第8話 チェス盤での推理
霧都ヴァル・ロンドリアの夜。
星霧探偵事務所は静まり返っていた。
旧天文塔の高い窓の外では、街灯の光が
霧にぼやけている。
遠くで港の鐘が小さく鳴った。
室内にはわずかな灯り。
机の上の燭台だけだ。
炎が揺れるたび、壁のひび割れた
星図が影を落とす。
そして机の中央には
チェス盤。
黒と白の盤面の上に、駒が整然と
並んでいた。
オズワルドは椅子の背にもたれて言う。
「また始まりましたね」
「師匠のチェス推理」
ミレイアは何も言わない。
彼女は窓の外を見ている。
街の奥で、まだ黒猫たちの不安の
余韻が漂っている。
そのとき。
カチ。
アレクシスが駒を一つ動かした。
静かな声で言う。
「この事件は」
「盤上の戦いだ」
オズワルドが身を乗り出す。
「戦い?」
アレクシスは駒を並べ替えた。
そして一つ一つ指し示す。
♚キングを置く。
「キング」
「霧都ヴァル・ロンドリア」
都市そのもの。
次に♕クイーン。
「クイーン」
「ドクター・ハロルド」
ミレイアが小さく目を伏せる。
あの研究棟の男。
冷たい知性の気配。
アレクシスは続ける。
■ポーンをいくつか並べた。
「ポーン」
「黒猫」
小さく弱い存在。
だが盤面を動かす駒。
オズワルドが腕を組む。
「猫がポーンか」
「なるほど」
次にアレクシスは♞ナイトを持ち上げた。
独特な形の駒。
「ナイト」
「音」
予測不能な動き。
跳躍。
反射。
霧都の路地を飛び回る猫の声。
そして
♖ルーク。
重い城の形をした駒。
アレクシスは盤の端に置く。
「ルーク」
「音の導管」
都市の地下に伸びる管。
音を運ぶ道。
オズワルドが唸る。
「なるほど……」
「全部揃ってる」
アレクシスは駒を動かし始めた。
カチ。
■ポーンが前へ進む。
「黒猫だけが消える」
カチ。
♞ナイトが跳ねる。
「声は空から聞こえる」
カチ。
♖ルークが一直線に進む。
「音の導管」
ミレイアが静かに言う。
「猫の鳴き声は」
「録音されたもの」
「都市に流された」
アレクシスが頷く。
盤上の駒が次々と動く。
■ポーン。
♞ナイト。
♖ルーク。
それぞれの位置が
一つの形へ収束していく。
オズワルドが息を飲む。
「……繋がった」
アレクシスが言う。
「ハロルドの理論」
「魔力共鳴音響学」
彼はナイトをクイーンの前に置いた。
「音で魔力を観測する」
♖ルークが進む。
「導管で都市に音を流す」
■ポーンが進む。
「黒猫が魔力を感じて鳴く」
そして。
すべての駒が
一つの陣形を作る。
アレクシスの声が低く響いた。
「つまり」
「霧都そのものが」
「巨大な実験場だった」
オズワルドが立ち上がる。
「都市規模の実験!?」
ミレイアが静かに言う。
「だから」
「黒猫は恐怖していた」
「魔力の流れが」
「強制的に動かされたから」
アレクシスは最後の駒を持った。
♕クイーン。
ドクター・ハロルド。
彼はそれを盤の中央へ置く。
「すべての駒を動かしたのは」
「この男だ」
オズワルド
「でも逃げた」
アレクシスは静かに頷く。
「そうだ」
「だが」
彼は♚キングに手をかけた。
都市。
霧都ヴァル・ロンドリア。
駒をゆっくり倒す。
コトン。
燭台の炎が揺れる。
そしてアレクシスは言った。
「謎は解けた」
静かな声。
しかし確信に満ちている。
彼は盤を見つめたまま続けた。
「チェックメイトだ」
その瞬間。
事務所の窓の外で
一匹の黒猫が鳴いた。
「にゃあ」
モルガナだった。
事件は終わった。
だが。
アレクシスはまだ気づいている。
これは終わりではない。
盤上には
まだ一つの駒が残っている。
♕ドクター・ハロルド。
そして遠く霧の向こうで
その天才は
次の一手を考えていた。




