教えてあげる
「ミス・アンバー・ローズ、僕はあなたに大変失望しました。あれほどお願いしておりましたのに、こうも簡単に約束を反故にされるとは……」
私は驚いて目の前に立つ少年を見つめた。
すぐ側にある椅子に腰かけもせず、皺を寄せた眉間を苛立たしげに摘み、こちらを恨めしげに睨むかつての教え子を。
「な、何のことかしら? お話が全く見えないのですが、ジェラルド坊っちゃま」
私はこの少年が苦手だった。
ジェラルド・マーチン、現オルティア伯爵の一人息子、御年十三歳。美しい黄金の髪と深緑の瞳を持つ、美貌と知性、全てを兼ね備えた恐れを知らない若者だ。
十三を遥か昔に超えた私を前にして、たいそう偉ぶるこのふてぶてしい態度も苦手の要因の一つである。
まあ、無理もないけど。
だって、私はしょせん使用人ですから。ええ、ええ、以前はこの少年の家庭教師をしていたとしても。
思い出したわ。ジェラルドは一度だって教師を敬ったことなどなかったわね。
「何をおっしゃるのか、ミス・アンバー。この上まだとぼけるおつもりか? あなたはその年齢に相応しく、思慮深い慎みのある女性だと僕は思っていたのです。世にはびこる醜い女達とは一線を画す、そう信じていたのですよ」
出た!
私が一番この少年と相容れない原因が。
「だのにあなたはその信頼を裏切り父を誘惑した! そうですね? あれほどそんなはしたない真似はしないとお誓いになったくせに。いいですか、祖母は騙せても僕の目は誤魔化せませんよ!」
ジェラルドは嫌悪を滲ませ、厳しく糾弾してくる。
私がこの少年を苦手なわけ。
それはこの尋常ではない女性蔑視と、暑苦しいまでのファザコンのせいだった。
私はアンバー・ローズ。
二十も半ばを超えたのに、未だ独身の売れ残り。器量の方はこの現状でお分かりいただけるだろう。つまり、そういうことなのだ。
実家は一応貴族に名を連ねてはいるけれど、とうに代は従兄弟に替わっている。
華々しい結婚適齢期に花婿を見つけることが叶わなかった私は、父の跡を継いだ従兄弟に追い立てられるよう実家を出て、自活の道を探すしかなかった。
そして、必死で縁故を頼り歩いて、父の知己でもあったオルティア伯爵に、ご子息のガヴァネスとして、ようよう食い扶持を見つけたのが今から六年前。
それが去年、ジェラルドは中等教育を学ぶため、寄宿学校へ入学する運びとなった。
私はそのままお払い箱になる予定だったが、伯爵の母上であるオルティア伯爵未亡人に人柄を認めて貰え、引き続きコンパニオンとしてこの伯爵家に残れることとなったのだ。
どうやら、ジェラルドはそれがお気に召さないらしい。
父親の周りを飛ぶうるさい蝿を叩き落とした上、踏み潰してやりたくて堪らないらしいのだ。
学業が本分の学生の身でありながら、血相変えて特別外泊を願い出戻って来るほどに。
だが、こんな恥ずかしい経歴しかない私に、よもや下心などあるわけないじゃない。
彼はそのことを理解しようともしないのだから手がつけられない。
そう、下心など私に持てるべくもないのだ。
こちらに来た当時、伯爵は奥方を亡くされ数年しか経っておらず、それでなくとも油の乗った男前振りと豊潤な経済力を合わせ持ち、社交界の未婚女性から熱い視線を一身に集めていた。
にもかかわらず私のような不器量で旬も過ぎた女が、花形貴公子に相手にされるとお思いかしら?
