った後、その帰りに神様の元へ向かうつもりだったが、この空いた時間にも行ってみようか。
時間調整の相手みたいで悪いが、それくらい気楽に会いにいってもバチは当たらないはずだ。
あの神様なら間違いなく喜ぶし。
イラストのタイプによっては、広告の方向性を修正する必要があることを考えると気が気でないが、鞄に必要なものを入れて、家を出る。
「む、今から出かけるのか?」
扉を開けたら瑞樹がいた。前にも言った気がするが、瑞樹はときどきアポなしでやってくる。
あと五分来るのが遅かったら入れ違いになっていたぞ。
「いや、用事があるなら上がってけ。ちょうど暇だったんだ」
「わかった。……新刊を読ませてもらおう」
「それはいいんだが確認までに、ウチは漫画喫茶じゃないからな?」
「当然だ」
本当にわかっているのかなんなのか。
「前回オレは、どこまで読んだ?」
「さすがに知らねぇよ」
瑞樹はウチにくると、最初に俺が購読している週刊の少年漫画を読む。
そのあと、単行本で読みたいものが増えていたらそれを読むって感じだ。
「ああ、そうだ。ゴーローの新刊読み終わったから入れておく」
「だから、その漫画俺あんまり好きじゃねぇって」
瑞樹の部屋にある本棚はもうスペースがないらしく、いらなくなった漫画をウチに持ってきては勝手に本棚に入れていく。そしてそれはいらなくなった漫画故に、ちょっとハズレの漫画が多い。
結局俺は読むわけだが。漫画そのものが好きだし。
「あとポテチも買ってきたぞ。……わさび味だ」
わさび味は俺も好きだし、それに関しては文句はない。
「…………」「…………」
瑞樹は普段からあまり喋らない。読書中となるとなおさらだ。
必然的に会話はなくなるので、暇を持て余す俺は瑞樹が持ってきた漫画に手を伸ばす。
ゴーローを手に取った瞬間瑞樹が鼻で笑ったが気にしない。
「そういえば今日は、小雨の絵を見に行く日か……?」
漫画を読み始めて数分、瑞樹が口を開いた。瑞樹から会話を持ち出すなんて珍しい。
「そうだ、3時に小雨の家ってことになってるから、もう少ししたら出るぞ」
「そうか、ならばそれまでにはおいとましないとな」
「は? どうせなら一緒に来いよ」
話し合いなら人数が多いに超したことはない。
「それだと小雨に悪い」
「どうゆうことだ?」
「…………鈍感だな」
僅かな間を開けて瑞樹がそう言った。
「なにがだ?」
「…………」
最後はため息で返された。
「あら、昂一ちゃんいらっしゃい」
立川画材店に入ると一週間前と同じように、カウンターの中から小雨の母親が出迎えてくれた。
「おじゃまします」
「後ろの子もよく見るわね」
小雨の母親が瑞樹を見て言った。
みんなで画材を買いにくることは少なくないし、そもそも毎朝立川画材店の前で待ち合わせをしているんだ。
直接会話したことはなくても、顔くらいは覚えててもおかしくはない。
「瑞樹です」
「瑞樹ちゃんね、ヨロシク。今日も小雨がお目当てかしら?」
「は、はい」
「ちょっと待っててね」
小雨の母親が何度か二階にいる小雨の名前を叫んだが反応は返ってきていない。
「あれ? 呼んでも出てこないわね。トイレにでも言ってるのかしら?
