7.ご本を読んでほしいの
この世界の白雪姫は、まだあどけなさの残る幼い女の子だった。
雪のように白い肌。
血のように赤い頬と唇。
黒檀のような黒い髪。
きっと誰が見ても、わたくしの娘は愛らしいと思うわ。だって、まるで天から遣わされた天使のようなんですもの。
この城には、ブランカ以外に、わたくしに笑顔を向け、言葉をかけてくれる者などいなかった。
ブランカは、そんな中でも屈託なく「お母さま」と呼びかけてくれる、わたくしにとって唯一の人間だった。
「お母さま、今日もお忙しいですか? 少しお時間をいただきたいのです……」
わたくしは、ブランカから二度目に声をかけられた日のことも、今でも鮮明に覚えている。
テレージアはブランカについて、いろいろしっかり覚えていすぎて、ちょっとヤンデレっぽい気がするけれど、それだけ嬉しかったのよね……?
テレージアはだいぶ病んでいたし、まあ、ある意味、ヤンデレでも間違っていないかもしれないけれど……。
えっ、まさか、前世の記憶を取り戻さなかったら、継母による『白雪姫が自分のものにならないから殺すルート』だった!?
そこまで愛憎が入り乱れちゃうなら、もういっそ鏡も参加させて、白雪姫による『攻略対象に女性(継母)も人外(鏡)もいるハーレムルート』にしたらどうよ!?
……とにかく、まだわたくしの心の中に、テレージアという意識だけしかなかった頃のことだ。
「お母さま……」
わたくしはブランカに呼ばれて、王宮の廊下で足を止め、ひどく戸惑って目を伏せた。
この子は、わたくしをどう思っているのだろう?
実の母を奪った女として、恐れているのでは?
もしかして、憎まれているのでは……?
「あの……。わたくし、ご本を読んでほしいのです……」
ブランカの愛らしいお願いによって、わたくしの考えが間違いだったとすぐにわかった。
「もちろん、いいわよ!」
わたくしはブランカの愛らしいお願いに、ほほ笑みを返していた。
わたくしは、その日やるつもりだった国王の仕事の代行を、その場で放り出すことにした。
わたくしが無責任ですって?
勝手になんとでも言ったら?
国王の仕事なんて、本来はルドルフの仕事ですもの。ルドルフが自分で責任を持ってやればいいのよ。
わたくしはルドルフが国王の仕事をしないから、代わりにやっているだけ。それでも、誰に感謝されるわけでもないのよ。
わたくしにとって『より重要な案件』ができたら、そちらを優先するに決まっているじゃない。
わたくしたちは二人で王女宮にあるブランカの居室に行き、並んで豪華なソファに座り、絵本をのぞき込んだ。
一冊読み終わったら、二人で感想を話しあう。
そのやりとりが、どれほど楽しく、どれほど嬉しかったことか……。
あの読み聞かせの時間は、わたくしたち二人にとって、小さな宝物になった。
そして、その日から、わたくしとブランカにとって、二人で絵本を読みあうことが、日々の楽しみの一つになった。
今日も、わたくしとブランカは、ブランカの居室のソファで絵本を楽しんでいた。
ブランカがお気に入りの絵本を広げ、柔らかな声で物語を読んでいく。
ブランカがとびきり大好きだという絵本のうちの一冊。
その日は『シンデレラ』を読んでくれていた。
――この世界にもグリム童話があるのね。
絵本を読みながら、ふとそんなことを思った。
この世界は、もしかしてグリム童話寄りなのかしら?
