第10話 神獣の降臨
霧の奥で草が揺れた。
ヴゥゥゥ……グルル……
低い唸り。
そして黒い影が現れた。
巨大な黒い犬。
筋肉が浮き上がる体。
赤く光る瞳。
集会場の重い扉を頭で押し開け入って来たのは、
魔獣犬 パブス。
村人の誰かが叫ぶ。
「神獣様じゃ……!」
「神獣様が現れたぞ……!」
ざわめきが一気に広がる。
パブスはゆっくりと集会場の入口まで歩いてきた。
重い足音。
しかしその動きは、獣の荒々しさとは違う。
静かで、正確で、無駄がない。
まるで戦場を歩く兵士のようだった。
アレクシスは一歩前へ出る。
「……なるほど。」
彼はガルム警部補に視線を向けた。
「警部補、警棒を少しお借りできますか。」
ガルムは無言で警棒を差し出す。
アレクシスはそれを受け取った。
そして
一気に踏み込んだ。
目標はただ一人。
ガブリエル・ロウ。
「あなたがすべての始まりだ!」
アレクシスが警棒を振り上げた瞬間だった。
――ドンッ!!
黒い影が床を蹴った。
一瞬。
いや、瞬きより早い。
パブロの身体が空中を裂いた。
巨体とは思えない跳躍。
床から二メートル近くを一息で飛び越える。
警棒が振り下ろされる前に
パブスはアレクシスの前に着地していた。
床板が鳴る。
ヴゥゥゥ……グルル……
低い唸り。
牙が月光を反射する。
アレクシスの動きが止まる。
その距離、わずか一歩。
もしパブスが踏み込めば、アレクシスの喉は一瞬で噛み砕かれる。
ガルム警部補が呟く。
「……速い。」
「さすが軍用犬。」
パブスは動かない。
ただガブリエルの前に立ち、身体を斜めに構えている。
前足はわずかに曲がり、
後ろ足は地面を掴む。
突進の構え。
軍用犬の戦闘姿勢。
アレクシスはゆっくり息を吐いた。
「なるほど。」
「完璧な防御ですね。」
魔獣犬パブスは目を離さない。
瞳は鋭く、計算している。
相手の動き。
重心。
距離。
すべて読んでいる。
犬は人間よりも身体能力が高い。
短距離の加速、跳躍力、持久力。
反射神経。動体視力。
視覚、聴覚、嗅覚、噛む力。
全て人間より上だ。
陸上で戦うなら
犬は最強の捕食者の一つだ。
熊にだって飛び掛かる。
群れの犬たちなら、巨大な獲物を倒す。
その本能が、この一頭に凝縮されている。
パブスは低く唸る。
だが攻撃しない。命令を待つ。
アレクシスは警棒を下げる。
するとバブスは
ゆっくりと後ろを振り向いた。
視線の先。
ガブリエル・ロウ。
老人は黙って立っている。
次の瞬間。
パブスはその場で静かに腰を下ろした。
ピタリと背筋を伸ばす。
耳を立て、尾を止める。
完全な軍用犬の待機姿勢。
犬としての完璧な服従。
まるで忠実な兵士のように。
村人たちの顔が青ざめる。
アレクシスの声が静かに響いた。
「軍用犬は」
蝋燭の火が揺れる。
霧が床を這う。
「命令者を絶対に忘れない。」
沈黙。
魔獣犬パブスは微動だにしない。
ただ
ガブリエルの前で命令を待ち座り続けている。
それだけで十分だった。
村人たちは理解した。
真実を。誰がこの魔獣を動かしていたのかを。




