ココアと夏蜜柑
昨日はあの後寮に泊まれと散々夏芽さんに食い下がられたが、堅く固辞して取っていたホテルへと戻った。
荷物は手持ちのボストンバッグ一つだけだったが完全に入社? 入隊? してしまう前にどうしても済ましておきたいことがあった。
いわゆる保険、というヤツだ。
遺産と呼べるものなんて現時点では殆どないが、万が一俺に何かあればその全てを世話になった伯父夫婦に譲渡すること。その為の手続きをしたかった。
評判の良い弁護士を事前に調べていたので早々に事を済まし、そうして半日以上時間の余裕が出来た分を観光と日用品購入に充て、ホテルへと戻って来た。
「あー……疲れた」
両手に抱えた荷物を床に置き、モッズコートを椅子の背もたれに投げた。
ぼふっとベッドへダイブするとスプリングがギシリと音を立て俺を受け止めてくれる。
一日中歩き回った所為で足がだるい。今更ながら観光をしてみたのだが荷物を持ったまま行ったのは失敗した。心なしか腕まで痛い気がする。
「明日からは寮生活かぁ。このベッドより寝心地が良いと嬉しいけどな」
中央エントランスのソファーより硬いが、それでも十分な寝心地のこのベッドは一次試験から今日まで二ヶ月近く使用していたこともあり、すっかり馴染んでいた。それも今日で終わり。
「長いこといたもんなー」
試験の度にアクアフォレストからルーヴェリアに出て来るのが面倒で、二月の頭からずっと滞在していたのだ。試験勉強に明け暮れて殆どホテルから出なかったから、こんなに長い間ルーヴェリアにいて観光をしたのは実は今日が初めてだったりする。
目を瞑り体の望むまま力を抜く。気を抜けばすぐにでも夢の中へ落ちていきそうな、ふわふわとした感覚に陥る。
「そうだ……伯父さんに連絡しておかないと」
よっと気合を入れ起き上がる。
まだミッションが残っていた。
椅子に放り投げたままのモッズコートから携帯端末を取り出し履歴から伯父宅を選択する。程なくしてコール音が鳴り「我が息子よ~!」と久しぶりに伯父の穏やかでのんびりとした声を聞いた。
「……紅葉伯父さん、俺じゃなかったらどうするつもり?」
呆れ半分嬉しさ半分、主に後ろ半分を誤魔化す様に俺は弾んでしまいそうになる声を抑えて嘆息する。
「ん? だって叶の番号だったろう?」
違うのか? と電話口で首を捻る伯父の顔が浮かんで思わず口元が緩む。
「そうだけどさ」
「それよりそっちへ行ってから一度も連絡くれなくて淋しかったぞ」
拗ねた声を出してほんの少し声を低くする。
そうなのだ。ルーヴェリアに着いてから今日まで連絡するのを失念していたのだ。昨日クゥさんの愛猫のくだりで伯父宅に預けた家族を思い出し、合格報告とご機嫌窺いをしようと電話を掛けたのだ。
「ごめん。忘れてた」
正直に謝ると今度は伯父が大袈裟に溜息を吐いた。
「冷たいな。僕と楓がどれだけ心配したか」
「全然そんな風には聞こえないよ。でもごめんなさい」
両親亡き後、面倒を見てくれた紅葉伯父さんと楓伯母さんは実家―――伯父にとっても生家に当たる―――を離れたがらない俺達の近くに居を構え見守ってくれた優しい人だ。国家保安局に入ると家を出た俺の代わりに二匹と一羽の面倒も見てくれている。
「いいさ。ああそうだ、楓にも代わってやりたいんだけどまだ仕事から戻って来てないんだ。また近い内に連絡しておいで。きっと喜ぶ」
「うん。そうする。それでさ……試験なんだけど」
「受かったんだろう?」
何の疑いもなく断定的に問われて一瞬言葉に詰まる。
「……何で分かったの?」
「むしろ受からない意味が僕には分からないな。叶の実力を考えると当然の結果だよ」
「伯父さんは俺を買い被り過ぎだと思う。あ、でも技術開発部じゃないんだ。その、詳しくは言えないんだけど」
LNについては言っても良いのだろうが、その中の部署は非公開だと言われた。伯父さんになら言っても問題ないんじゃないかと思う反面、クゥさんが言っていた様に保安局をよく思わない者に狙われる可能性が過ぎる。
どう伝えるのがベストなんだろうか。嘘は付きたくない、だけど優しい伯父夫婦に迷惑は掛けたくない。
口を噤んだ俺に、少し間を置いて伯父さんが静かに告げた。
「これは僕の勝手な想像だ。返事は要らないから聞いていて欲しい」
「うん?」
「もしもLast Noticeに配属になったのだとしたら、叶の固有能力か魔法師だということを知られていると考えていい。それかその両方かは分からないけど、技術者以上の価値があると向こうは思っている。だけどその能力を使うかは自分で決めなさい」
「どうしてLNだと思ったの?」
「覚えていないかもしれないけど、叶が小さい頃に一度だけ人前で力を使ったことがあるんだ。魔法師団も丁度その時来ていたしアレを見ていたのなら叶を欲しいと思うだろうね」
そんなことあっただろうか。記憶力はそう悪くはないと思っているが伯父さんの言うアレの記憶が無い。子供過ぎて覚えてないのかもしれない。
「覚えてないや……まぁ伯父さんの言う通りLNなんだけど戦ったりはしないところみたいだからその辺は大丈夫だと思う」
そうだよな? Last Notice【内】特殊異能課だもんな?
