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御光経祭 ~ただ一度だけ、光に還る~

作者: ルブルなGπ

――御光経祭の夜明け前──


夜はまだ深く、社殿の奥には冷たい静寂が張りついていた。

 灯火は細い炎を揺らし、その光が白木の柱を淡く照らす。

 紙垂が風もないのに微かに震え、息遣いひとつさえ慎む空気が満ちる。


 今宵行われるは秘儀、御光経祭みひかり・へみつ・さい

 天より降りる光を人の身に通し、浄め返すための祭。

 神道の降ろしと、陰陽道の巡らせがひとつとなる調律の儀。

 ここに集う者は、選ばれし者ばかりであった。


 社殿中央に立つ女性──愛美。

 選ばれた家系、澄んだ気脈、揺れぬ意志。

 この三つを備えた時、人は「器」となる道を許される。


 身にまとうは、白布を静かに巻いただけの浄衣。

 胸を締めつけず、肌を露にせず、ただ呼吸の律を邪魔しないための装束。

 にもかかわらず、いや、だからこそ、その輪郭は清らかな緊張を纏っていた。


 愛美の体躯は、祈りの形そのものだった。

 身長一六五センチ、胸九十三、腰六十、腰骨から腿にかけての八八。

 肩は柔らかく、鎖骨は薄く光を受ける弧。

 腹は深く静かな呼吸の度にわずかに上下し、肋の影が意志の強さを示す。

 腿は大地を抱くようにしなやかで、芯を宿し、立つだけで“祈る姿”となる。

 それは人に見せるための美ではなく、光を通し返すための形だった。


 社殿は檜の香りに満ち、磨かれた床は灯火を薄く返す。

 壁には繧繝縁、天井には淡金の勾玉紋が静かに連なる。

 俗を拒み、清を抱く──ただそれだけに建てられた空間。


 白の袍を纏う神職たちは、山のごとき背筋を崩さぬ。

 浅黒の冠、檜扇、浅黄の行縢。

 言葉を発さずとも、場を清める気配がある。


 その対面には五名の陰陽師。

 衣は漆染めの藍、袴は深緋、胸元には銀の結界珠。

 袖口を走る極細の刺繍は、見えざる線を紡ぐ呪の証。

 額に白布を巻く者、髪を一束に結う者──どれも研ぎ澄まされた若さを持つ。

 神が降ろす光を、人の経脈に巡らせる。

 光の調律者として選ばれた、将来を嘱望される才たちだ。


 その中の一人、まだ二十を少し過ぎたほどの青年は、愛美を目にした瞬間、胸にわずかな熱を覚えた。

(……これほど、澄んだ形……)

 白布の隙間に存在する曲線。

 それは露わではないのに、清浄ゆえに、わずかに心を揺らす。

 祈りのための身体が、ふと“人の美”に触れさせる瞬間。


(……いけない。これは影だ)


 彼は眼を伏せ、指を組み、丹田へ息を沈める。


「陰帰し、陽巡り、欲念去りて、清しきみたまに返らん」


 影は人に宿る。

 だが、ここにいる限り、それは祓われねばならぬ。

 己の内の温度を認めつつ、すぐに鎮める。

 それこそが、調律者としての務め。


 その時、老巫が金箔を載せた盆を抱き、静かに進み出る。


「これより、御光を受ける道、整えます」


 愛美は一礼し、瞼を伏せる。

 恐れも羞もない。

 ただ、光を通す器として、この身を差し出す覚悟のみがあった。


 灯火が細く揺れ、金の粒が温度を宿したように光を返す。

 空はまだ深紺、東の端だけが白く滲み始める。


 ──光が降りる刻は、すぐそこだった。



――金箔のかんのとき──


 老巫が持つ盆の上で、薄い金の粒が微かに揺れた。

 燭の炎が触れるたび、金は光の息を吸い、吐き出すように瞬く。

 この粒が、いまより人の身体を光のへと変える。


「始めます」


 老巫の声は、風のない朝にひと筋落とされた水滴のようだった。

 愛美は静かに両の腕を解き、体側に揃える。

 肩の位置は乱れず、背骨は一本の光柱のように真っすぐ。

 深い息を吸うと、白布の内側で肋が淡く浮かび、呼気とともに静かに沈む。


 その呼吸の律こそ、器の証。

 肉体はただ“ある”のではなく、光が通る道として整えられている。


 老巫が筆を水に浸す。

 清めの水。山霊の湧き水に、神前の塩が少量溶かされていた。

 筆先から、水の粒がひとつ金箔へ落ちると、薄板はふわりとほぐれ、金の霧となる。


「胸上――一点、降ろす場所」


 筆が愛美の鎖骨の間に触れる。

 金の粒が皮膚に乗ると、彼女の肌は冷たさを受け入れ、すぐに温もりへと変えた。

 金箔は溶けるのではない。

 肌に呼吸し、肌に留まる。


(光は、一度受け、巡り、返る)