まあ、『桃太郎』とか『かぐや姫』の絵本を出されるよりは、グリム童話の方が、この世界の雰囲気にはあっているわよね。
そんなことを考えていたら、部屋の扉がいきなり乱暴に開いた。
何事かと思いながら、反射的に顔を上げると、ルドルフが立っていた。
わたくしは、なんの前触れもなく現れたルドルフに、立ち上がってお辞儀をしてみせた。
ルドルフはわたくしの顔を見て、あからさまに顔をしかめ、吐き捨てるように言い放った。
「……やはり、君はあの人にはなれないな。声も、立ち居振る舞いも、まるで違う。醜悪すぎる」
ルドルフの用件はそれだけだったようだ。
ルドルフはすぐに踵を返し、まるで何事もなかったかのように扉の向こうへと消えていった。
――一陣の冷たい風が吹き抜けたようだった。
ルドルフには、なにか気に入らないことでもあったのだろう。
わたくしの存在すべてが、ルドルフにとって不愉快なのはわかっていた。
だからって、今のは明らかに八つ当たりよね!
あまりにも理不尽だわ!
ルドルフにとってテレージアを罵ることは、亡き前王妃への愛のつもりなのかもしれない。
だけど、それは絶対に違うわよね!
亡き前王妃を愛しているからって、テレージアを罵っても良いということには、絶対にならないわよ!
「はいはい。前の王妃様は、そんなにもお美しい方だったのね」
それは、わたくしにとっては、ただのルドルフへの嫌味だった。
ルドルフに嫌味の一つくらい言わないと、やっていられない気持ちだったのよ。
「……お母さまも、とてもお綺麗です。わたくし、大好きです」
幼いブランカの、小さくて、まっすぐな、やさしい声がした。
わたくしは、はっとしてブランカを見た。
ブランカは心配そうな顔をして、わたくしを見上げていた。
こんな幼い子に、気を遣わせてしまった。
わたくしは大人だ。
なのに、わたくしときたら……。
まるで『傷ついて、義娘の前で弱音を漏らした』みたいに見えることをしてしまった。
とんだ大失敗だわ……。
「……ありがとう、ブランカ」
わたくしは、なんとか笑おうとした。
けれど、口元がかすかに震えて、うまく笑えなかった。
ごめんなさい、ブランカ……。
わたくしったら愚かだわ。
あんなルドルフの一言に、こんなにも心を乱されるなんて……。
わたくしは笑う代わりに、そっとブランカの髪を撫でた。
柔らかくて、温かくて……。
こんな風に誰かと触れ合うなんて、いつぶりだろう。
――ああ、ルドルフは、こんなにかわいい娘まで、なぜ遠ざけようとしているのだろう……?
ブランカは、ウィルマの忘れ形見だ。
だからこそ、この子が傍にいるだけで、ルドルフの胸に癒えぬ痛みを呼び起こすのかもしれない。
でも、それでも、ルドルフは父親よ。
愛する母親を失った娘に寄り添うのは、父親であるルドルフの役目のはずだわ。
わざわざ王女宮まで来ておいて、どうしてルドルフは、わたくしを罵る前に、まずブランカに声をかけなかったの?
「継母にいじめられていないか?」
という、わたくしを疑う言葉なら、ルドルフにだって言えたのではなくて?
なにも言わずにブランカの前から立ち去るなんて、それは違うでしょう。
しかも、あの人はブランカの目の前で、わたくしを一方的に攻撃したわ。
親がそんなことをしたら、子供は怯えてしまうわよ。
……わたくしは、子供を産んだことも、大切な人を亡くしたこともない。
もしかして、わたくしは『愛する人を失った気の毒なルドルフ』に、過剰な期待を抱いているのかしら?
そうなのだとしても……。
わたくしは、実の父親であろうと、ブランカを傷つけさせはしないわ。
だって、わたくしはブランカの『継母』ではなく、『本当のお母さま』になるのだから……。
それは、鏡にしか打ち明けるつもりのない、わたくしの秘めた決意だった。
わたくしはブランカに無理強いして『本当のお母さま』と呼ばせる、なんていう酷い仕打ちがしたいわけではない。
だから、この気持ちは、鏡だけが知っていてくれればいいのよ。
――鏡が応援してくれているんですもの。
わたくしは大丈夫。
きっと頑張っていけるわ。