一抹の不安が脳裏を掠める。昨日夏芽さんが言っていたことを思い出す。「LNに入るには条件がいる。自分で自分の身を守れるだけの力と、魔法師としての才能、特出した何かしらの能力」だったっけ。
あ、微妙かも。
「…………」
「そう考え込まなくてもなるようになるよ。七年も掛けて入ったんだ。当初の目的はほぼ達成したと言っても良い。あとはこの先を考えなさい」
伯父さんの言葉はいつも俺の心を軽くしてくれる。不安定で、それでいて頑なな心が解れていく。
「うん。ありがとう。また連絡する」
「ああ、待ってるよ」
目的だけに囚われてはいけないよ? といって通信は切れた。
気付けば三十分以上話していた。そろそろ休もう。明日から忙しくなる。
「……寝るか」
そうしてたっぷりと睡眠を取った俺は翌日また保安局へと向かったのだった。
※ ※ ※
翌日。
ホテルを引き払い、俺は保安局へ続く坂道を上っていた。
ルーヴェリアの中心に位置する保安局は、緩やかな傾斜の丘の上に立っており箱庭のどこからでもその存在を確認することが出来る。
王制制度が取られているにも関わらず、中心を国家保安局が陣取っていることを考えるとその力の強さを感じさせる。王城はと言うとだ、箱庭の中ではなく、箱庭のすぐ東にそびえる山の中腹に構えてある。
「綺麗なんだけど、何か余所余所しく感じるんだよなぁ」
保安局正面門へ向っている俺からは右手に見える大きく立派な城。大戦前の城よりは随分小さく造られているそうだが、白い壁と三つの塔が太陽の光を受けてより一層輝いている。
「でもなー……」
箱庭の外に作られた城。
だが外からは入れず、城へ行くには箱庭から東の門を通る他ない。
俺は歩きながらどうして箱庭の中に造らなかったんだろうと違和感を拭い切れずにいた。
「おはよう」
「!!」
ぼんやり歩いているとふいに前から声を掛けられた。驚いて顔を上げると門のところに誰かが立っていた。
「……おはようございます! もしかして待ってて下さったんですか!?」
保安局正面門のすぐ横の塀に背中を預けていたのはクゥさんだった。
雪は止んでるとは言え、まだ道路には昨晩降った真新しい雪が積もっている。その中をスーツ姿で立ってるなんて信じられない。ルーヴェリアは堅固な壁に囲まれているがドーム状に覆われている訳ではないのだ。自然現象はダイレクトに影響を受ける。それなのに涼しげな顔で……いや涼しいのはそりゃ涼しいだろうけど、明らかに涼しいを通り越して寒いだろう。
衝撃と驚愕とで顔面蒼白になっているであろう俺をその切れ長の瞳で一瞥したクゥさんは、右手をおもむろに上げるとそのまま俺の頭にぽんっと置いた。
「気にするな。何時に来るか聞いてなかった俺が悪い。それにコレは寒暖仕様だ」
そう言って自分のスーツを見下ろす。
だから寒くないとでも言うのだろうか?
例え寒暖仕様だとしてもマイナス10℃近い世界で耐えられる代物なのか甚だ疑問だ。
「寒暖、ですか?」
「ああ」
クゥさんの頭から足元までくまなく観察する。
極々一般的な薄くもなければ厚くもないオールシーズンの黒スーツに白いシャツ。どこから見ても普通のスーツだ。
寒暖仕様なんて絶対嘘だ!! 足元はショートブーツなのでまぁこれは大丈夫だろうけど。
「うわっ! 手、冷たいですよ! ちょっと待っててください」
両手でクゥさんの空いている左手を握ると人間の体温をしていなかった。
「ああ…?」
突然大声を上げた俺に戸惑いつつもその場で待機してくれる。それを確認した俺は、全速力で門から50m程離れたところにある自動販売機に向かって駆け出した。
電子機器の発展が目覚ましい現在においても何故か自動販売機は一世紀以上前から進化しない。雨の日も風の日も今日みたいな雪の日も変わらず持ち場に鎮座している。電気供給は流石に電子魔法を利用しているが未だに人の手を介して飲み物の補充はされている。
プルタブ式、ステイオンタブ式の今や普通の店ではお目に掛かれない化石級の飲み物が自販機には並んでいる。
聞くところによると『自動販売機愛好会』たる有志が保存に努めているらしい。なので数は全盛期に比べて格段に減少しているものの、未だに現役として活躍しているのだ。
全速力で自販機へ走った俺は悩んでいた。
「コーヒー、紅茶、ココア、緑茶……夏蜜柑おしるこ」
弾む息を抑えながら商品を選ぶ。
クゥさんは何が好きなんだろう。
コーヒーも紅茶も好き嫌いが激しい。ならば無難にお茶がいいか? いや、でも昨日紅茶飲んでたよな。
「いいやコレで」
考えることをアッサリ放棄した俺はホットココアと夏蜜柑おしるこを選択した。
両手に抱えてまた全速力でクゥさんの元へ帰る。
「おっ、お待たせ……しました」
所在なさげに立ち尽くしていたクゥさんへホットココアを押し付けた。
するとぜぇぜぇと肩で息をしている俺に戸惑いを含んだ声で訊ねる。
「……くれるのか?」
こてん、と首を傾げるクゥさん。
「はい。ココアお嫌いでした?」
恐る恐る訊ねると、首を振り「好きだ」と言って口元を緩めた。
「……!」
初めて見る俺に対する柔らかな笑み。
クゥさんは目を伏せ手のひらのココアの缶を見つめる。そして一言。
「温かいな。ありがとう」
「いいえ」
じわりと広がる熱は夏蜜柑おしるこかそれとも胸の内か―――