8.『魔法の鏡』じゃなくない!?
夜が更け、静寂が王宮を包み込む頃、わたくしは執務室を離れて秘密の小部屋に行った。
冷えた小部屋の奥には、一枚の鏡がある。
「……鏡よ、鏡。壁にかかっている鏡。わたくしは間違っていないかしら?」
囁くように問いかけると、鏡の中から、あの低くて穏やかな声が返ってきた。
『あなたはブランカ王女殿下を慈しんでいる。それだけで、誰よりも強く、誰よりも美しいと、私は思う』
わたくしは鏡に映っている自分の顔を見つめる。
そこには、かつてのような怯えた表情はなかった。
鏡の中のわたくしは、穏やかにほほ笑んでいた。
――いつからだったのだろう。
ああ、きっと『ブランカの本物の母になる』と決めた日からだわ。
わたくしは『白雪姫の継母』であることを恐れなくなった。
だいたい、わたくしはもうルドルフの愛など欲していないしね。
「鏡よ、鏡。壁にかかっている鏡。どうして、そんなにやさしくしてくれるの?」
秘密の小部屋に、沈黙が落ちる。
やがて、鏡の奥から真摯な声が響いた。
『あなたはずっと孤独だった。そんなあなたを、なぜか放っておけなかった』
鏡の言葉に、胸の奥が熱くなる。
わたくしはゆっくりと目を伏せて、震える手を握りしめた。
「なんだか……、口説かれているみたいだわ……」
わたくしは前世を思い出してからも、ずっと自分の心が消えていくような、嫌な感覚に苛まれていた。
そんなわたくしが自分を保っていられたのは、この鏡がわたくしの心に、いつも寄り添ってくれていたからだ。
『いや、その……。すまない……。王妃殿下がすでにご結婚されていることは、私も知っている。口説くなどということは……。だいたい、私はただの鏡だ。そんな感情など持ち合わせていないはずだ』
「そうなの? 元は人間だったとかってことはないの?」
呪いで鏡に閉じ込められた人間設定って、ありそうじゃない? これだけ親身になってくれる心があるんですもの、元は人間ということも、充分ありうると思うの。
『残念ながら、私が人間だったことはない。私が生まれたのは、東の果ての島国だ。その国では、人間が大事に使い込んだ道具には、なぜか魂が宿るのだ。その国では、そのような道具のことを付喪神と呼んでいた。私もその付喪神というものだ』
「付喪神だったんだ!」
それって、『魔法の鏡』じゃなくない!?
これは原作世界はグリム童話じゃないし、ミュージカル映画とか舞台でもないわね。
白雪姫のゲームにも思い当たらないし……。
小説とか漫画とかなのかなぁ……?
――なるほどね! わかったわ!
わたくし、白雪姫をベースにした『知らない作品に転生した』パターンだったのよ!
『知らない作品に転生した』パターンなら知っているわ!
あるある! よくある! そうだったんだ!
この世界が、またちょっとわかってきたわ!
『なんだか嬉しそうだな。もしかして付喪神を知っているのか?』
鏡は困惑していた。
そうよね。この中世ヨーロッパ風の異世界出身の人たちは、付喪神なんて知らないだろうと思うわよね。
だけど、わたくしの心は、日本生まれの小説や漫画やアニメ育ちよ!
「ええ、知っているわ! 付喪神、すごく良いと思うわ!」
わたくしは人外とくっつくパターンだって予習済みよ!
獣人や魔王に嫁がされたり、竜の番になったりね!
変な人間よりも、人外の方がよっぽど好きかもしれないくらいだわ!
気になるのは、わたくしと鏡の寿命が違うかもしれないってことだけれど……。
わたくしが年を取っても、ずっと若い男が侍ってくれているというのも悪くないわよ!
ビジュアルは悪女のイメージになっちゃいそうだけど……。
わたくしは『白雪姫の継母』ですもの、イメージどころか元は本物の悪女よ!
せっかく悪女なんですもの、ちょっと悪女らしくしてみるのも、きっと楽しいわよ!
この鏡、さらに気に入ったわ!
その夜、わたくしは寝室に戻っても、なかなか眠れなかった。
風が窓を揺らし、遠くで木々が軋む音が聞こえた。
そんな夜更けに、控えめなノックの音が響いた。
「お母さま……、こんな時間に申し訳ありません……。まだ起きておられますか……?」
驚いて扉を開てみけると、小さなランタンの灯りに照らされて、ブランカが立っていた。
「お母さま……。怖い夢を見てしまって……」
ブランカの身体はかすかに震え、その瞳は潤んでいた。
怖くて眠れず、頼れる場所を探して、わたくしの元にたどり着いたのだろう。
「入ってちょうだい。一緒に眠りましょう」
わたくしは先に寝台に戻ると、腕で毛布を持ち上げて、ブランカにほほ笑みかけた。
ブランカはそっと寝台に上がってきて、わたくしの胸元に身を寄せた。
ブランカの温もりが、わたくしの心まで満たしていく。
「……お母さまも夢を見ることはありますか?」
「ええ。たくさん見るわ」
「怖い夢を見た時は、どうすればいいのでしょう……?」
「ブランカはまだ小さいんですもの。わたくしのところに来たらいいわ」
ブランカはほっとしたように小さく息を吐いた。
ブランカはまだこんなに小さいのに、実の母を亡くして、継母のわたくしに遠慮して……。
わたくしはブランカの髪をやさしく撫でた。
「ブランカ、わたくしには遠慮しなくていいのよ」
ずっと忘れていた、誰かに必要とされているという感覚。
ブランカの孤独が、わたくしに抱きつく小さな身体から流れ込んでくる。
「お母さま……」
わたくしは、もしかしたら『愛される継母』くらいには、もうなれているのかもしれない。
『白雪姫の継母』であるわたくしだって……。
誰かを愛して、愛されて……。
この世界で幸せに生きていくことだって、きっとできるわよ。
朝が来て、カーテンの隙間から朝日が差し込み、部屋の床に細い線を描いていた。
わたくしが目を覚ますと、ブランカはまだわたくしの腕の中で、小さな寝息を立てていた。
あどけない寝顔が、本物の天使のようだった。
わたくしはそっと目を閉じ、再び心に誓う。
この子の幸せは、わたくしが守る。
誰にも、なに一つ、奪わせたりしないわ。
ルドルフにも、他の誰にも、わたくし自身にだって――。
ブランカを傷つけさせたりしないわ!