 愛美は胸の奥で言葉を反芻した。

 身体が聖域となるとは、己を消すことではない。

 己の意志ごと、神へ差し出すことだ。


 次に、喉下へ。

 続いて、胸の左、右。

 心臓を挟むように、三つの点が置かれる。


しん、息、めぐ


 老巫が古詞を重ねると、金の点は微かに震え、まるで脈を持つかのように輝きを深めた。


 整った呼吸に合わせて、金がかすかに明滅する。

 肉体と光が、既に繋がり始めている。


 陰陽師たちはただ見守るのではない。

 五つの立ち位置は微妙にずれ、愛美の周囲に見えざる線を張る。

 結界ではなく、循環のみち


 その中心、若き陰陽師は目を伏せながら、彼女の胸元に宿る光の震えを感じ取った。

 それは官能ではなく──生の熱。

 しかし、そこに人としての感覚が微かに触れる瞬間、内に波紋が生まれた。


(……美しい。だがこれは、人の美か。それとも──器の美か)


 胸が熱を帯び、喉がわずかに乾く。

 この熱は、人のさがか。それとも、光の前に震える魂の反応か。

 答えはまだわからない。

 だが、この揺らぎをそのままにすることは許されぬ。


 彼は印を結び、低く息を吐く。


「身は器、心は道。われ、影を祓う。」


 影が払われると、残るのは敬意だけ。

 神に、儀式に、そして器となる肉体に。


 その間にも金は増えていく。

 両肩、上腕、胸骨の線、みぞおち、そして腹の中央。

 点は線となり、線は細い川のように光を集める。


「次、息の道を開きます」


 老巫の言葉とともに、筆が愛美の腹の中心に触れる。

 深く静かな呼吸が、金の線を震わせる。

 光が動き始めた。


 胸から腹へ、腹から腰骨へ。

 金の流れは、まるで身体をなぞる神の指先。

 人の形は、ただ肉ではなく、光を通す管であると示す。


 愛美は目を閉じる。

 恐れはない。

 ただ、まだ降りきらぬ光の気配に、身が細く震えた。


(これから私は、光の道になる)


 決意ではない。

 その先にある静かな帰依。


 老巫が筆を離し、金箔が陽の前触れのように揺れた。


「第一の姿──立ち姿、正しき柱」


 愛美は両足を肩幅に開き、指先を揃え、顎をわずかに引く。

 動きは緩やか、しかし一切の迷いが無い。


 陰陽師たちが息を揃える。

 神職たちの祝詞が、低く、深く、空間を震わせる。


「祓え給ひ清め給へ、神ながら守り給ひ幸へ給へ──」


「陰陽殊無く、光を巡らせ、道を正す──」


 祝詞と呪が重なり、空気がわずかに震えた。

 光はまだ降りていない。

 だが、すでに光の通り道が形を得てゆく。


 静寂のなか、空の色がわずかに薄くなる。

 まだ夜。だが、夜ではいられない時間。


 金の線が、愛美の体で微かに脈をはじめた。


 ──儀式は、胎動した。



――光巡のこうじゅんのとき──


 息が、世界を縫うように静かだった。

 立姿の愛美は動かない。だが、動かざるものほど、よく“流れ”を示す。

 金の線は胸の中心から腹へ、腹から腰へ、ひとすじ強く脈打ち、

 それは外の空気までも引き寄せるように淡く響いた。


 神職たちの声が再び重なる。

 祝詞は響きではなく、引き出すものだ。

 潜む光を、地から、空から、そして人の内から。


「祓え給ひ清め給へ──」


 陰陽師たちは印を組み、息を一定の深さで刻む。

 呪は、光を無理に喚ぶのではなく、通すための道を解す。


「陰、静まり、陽は息に宿る──巡りて、道と成れ」


 空気がわずかに揺らいだ。

 まだ光は降りない。だが、世界が呼吸を合わせ始めた。


「半立へ」


 老巫の声とともに、愛美の膝がわずかに折れる。

 完全に座り込むことなく、立ちと座の間。

 背は崩れず、むしろ柱が深く地に根を伸ばすような静の力。


 金箔が薄く震え、胸と腹の線が呼吸と共に光を押し返す。

 まるで、外から押し寄せるものと、内から湧くものが、

 一点で結ばれ、均衡しているかのように。


(私はまだ“形”だ。光を宿すには足りない。

 けれど、形であるからこそ、道になれる)


