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0.3秒の永遠

作者: 森の ゆう

人生に劇的な展開など、そうそう起こるものではない。

 二十八歳の夏、木下航はそんな諦念とともに、湿り気を帯びた駅のホームに立っていた。仕事は順調で、それなりの給料をもらい、友人ともうまくやっている。だが、毎日が淡々とコピーを繰り返すように過ぎていく。地下鉄の駅から地上へ出ると、空は鉛色に濁り、不穏な風が駅ビルの隙間を猛烈な勢いで吹き抜けていた。

 遠くで低く、獣が喉を鳴らすような不気味な雷鳴が聞こえる。間もなく、バケツをひっくり返したようなゲリラ豪雨が街を襲った。雨粒は重く、アスファルトを叩く音はもはや打楽器の乱打のようだった。人々は悲鳴を上げて駅の軒下へ逃げ込み、ビニール傘があちこちで開いていく。傘を持ち合わせていなかった航は、ホームの端にある待合室の軒先で、雨をやり過ごすことにした。

 世界が激しい雨音に塗りつぶされる。アスファルトが焼けて跳ねる独特の匂いと、生暖かい風が鼻を突く。ふと、視線の先に一人の女性がいた。

 彼女もまた、傘を持っていないようだった。ホームの反対側、下り線の番線にある鉄骨柱の影で、真っ直ぐに雨を見つめている。紺色のワンピースが、湿った風に煽られて小さく揺れている。周囲が雨に焦り立ち去る中、彼女だけが彫像のように静止し、どこか遠い海でも見ているような、寂しげで、それでいて凛とした横顔だった。

 その時だった。

 ――カッ、と。

 天から巨大な光の槍が突き刺さったかのような、暴力的なまでの白光が世界を灼いた。至近距離への落雷。音よりも先に光が届き、航のすべての視覚を支配した。その瞬間、彼の脳内で時間は奇妙な歪みを起こし、一秒にも満たない「0.3秒」という時間が、無限に引き延ばされたスローモーションへと変貌した。

 白一色に染まった視界の中で、航の意識は異様に冴え渡っていた。光に透けた雨粒の形が、ダイヤモンドの礫のように空中に静止して見える。その光の粒子の中に、彼女がいた。

 驚きに見開かれた彼女の瞳。その中には、自分を照らしている稲妻の分岐したフォルムが、鏡のように映り込んでいるのが分かった。彼女の唇がわずかに戦慄き、真珠のような白い歯がのぞく。風に舞い上がった紺色の裾、首筋を滑る雨の一滴が閃光を反射して銀色に輝き、ゆっくりと肌を滑っていく。

 航の脳内には、これまでの退屈な日常が色褪せた断片としてよぎった。灰色のオフィス、無機質なパソコンの起動音。それらすべてがこの一瞬の放電によって焼き切られ、灰になって霧散していく。空気が帯電し、肌の産毛が逆立つ。それは魂が待ち望んだ「変化」への合図だった。心臓が跳ね、全身の血管を流れる血が、一気に熱を帯びて沸騰する。

 現実が再び動き出す。

 遅れてやってきた凄まじい轟音が、駅の屋根を激しく震わせた。視界が色を取り戻し、世界は再び雨に支配される。しかし、航の瞼の裏には、あの白光の中の彼女が鮮明な「残像」として焼き付いたままだ。目を閉じても、開いても、彼女という存在が視界にこびりついて離れない。

(……ああ、これだ。これが、稲妻だ)

 理屈はなかった。彼女がこちらを向き、視線が雨を突き抜けて重なった。向かいの番線に電車が滑り込む。彼女は呆然と胸元を押さえ、車内へ吸い込まれていく。ここで動かなければ、この残像はいつか摩耗し、完全に消えてしまうだろう。それだけは、耐え難かった。

 航は走り出していた。階段を駆け上がり、連絡通路を猛烈な勢いで突き抜ける。濡れた革靴がタイルの上で滑りそうになるたび、壁を蹴って体勢を立て直した。心臓は狂ったように、あの稲妻のリズムを刻み続けている。

 ホームに降り立った瞬間、無情な発車メロディが鳴り響いた。閉まりかけるドアに航は手を差し込み、強引に車内へ飛び込んだ。冷房の効いた静かな車内で、彼は自分の激しい呼気と鼓動を噛み締めながら、彼女の元へ一歩ずつ歩み寄った。

 彼女の目の前で足を止める。肩で息をしながら見つめる彼女の瞳には、まだ先ほどの稲妻の残光が宿っているように見えた。

「……あの」

 航は掠れた声で切り出した。「今、光りましたね。……世界で一番、強く」

 彼女は一瞬目を見開き、やがて視界を塗り替えるほど鮮やかに微笑んだ。

「はい。……本当に。あんな光、私、初めて見ました」

 電車がゆっくりと動き出す。ガタン、と揺れた拍子に、二人の距離がぐっと縮まった。一瞬の閃光がもたらした残像は、今、確かな体温と鼓動を持って目の前にある。二人の間に流れる見えない静電気は、消えることなく、新しい物語の始まりを熱く告げていた。

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