馬鹿らしくて答える気すら失せるわ。
ちょっと冷静に考えれば分かるはずなのに。このお坊ちゃんは相も変わらず私を敵と認定したままだーー。
「初めて会った時、あなたは年齢に合わず質素な出で立ちで、どちらかと言えば目立たない地味な印象だった」
ボツボツと恨みつらみを語り出した坊っちゃま。
私はそれに胸の中で反論する。
当たり前じゃないの。キチキチの生活をしていたのよ、こっちは。
あの頃の私はまだ二十歳前で、いかに美しくはなくとも本当は身綺麗に飾りたかった。だけど装いたくともそんな贅沢をする余裕は、小さなパンの一欠片すらなかったの。
「隙あらば父の気をひこうとする女狐のような、いやらしい媚を売る様子もなくて」
あのね、そんなことして大事な仕事を無くしたりするわけないでしょう。
私を誰だと思ってるの?
男を魅了する絶世の美女ではないのよ。私みたいな美しくもない女に色目を使われたら、間違いなく伯爵は首にして終わりだったでしょうね。
「僕に対しても真面目に勉学を教えて下さり、父のことを根掘り葉掘り聞き出そうとするような浮ついた様子もなく」
全く、前任者は碌でもない者ばかりだったようね。
そう言えば伯爵は勤める前、息子がガヴァネスを追い出して困ると嘆いてらしたっけ。
「だが、僕は心配で仕方がなかったんだ。いつだってあなた達は、どいつもこいつも例外なく女狐に変身していったからだ!」
「それで私を試すようなことばかりされていたのですか?」
私が反撃するとフンとばかりに横を向く。
この仕草懐かしい。幼い頃からのこましゃくれた顔つきそのもの。
そうよ、思い返せばジェラルド坊っちゃまは、少しも私を信頼などしていなかったわ。嘘つきね。
彼は初めて会った七歳の頃から、いつも尊大な態度でこちらを見下げ、一日も早く追い出してやると欠点を探し回っていたのだから。
全ては大事なパパとの平和な生活を守るために! あ〜、馬鹿らしい!
「僕がいなくなったあと、あなたが何をするか分かったもんじゃないだろう。すぐ側で常に見張るスパイをつけて置くべきだと考えた。その判断に間違いはなかったんだ。やっぱりあなたも女狐の一人だったとこれではっきりしたんだからな」
「何をするかって、とんだ侮辱だわ。今の言葉は訂正して下さいませ、坊っちゃま!」
カッときて大声を張り上げふと気づく。
あれ、今何か……おかしな言葉を聞かなかった?
「て、スパイ? 見張りって何のこと……」
まさか……?
「そうですよ」
少年らしからぬ大人びた表情で、ジェラルドはにやりと笑った。
「祖母は僕のスパイです。あなたを見張るね」
ま、まさか……。
頭が思考を拒否する。私はふらふらしながら手直にある家具に手をついた。
ジェラルドは不敵な笑みを変えもせず、私を重罪人だとでも言わんばかりに見据えてくる。
ど、どういうこと? この少年は何を言ってるの?
「コンパニオンの話は僕が祖母に頼み込みました。放っておけばあなたはこの家を出て行く羽目になっていた。いくら僕だとて初等教育ならまだしも、中等教育を逃れるすべなどないことぐらい、重々分かっていましたからね。どうしても家の中に協力者が必要だったんですよ」
は、はあ?
意味が分からない。理解出来そうにないわ。
「あ……何故……そんな訳の分からないことをされたのかしら。良かったら私に分かりやすくお話し下さらない?」
「僕がいなくなったらあなたは間違いなく父と接近するでしょう。それだけは何としても阻止しなければならなかったからです」
ちょ、何その妄言。ファザコンもそこまで行ったら病的よ。私よりもあなたがまず、お父上から離れることを真剣に考えなさいよ。
「ジェラルド坊っちゃま、それは先の質問の答えにはなっておりません。私を排除したければ、何故伯爵未亡人にコンパニオンなどをわざわざお口添えされたのですか?」
そうよ、放っておけば私はこのお屋敷から出て行く身だったのよ。だって、生徒のあなたは寄宿学校へと入学してしまって、私はお役御免になっていたのだから。
ジェラルドは苦しげに顔をしかめると、私を無視するように俯き、着ている寄宿学校の制服の胸元から一通の手紙を差し出した。
美しい文字の並びは伯爵未亡人の手によるものだ。
「ミス・アンバー、僕は久しぶりに帰ってきてあなたにお会いし、正直大変驚きました」
はい?