 愛美の瞳は閉じられているのに、

 まぶたの奥で“なにか”が動く気配があった。

 恐れではない。畏れですらない。

 迎え入れる覚悟の脈。


 若き陰陽師は、半立の静を見つめて思う。

 人の身体が、これほどまでに“儀式の器”になるのかと。

 筋肉の線、骨の角度、息の深さ──それらが

 ただの肉体でなく、経路となっている。


 その美に、ふと胸が揺らぐ。

 肉体に惹かれたのではない。

 “肉体を超えようとする意志”に、心が触れてしまう。


(……違う。これは崇拝の芽だ。影ではないが、光でもない)


 彼は印を組み直し、低く唱えた。


「感に溺れず、敬に帰す。

 我、道の端に立ち、影を持たず。」


 影は退き、誠だけが残る。

 愛美は気づかぬまま、ただ柔らかく息を吐く。


「跪きへ」


 愛美は両膝を静かに地へ落とし、

 背筋を伸ばしたまま、ゆるやかに頭を垂れた。

 跪くという姿は、屈ではなく開きだった。

 地へ、自らの中心を委ねる姿。


 金の線が腹の中心で光を強める。

 地の気を吸い、天の気を待ち受ける構え。


 神職の声が低く深まる。


「坐すにあらず、伏すにあらず、

 ただ道をひらき、ここに在り」


 陰陽師の呪が追う。


「陰は抱き、陽は満ち、

 巡り止まらず、ひらく門となれ」


 体内の気が、金線と呼応した。

 愛美の胸が淡く震え、喉奥から熱がひと筋こぼれる。

 それは声ではなく、息の祈り。


(私は捧げられているのではない。

 私は結ばれようとしている。

 天と、地と、光と、息と──)


 空はまだ薄闇。

 だが、闇はもう中心を失い、

 光の胎動だけが残っていた。


 跪いた愛美の額先で、金箔がかすかに揺れ、

 影の中に、微弱な光の脈を生む。


 ──光は、まだ降りていない。

 けれど、世界はすでに光の形をしていた。



――光降のこうこうのとき──


 跪く姿勢のまま、愛美は呼吸を深く落とし込んでいた。

 胸と腹の金線は、皮膚の上で光脈となり、ひと息ごとに脈打つ。

 その震えは、鼓動ではなく、迎えの鼓動だった。


 老巫が静かに扇を開く。

 その動きに合わせ、神職が一歩前へ進む。

 結界ではない。制御でもない。

 ただ“受け入れる空間”が、広く、厚く、ここに築かれる。


 空がわずかに白む。

 夜と朝の境がほどける一瞬。

 世界にまだ“色”がない時間帯。

 光が、形を得る前の瞬間。


「次──四つの姿へ」


 愛美は両手をそっと床に置き、膝を保ったまま上体を前へ傾ける。

 四肢が地に触れ、背線は静かに伸びた。

 動きは柔らかく、それでいて迷いがない。

 まるで、人ではなく祈りそのものが動いているかのようだった。


 肩から腰にかけての金の線が、淡い顫音を帯びる。

 肩甲骨が静かに開き、背の呼吸が深くなる。

 腹の奥で気が巡り、腰の中心に熱が灯る。


(降りてくる……)


 愛美は意識の奥で微細な光を感じ始めた。

 視界は閉ざされている。

 けれど、閉ざされた先に明るさがある。

 光はまだ触れていない。

 だが、確かに、近い。


 若き陰陽師の喉が静かに動いた。

 四肢を地につけ、背をひらく愛美の姿に、

 彼は“ひれ伏す美”ではなく、天と地を結ぶ斜線の美を見た。


(肉体を、ここまで祈りに変えられるのか……)


 そこに、俗の熱はなかった。

 ただ、“形が祈りに変わる瞬間”を目撃する震えだけがある。


 だが、心の奥で、別の声がささやく。

(美だ。これは美だ。光が降りる前から、すでに──)


