生も死もいずれ同じの水無川下り着く先色即是空とこそ知れ。(私の人生考察瞑想ノートより)
生も死もいずれ同じの水無川下り着く先色即是空とこそ知れ
今生きている自分にとっては
この世界、、この人生ですべてですよね?
人生はまさに自分のすべてです。
生きて恋して働いて名を成してお金を貯めて家を建てて、、
遊んで旅行して本読んで、映画見て人気歌手の歌聴いて
美味しいもの食べて芸術鑑賞して
スポーツして、趣味に嵌まって
さあ?
それから、、、もっと、、、何する?
これが人生です。
でも
そんな人生がすべてではなかったとしたら?
あなたはどうしますか?
この人生以外に全く別の世界があるとしたら?
というかもっと具体的に言いましょうか。
つまり、、
人生はやがて終わるという事実です。
楽しい?
或いは苦しい?
この人生はある日、
プツンと
終るのです。
時としてなんの前触れもなく
或いは前兆がある場合もありますが、、。
とにかく、、ある日、、人生はシャットダウンするのです。
そして二度とリカバリーしません。
出来ません。
あなたが生きてた時のあのことも
このことも
あんなことも
こんなことも、、
すべてがプッツリとシャットダウンです。
これが人生というものの、真相です。
すべてが消え去るのです。
あなたが生前、愛した物たちとも、、お別れですね。
そして、、愛した人たちともお別れです。
あなたはすべてをこの世に置き去りにさせられて
あなた自身は消滅するのです。
それが死です。
まあこんなこと長々と
私がこと改めて言わずとも
みなさん。先刻、ご承知の通りですよね。
どんな元気な若者であっても
どんな青春の乙女であっても
いずれ老いて、、病んで、老耄の果てに死ぬのが
人の子の運命です。
それが肉の子として受生した
人間の宿業なのです。
誰も逃れられない。
大金持ちも
王様も
文豪も
教祖様も
みんな死んでいくしかない。
そして死によって生前のすべてが、まさに水泡と化すだろう。
というのは死んだご本人にとっては
生前の物などもうなんの意味すらなさないからだ。
金貨1000枚を死人の上に撒いたからとて
それでどうなりもしないということだ。
死人にとっては金貨など、もう、なんの意味もなさないからだ。
美味しいグルメを死人の前に並べてみても、、もう無意味。
死人には食えませんからね。
つまり生前のすべてが死人にとっては
無、、なんですよ。
何の意味もないということです。
生前あれほど執着して、銭ゲバになって、蓄財したあの金貨も
或いは、、生前あれほど
しゃにむに働いて35年ローンを返却し続けたあのマイホームも
もうなんの意味もないです。
金貨も
家屋敷も
涙こぼしてありがたがった?あの勲章も、
生きてればこそ必要であっても
死ねば、、もう全く無関係
無意味です。
そう考えると
人生って、そんなに、重要だろうか?
という結論にもなりますよね?
じゃあ、今すぐ自殺しようか、、、、
老いさらばえるまで
病み呆けるまで待つ必要もない。
という気の早い人も出てくるでしょう。
非常に
突き放した言い方になりますが
それも一つの正解でしょうね。
でもちょっと待ってください。
ではなぜにそんなむなしい、カゲロウみたいな
こんなすぐ消え去る幻のような無でしかないような
人生を神は私たちにお与えになったのだろうか?
意味があるからこそ
この人生がある、、と言えないでしょうか?
人生とはしょせん
『魂の見ている夢』
にすぎないのです。
その幻の夢の中で
あなたは
生きていると錯覚して?
悩み
恋し
働き
考え
旅し
喰らい
病み
老い
というさまざまな経験をするのです。
それがつまり神の配慮なのです。
そこで何を学ぶか
或いは学ばないか
あなたは今生では、猟奇殺人鬼かもしれないし
あるいは、多くの人々を救う聖人と呼ばれるかもしれない。
いずれにしても、、、、
その人生はやがて終わる。
前者は死刑によって
後者は国葬によって
しかし、、、
誤解を恐れずに極言するなら、
この両者とも
ただ夢を見ていた
いや
見させられていた、、
だけです。
つまり人生総体として見たらイコールです。
なぜって?