まあいいわ。アトリエに勝手に上がっておいて、そのうち帰ってくるでしょう。間違っても小雨の部屋に入ったりしちゃだめよ」
「そんなにデリカシーのないことしませんよ」
そう言い残すと、急な木造の階段を上る。
「店の裏に入るのは初めてだな……」
「そうだったのか」
階段を上り切ると、迷うことなくアトリエの扉を開けた。
「……なんだ?」
状況がいまいち理解できなかった。
アトリエの扉を開けた先、そこには、窓の外を見て微動だにしない小雨がいた。
「…………」
小雨は扉の音にも反応せず、扉の外を見つめている。
右手には絵筆。手前にはキャンパス。
絵の具はまだ乾いていない。
アトリエにいるのに返事をしなかったこともふまえて、明らかに小雨の様子がおかしい。
「……小雨?」
「昴一先輩……それに、瑞樹先輩も……」
微かに聞こえる小雨の声、だが体はいっさい動かさず窓の外を見つめている。
「どうしたんだ?」
ピクリと、少しだけ反応を見せた、だがこちらを振り向く気配はない。
「描けないんです」
「描けない? もしかして、イラストが間に合いそうにないのか?」
いえ、と返しながら小雨は振り向いた。
その表情は涙を必死にこらえているものだった。
「絵は、完成しました。そこにあります。……でも、昴一先輩のアイディアを活かすには、もっと子供に喜んでもらうには、漫画調のイラストが良いと思ったんです。
ですが、どれだけ描いてもどれだけ描いても納得できるものは描けなくて、なんだか、なさけなくなってきちゃいました」
床にちりばめられた少女漫画。
キャンパスに描かれた絵は、いつもの小雨の絵に比べると、輪郭線がはっきりしており、漫画調のものとなっている。
もともとのデッサン力が手伝って、かなり上手に描けている。が、どこか魅力に欠ける絵でもあるのは確かだった。
「…………」
どのような声をかければいいかわからなかった。漫画での挫折。
それは、かつて俺自身が味わったものではあるが、小雨のそれは俺の味わったような『何もしなかった挫折』よりずっと重たく、俺が軽々しく触れてはいけないと思ったからだ。
「す、すみません。今は描けない絵よりも完成した絵ですね」
小雨は目に溜まった涙を拭うと、一枚の絵を取り出した。
「これは……」
浦島太郎に出てくる竜宮城のような、海の中にある町のイラストだ。
小雨の得意分野をふんだんに使ったイラストは文句の付けどころがなく、文字通り『完成』されていた。
だがなんだろう、絵にどこか違和感がある。
別にデッサンがくるっていたり、アングルが不適切だったりするわけじゃない。
そんな後ろ向きの違和感ではなく、もっと別の……。
「もしかしてこれ、見谷川商店街か?」
「そうですっ。はー、気づいてもらえてよかったです」
小雨が安堵のため息をつく。
サンゴでできた建物の配置や大雑把な作り。電柱に見立てた植物の位置、細かなところまで見谷川商店街のそれを再現していた。
直接見谷川商店街を水中に沈めたのではなく、水中にあるものを地上にあるものに見立ててそれらしく見せる技術は一朝一夕でできるものではない。
「…………」
「どうしたんですか? も、もしかしてダメでしたか!?」
「……いや、最高のイラストだ。小雨に任せて正解だったな」
最初は漫画調のイラストが失敗したときの、保険案だと思ったが、これには小雨の世界が盛り込まれており、見谷川祭りPR用のビジュアルとしても文句なしだ。
ただ、イラストの右端で切れている山の頂。
そこにある神社が映っていないのが少し寂しく思えたというだけで……。
だがそれは、俺のエゴであり今ここで口にするべきではない。
「差分のイラストも見せてくれねぇか? どんな風に配置するのかも教えてくれ」
「はいっ」
さっきまでの悲しそうな表情はなかったように楽しげな表情で立ち上がると、小さなキャンパスを大量に取り出してきた。
そこには色とりどりの魚や植物が描かれてある。
「こっちの、赤い魚はここでこの岩の後ろから覗かせてください、こっちのサンゴは――」
「ちょ、ちょっと待ってくれ、写真撮りながらメモするから」
「す、すみません。焦りすぎました」
あらためてメモ帳と携帯を取り出し、指示を一つ一つメモしながら撮影していく。
「これで全部か」
「はいっ」
撮影し終わり一息つく。
間違いは、簡単なものから見つけにくそうなものまで難易度は調整されており、イラスト一つ一つから世界観への愛が伝わってくる。
「……つーか、瑞樹。さっきから黙りっぱなしで、何かないのかよ?」
アトリエに入ってから瑞樹は、物珍しそうに回りの絵を見るだけで、一言も話していない。
「ん? オレか? そうだな……」
一瞬だけ考えるような仕草をすると、描きかけのキャンパスの横に立った。失敗した漫画のやつだ。
「これ、オレから見たら良く描けている。……何がダメなんだ?」
瑞樹が言った。