 直後、彼は自らの胸に手を当てて呪を重ねた。


「美に溺れず、ただ道を視る。

 欲ではなく、敬を以て、形を尊む。」


 呪に揺らぎがない。

 それは戒めではなく、誓いだった。


 老巫が声を上げる。


「座姿へ──結びの姿」


 愛美は静かに膝を寄せ、背を正し、床へ坐した。

 両の掌を腿の上に添え、胸元の金線が光を待ち受ける。

 膝はわずかに開き、足先は柔らかく揃う。

 羞恥の形ではない。

 光が通る“門”の姿。


 その様子に、神職が祝詞を昇らせた。


「高天の光、ここに降り、ここに巡りて、

 人を通し、地を清む。

 穢れなく、ただ清し──」


 陰陽師の呪が、低く重なる。


「陰は抱き、陽は満ち、

 巡りて、光、還る。」


 音が重なる。

 祝詞は天を開き、呪は地を開く。

 その中央に、愛美の身体が“道”として存在する。


 空の白が、ひときわ強くなる。

 闇の残滓が散り、光が色を持つ直前の匂いが風に乗った。

 金箔が、音もなく揺れる。


 愛美の胸の奥が震えた。

 それは寒さでも、緊張でもない。

 光に触れかけたときの、心臓の覚醒。


(来る──)


 外の世界はまだ音を失ったまま。

 けれど、空気の密度だけが変わっていく。

 気配はすでに空を覆い、

 光は、まだ姿を持たぬまま、門に触れようとしていた。


 そして──


 地が息を吸った。


 世界が、光を迎えるために、

 一瞬だけ止まった。


 次の瞬間、降りる。



――光還のひかりかえるのとき──


 坐した愛美の膝は、ゆるやかに開かれていた。

 それは逸脱ではなく、光が通るための門。

 脚は力ではなく、祈りの角度で大地を抱く。

 背は凛と伸び、胸郭は静かに広がり、人の姿でありながら、

 すでに人という範疇の輪郭から離れかけていた。


 金箔が脈動し、腹の中心から胸へ、

 胸から喉へ、喉から額へ、

 光脈がひとつの河となる。

 肉体は、ただそこにある“器”ではなく

 **光のみち**そのものとなりつつあった。


 その時だった。

 若い陰陽師が、息を呑んだ。


(美だ……いや、これは──道だ)


 胸奥に、熱にも似た圧が走る。

 抗おうとした心がほどけ、

 抗うことが不遜だと悟る。


(引きずられるのではない

 ただ、呼ばれているのだ)


 その気づきは、堕ちる甘さではなく、

 覚悟に似た痛みだった。


 彼は一歩、そしてもう一歩、前へ進んだ。

 周囲の空気が震え、

 その踏み出しは“欲”ではなく“帰依”の動作だった。


 指が組まれ、静かに九つの印が紡がれる。


臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前──

 急々如律令


 声は澄み、迷いはなく、

 彼自身が“祈りの器”となる。


 すると、光が愛美の体からひと息ふるえた。

 世界が、わずかに鳴る。

 音ではなく、気配が震える。

 まるで誰かが、優しく名を呼んだように。


 他の陰陽師たちも、迷わなかった。

 理解ではなく、共鳴。

 次々と印が切られ、低い呪が重なる。


臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前──


 祝詞と呪、息と光、肉体と気脈。

 全てが、天に渡される一本の線に収束する。


 愛美の呼吸が止まった──

 止めたのではない。

 必要なくなった。


(わたしは、もう誰でもない

 でも、消えてはいない

 いま、ただ

 道でいたい)


 その意識は、祈りとも、夢とも、死とも違う。

 人を超えるのではなく、いっとき人を外れる境地。


 光が降りた。


 それは眩しさではなく、

 音を飲み込むほどの静寂だった。


 膝の角度も、肩の線も、指先の震えも、

 すべてが“形の意味”として存在していた。

 肉ではなく、気でもなく、

 ただ光の通路。


 陰陽師たちの呪が一つに重なり、

 神職の祝詞が静かに包む。


 そして、光は巡り、

 愛美の胸から、腹から、大地へと還っていく。


 その瞬間、愛美の目蓋がわずかに震え、

 人の呼吸が帰ってきた。


(……ただいま)