坊っちゃま、私の質問お聞きになってました?
彼は私の戸惑いを歯牙にもかけず未亡人の手紙を開く。
「先日祖母からこの手紙が届いたのです。これには色んなことが書かれてありました。あなたとオペラを観に行ったこと。オペラ以外にも色んな場所へ足を運んでいること。あなたは話題が豊富で朗らかで、一緒にいるととても楽しく過ごせていること」
「それはとてもありがたいお言葉ですわ。でも、今この場では全然関係ないお話のように思えますけど……」
「その際、祖母はあなたの服装を何とかしなければと思ったそうです。今のままでは一緒にいる自分があまりに恥ずかしいと」
私は顔が赤らむのを抑えきれなかった。
確かにコンパニオンとして貴婦人と同席するなら、ある程度の身だしなみは要求される。私には華やかな場所へ赴くための衣装が、圧倒的に足りなかった。
「祖母はあなたに幾ばくかのプレゼントをしたと教えてくれました。今身につけていらっしゃるのもそうしたドレスの一着でしょう。化粧もされておられますね、随分垢抜けられ目を疑いましたよ、先生」
「こ、これは……」
知らず体が震えてくる私を、ジェラルドは気にする様子もなく近づいてきた。
顔を伏せ表情を隠しているから、何を考えているのか全く読めない。それは酷く不気味な印象を与えてきた。
「ぼ、坊っちゃま……い、いったい……?」
恐怖で喉が引きつる。無言のまま、どんどん近づいて来る相手に圧迫されてしまう。
何故急に彼は黙ってしまったのか。
もしかしたら、私はこの少年を本格的に怒らせてしまったのか。
「ぼ、坊っちゃま! い、いや……、それ以上、寄らないで!」
思わず出て来た拒絶すら、ジェラルドには聞こえてないようだった。
足を止める気配のない相手に混乱を極め、何の活路も見い出せない。
どうしよう。体が動かないの。走ってこの部屋を出て行けばいいのにどうしても動かないの。
私はこのまま分不相応な咎人として、元生徒に罰せられてしまうのだろうか。
伯爵未亡人のご厚意を受けたのは、そんなにも許されないことだったのか。
「先生……」
目の前にきたジェラルドが口を開いた。
「変身したあなたを見れば父も考えを改めるかもしれないでしょう? あなたがどんな気持ちでおられようが父には関係ないんだ。父があなたを女性として見てしまえば……それで一巻の終わり。僕は、そんなのは嫌だった。だってあなたは僕のものなのに」
「た、助け……えっ、えええっー!?」
呆気に取られ絶句する私を、ジェラルドは潤んだ目で見返し、せつなげに唇を噛む。
「あなたを誰にも奪わせない、僕のものだから。六年も前からあなたは僕だけのものだから……」
放心状態の私の前に彼は膝まづいた。
深い緑色の瞳が見えなくなりようやく気づく。いつの間にか、私達の目線が同じ高さになっていたことに。
「ミス・アンバー・ローズ、僕の女神。お願いです、父になど誘惑されないで。ご自分をしっかりとお守り下さい。そしてどうか、僕が大人になるのをこのままお待ち下さい」
悲痛な声が耳に届いた。
これは現実のことかしら? ジェラルドが私に愛の告白って、まさか嘘でしょう?
柔らかい少年の手が私のそれを恭しく包み込む。このささやかな存在が自分の大事なものなんだと、まるで訴えかけるような優しい力で。
それから、ふんわりと温かい感触が手の甲をそっと濡らした。
「ぼ、坊っちゃまーー、い、今のはまさかーー!?」
慌てて叫び声を上げ少年の手を振りほどくと、神話の中の麗人のように美しい相手は、ゆっくりと笑みを深めていき、まるで聖歌を口ずさむように清らかな声で告げてきた。
「愛しい先生、誓いの口づけです。で、僕に何をお尋ねでしてたっけ? ああ、そうそう、僕がどんなにあなたを愛しているかってことならば、これからたっぷりと時間をかけて教えて差し上げますね」