第1話 規制する管理人
ヴァン・ロドリア南区。
灰色の運河に面して、煉瓦造りの五階建てがそびえている。
グレイフォード・リバーサイド館。
外観は優雅だ。
黒鉄の手すり。
アーチ窓。
夜にはガス灯が淡く霧を照らす。
だが、その内部には息苦しさがあった。
管理人、トマス・イヴァリング(五十八歳)。
痩せた体。
撫でつけた灰色の髪。
秒単位で時を刻む懐中時計。
彼は規則を愛していた。
いや。
規則だけを愛していた。
廊下の掲示板は、紙で埋め尽くされている。
「午後十時以降、水道使用禁止」
「来訪者は事前申告制」
「窓の開閉は一日三回まで」
「私語は廊下では三十秒以内」
「笑い声は騒音に準ずる」
住民たちは言う。
「息も申請が必要だ」と。
夜になると、イヴァリングは回廊を巡回する。
足音はない。
だが、必ずいる。
誰かが玄関を開ければ、十秒以内に内線が鳴る。
「今、何分遅れましたか」
「廊下に滞在しすぎです」
「その客人は申請済みですか」
監視室には分厚い帳簿。
帰宅時間。
水音の長さ。
足音の回数。
異様なまでに正確な記録。
そして赤いインクでつけられた“違反印”。
住人の誰もが、その印を恐れていた。
三階に住む看護師、ミア・ホルブルックは夜勤帰りに何度も呼び止められた。
「夜間出入りは不審です」
四階の記者、ライル・ハートマンは規則批判の記事を書こうとして脅された。
「館の秩序を乱せば退去を勧告します」
二階の半狼人ドーランは、足音を理由に罰金を科された。
地下に住む影喰いのリゼルは、監視カメラの設置で衰弱した。
最上階の堕天使ノアは、双眼鏡の所持を「監視行為」と非難された。
悪魔セレスティアですら、彼の執拗さには辟易していた。
人間も。
怪物も。
悪魔も。
全員が、彼を恨んでいた。
だがイヴァリングは気づかない。
いや、気づいていても意に介さない。
彼にとって重要なのは、
“秩序”。
「規制を破る者には、罰を」
それが口癖だった。
ある夜、彼は監視室でひとり呟く。
「この館は、私が守っている」
赤いランプが、暗闇で瞬く。
その光はまるで、虫の複眼のようだった。
住人たちは、彼をこう呼んでいた。
規制虫。
這い回り、見張り、縛る者。
そして
その規制虫は、やがて潰される。
運河に霧が立ちこめる朝。
グレイフォード・リバーサイド館で、
最初の悲鳴が上がることを、
この時まだ誰も知らなかった。