人生というものは、実態が無いからですよ。
つまりすべてが夢の中での出来事でしかないからです。
俺の人生をこんな人生にしたのは社会が悪いからだ。
親が悪いからだ
人はしばしばこういいますね。
でも百歩ゆずっても
所詮その人生はあなたが選んだものでしかないというのが
真相でしょうね。
というのは人生は
そもそも真っ白ですよ。
それをカルマの色合いに染め上げたのは
あなた自身でしょ。
すべてはあなたの責任です。
言い逃れや
責任をなすりつけてはいけません。
あなたが選んだからあなたの人生はそうなった。
それが神の視座から見た真相なのですから。
あなたの人生が、たとえどうであろうと
それは悠久の時を旅するあなたのスピリットが
深いワケアッテ、そういう人生を選んだということなのです。
えー?
おれ知らないよ。
こんな不細工で貧乏で病弱で孤独で
えらんでないよ。
とおっしゃるあなた。
それはあくまでも表層的な表に現れた表面だけですよ。
その奥にはあなたがサッパリ忘れ去ってしまった深いわけがあって
神の眼から見たら至極当然なワケアッテ
その結果そうなっていると知ったら、
どうでしょうか?
人知の及ばぬ、深いわけもあるのです。
人間が決して知りえぬ理由があるのです。
だから、、
すべて黙って受け取りなさい。
それしかありません。
ただどうしても納得いかなかったら
こう言って尋ねてもいいでしょう。
「神よ、このことはあなたの御計らいなのですか?
もし、そうであるなら、そのようになれ」
と。
答えは無いでしょうが、、
それで気がすむならそれもまた良いでしょう。
いずれにしても
人生は人知や、努力や、皮算用でなんかではどうなるものでもないです。
極端な話
明日大津波で呑まれて死ぬかもしれないのですからね。
あなたがどうあがいてみても
人生はなるようにしかならないというのが
真相なんですよ。
なるようにしかならない、というか
そうなるしかない
宿命、、運命のままに、
あなたは気がついたらこの両親のもとに生まれていた。
別にあなたが「この両親のところに産まれたい」、、と切望したわけでもないでしょ?
そうして別にそうなれと思わなくたって
どんどん成長して
さまざまな人生経験をさせられて
人生の波にもまれてくしゃくしゃになって
格闘してもがいてあっぷあっぷして
ある日気がつくと
頭は真っ白顔は皺だらけ
え?
あっという間に老人です。
そしてたまたま健診を受けたら
「末期の癌です、余命1年です」
と言われて、あなたの人生も終末を迎える、、。
これが人生です。
いったい俺の人生なんだったんだろうか、
ふと、、むなしくなる。
そうして1年後あなたは亡くなる。
これが人生です。
じゃあいったい人生ってなんだったのか?
「人の子の生きている時間は限られているから
楽しめるときには楽しみなさい。
それが人間の取り分なのだから」
と、聖書では教えていますね。
まあこの言葉に尽きるでしょうね。
いずれにしても
終わりのある人生という夢時間旅行では
あなたの与えられたカルマ、、というか使命、、というか
宿命を、、償うしかないでしょう。
だから、、人生とはある意味
流刑地にたとえられるでしょう。
人生という流刑地で
あなた、、徒刑囚は
知ってか、知らずとも、あなたの罪状に応じて
罪を償うのです。
もちろん流刑地でも
お楽しみタイム?はあるのです。
囚人にも、何かの記念日にはそれなりごちそうが出るようなものです。
だからそういう時は楽しみなさい。。と。、聖書は教えてるのです。
まあ
いずれにしても
そんな徒刑囚人生も
終わりが来ます。
そして人生という夢の贖罪は終わるのです。
では
その先にはなにがあるのか?
それは簡単ににわかりやすく噛み砕いて
言うなら
もうひとつの別世界への旅立ちです。
もう一つの世界?
というかそれは想像をはるかに超えた
異次元です。
古来より
死は大いなる旅立ちといわれてきた。
私はこう言おう。
死は大いなる冒険への出発だと。
心してその時が来るのを待つがよい。
死を恐れても
死を忌避しようとしても
すべて徒労だ。
人の子は受肉した時より
死すべき存在なのだから。
死を恐れるなかれ。
といって
死を侮るなかれ。
心してその時を待つがよい。
「肉体の死は、、すべての死ではない」 エドガーケイシー
「死は、、魂の肉体からの解放にはかならない」 ソクラテス
「初秋に、風吹き結ぶ荻の堂、
宿、仮の世の夢ぞ、覚めける」
秩父観音霊場、卜雲寺 ご詠歌