 その短い心声は、誰に向けられたものでもなく、

 世界に向けた“再び人として在る”宣言だった。


 光は消えない。

 ただ静かに、世界へ広がっていった。


 儀式は終わり、

 誰もが声を持たなかった。


 拍手はない。

 称賛もない。

 ただ、静寂と息だけがあった。


 人は光を通し、光は人を選んだ。

 それだけで充分だった。



――人の名にかえる──


 光が満ち、巡り、還りきったあと、社殿は深い静寂に沈んでいた。

 熱も風も音もなく、ただ、終わりではなく“完了”という気配だけが漂う。


 愛美は、膝を揃え、背をゆっくりと伸ばした。

 その動作には力がいらなかった。

 身体が軽い──というより、重さという概念が一時的に抜け落ちたようだった。


 呼吸をひとつ。

 肺に空気が戻ってくる。

 胸に宿った光は、いまはもう外へ旅立ち、

 残っているのは、ただあたたかい余白だけ。


 視界が戻る。

 だが、色はまだ薄い。

 世界がゆっくりと輪郭を取り戻す過程に、愛美の意識が寄り添う。


 ほんの数息前まで、自分は「人ではない何か」に在った。

 そこに思考はなく、意志だけが脈打ち、

 世界は光と呼吸だけで満たされていた。


 そして今、

 筋から戻る重さ、骨の存在、皮膚の感触──

 “身体に帰還する”という現象を、静かに味わう。


 神職たちは頭を垂れている。

 陰陽師たちも、呪を解き、深い礼を捧げた。

 拍手も、歓声もない。

 この場では、沈黙こそ最高の祝詞だ。


 ただその中に、一人、若い陰陽師だけが目を上げていた。

 視線が合う。

 互いに言葉はなかったが、

 その眼差しには、「見た」という真実が宿っていた。


 堕ちたのではない。

 恋でも敬慕でもない。

 祈りを通して、同じふちを一度だけ踏んだ者の証。


 愛美は静かに息を吐き、目を伏せた。

 その仕草に、若い陰陽師は胸の奥に小さな灯火を覚え、

 すぐにその灯を祓うように、ひとつ印を結んだ。

(敬意を忘れるな。あれは人であって、人ではなかった)


 老巫が進み出る。

「……お還りなさいませ、愛美さま」


 愛美は頷き、白布を結び直す。

 金箔は、既に光を失い、細片となって肌から離れ落ちていく。

 まるで役目を終えた蝶の羽が、土へ帰るように。


(ありがとう)

 誰に向けた言葉か、自分にもわからない。

 ただ、光と、この身体に、そしてこの朝に。


 社殿を出ると、庭の石畳が薄い霜に光っていた。

 空はもう黎明ではなく、淡い金色の朝になっている。

 風がそっと頬を撫で、髪が揺れた。


 遠くで鳥が一声、鳴いた。

 世界は動き始めていた。

 しかし、ここだけはまだ、時間が戻りきっていない。


「では、下がりましょう」

 老巫の声で、ようやく人々は静かに散り始めた。


 愛美は一歩、また一歩と歩き出す。

 足裏に石の冷たさを感じる。

 ――それが嬉しかった。


(私は、帰ってきた。

 神ではなく、巫女でもなく、

 器でもなく。

 ただ、愛美というひとりの人間として)


 その確かさが、光よりあたたかかった。


 そして、誰にも聞こえないほど小さく、

 唇が動いた。


「……またいつか、道を開けますように」


 祈りではなく、願いでもなく、

 静かな誓いだった。


 朝の光が、そっと彼女の肩に降り注ぐ。

 いまはもうただの人に過ぎない少女の背に、

 光は、かすかに寄り添い、そして空へ帰った。




■後書き■


 本作は、神事・祈り・身体の美学をテーマにした創作儀礼譚です。

 官能ではなく、肉体が“祈りの構造”になる瞬間の神秘を描きたくて書きました。


 “器”とは、空になることではなく、

 何かを宿し、返し、再び人に戻るという往還だと思っています。


 そして人が人でなくなる瞬間は、

 決して堕落ではなく、時に最も人間的な高みになり得ます。


 愛美は神になるのではなく、

 一度だけ「人という枠を外し」、

 それでも「人に戻る」道を選びました。


 儀式を通して、

 欲と敬意、熱と静、個と世界、

 それらが交わり、揺らぎ、整う。


 性ではなく、

 “在り方”が追い詰められ、洗われる瞬間。


 その光の一端を、読んでくださった方と共有できたなら嬉しいです。


 また次の光の物語で会いましょう。

 御覧いただき、ありがとうございました。


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