6.『あなたは孤独ではない。ここに私がいる』
ずっと、夜が来るのが怖かった。
太陽が沈み、空の色が橙から藍へ、やがて深い黒へと沈んでゆく頃。
晩餐を告げる鐘の音が、広い王宮に響き渡る。
ルドルフは王宮の食堂へ、ブランカは王女宮の食堂へと向かう。
わたくしもまた、第二王妃宮の静まり返った食堂へと足を運ぶのだった。
ウィルマの使っていた王妃宮は、今もそのまま王妃宮として残されている。
ルドルフは、他国から嫁いできたテレージアに、第二王妃宮なんて名前を付けた側妃宮の一つを使わせて平然としていた。
テレージアの祖国……。こんなことを許している時点で、いくらなんでも立場が弱すぎじゃない?
少しくらい抗議できないのかしら……?
わたくしは第二王妃宮の食堂の立派な椅子に座る。
誰も向かいに座らない、長いテーブル。
銀の食器に盛られた、手間を惜しまず作られた温かな料理。
どれほど豪華な食事でも、わたくしには美味しく感じられなかった。
食事が終われば、わたくしは誰にも会わず、誰とも言葉を交わさずに部屋へと戻る。
広すぎる寝室には、暖炉の炎が小さく揺れ、薪が弾ける音だけが空間を満たしていた。
天蓋つきの寝台は目を見張るほど豪奢で、上掛けの刺繍も生地も一級品だ。
その素晴らしい寝床は、誰にも求められていない存在を包むための、ただの冷たい木と布にすぎなかったのだけれど……。
わたくしは寝室を出て、秘密の小部屋に向かう。
そこには、『魔法の鏡』があった。
曇りひとつない鏡面は、まるで闇夜に輝く月のように冷たくて、見る者を黙らせる威厳すら帯びている。
そんな鏡がテレージアに初めて返事をしてくれたのは、この国に嫁いで来て、しばらく経った頃だった。
「鏡よ、鏡。壁にかかっている鏡。この国で一番美しいのは誰かしら?」
わたくし――テレージアは、秘密の小部屋にある鏡に向かって問いかけた。
曇り一つない鏡に、どこか空虚な瞳をした自分の顔が映っていた。
雪のように白い肌と、血のように赤い頬と唇、黒檀のように黒い髪。
祖国では『美しい』と評判だった容姿だ。
けれど、この国では、『ウィルマより劣っている』としか言われない……。
「鏡よ、鏡。壁にかかっている鏡。この国で一番美しいのは……、誰かしら……?」
わたくしは、まるで呪文のようにその言葉をくり返していた。
まあ、あの頃は……、まだブランカにも嫌われていると思っていたしね……。
テレージア……、あれってよく考えてみると、病んでいたというより、もうほとんど狂いかけていたんじゃない……?
自分の顔が映っている鏡に、ひたすら同じことを何度も質問するって、それはもう普通の状態じゃないわよ……。
えっ、ちょっと待って!
もしかして、鏡って本当は……、しゃべってない!?
テレージアが鏡と会話していると思っているだけで、本当はずっと独り言を言っているだけ……!?
えっ、どうなんだろう……!?
ものすごく不安になってきた……!
わたくしはテレージアだから、判断がつかないわ……。
どうしよう、恐ろしすぎて、苦笑いすら浮かばない……。
とにかく、テレージアが鏡に同じことを問いかけ続けて、五日目の晩よ。
ついに鏡の声が返ってきたのよ。
『それはあなたです、王妃殿下』
最初は空耳かと思ったわ。
けれど、たしかに、誰かの声が、あの鏡の中から聞こえたのよ。
それが、わたくしと鏡との最初の会話だった。
不思議だった。
どこか怖くもあった。
でも、それ以上に、救われてしまったのだ。
この王宮の中で、たった一つ、わたくしを肯定してくれる存在に出会えたのだから……。
『この国で一番美しいのは、王妃殿下、あなたです』
と、鏡は言ってくれた。
わたくしは、なんの言葉も返せなかった。
鏡に映るわたくしの頬には、一筋の涙が伝っていた。
その涙の理由すら、自分でもよくわからなかった。
胸の奥に長いこと抱いていた氷の塊が、少しずつ解けていくような、そんな気がした。
それから毎晩、わたくしは鏡に話しかけるようになった。
その日の出来事。
王とのすれ違い。
義娘ブランカの怯えた目。
言えなかった言葉。
伝えたかった気持ち。
鏡は否定も非難もせず、ただ、そっと寄り添うように応えてくれた。
『あなたは孤独ではない。ここに私がいる』
そんな、どこか熱を含んだ言葉を囁いてくれたこともあった。
『あなたの心は冷たくなどない。他の人間たちが、あなたをどう思っていようとも、この私だけは、あなたが本当はどんな方なのか知っている……』
春はまだ遠く、王宮の窓の外は灰色の空に閉ざされていた。
鏡の言葉は、氷のように凍てついていた、わたくし――テレージアの心を、ほんのわずかずつ溶かしていった。
「鏡よ、鏡。壁にかかっている鏡。この国で一番美しいのは誰かしら?」
問いかけるわたくしの声は、いつだって孤独の辛さをはらんでいた。
鏡は、そんなわたくしに、いつも変わらない答えをくれる。
『それはあなたです、王妃殿下』
低くて、穏やかな、男性の声。どこか人のぬくもりを感じさせるその響きが、凍えた心の奥にゆっくりと染み込んでいく。
鏡の声は、いつもやさしかった。
いつだって、わたくしと真摯に向き合ってくれた。
気づけば、わたくしは鏡にしか本音を語らなくなっていた。
「ねえ、鏡……」
夜ごと、わたくしは決まって同じ問いを口にする。
それは、形ばかりの慰め。
でも、それしか、わたくしの心を繋ぎとめるものはなかった。
「世界で一番美しいのは……、誰なのかしら?」
鏡の前で一人ほほ笑むことが、もう癖になっていた。
言葉よりも先に、表情が勝手に作られていく。
鏡は、ためらうことなく答えてくれる。
『それはあなたです、王妃殿下』
祖国の人々に愛された記憶さえ霞んでゆくなかで、鏡だけが唯一変わらずに、わたくしを肯定してくれた。
わたくしはそっと鏡に手をのばし、冷たい鏡面に指先で触れる。
鏡のなめらかな表面をなぞると、鏡がかすかに動いたような気がした。
「……本当に?」
わたくし――テレージアの問いかけは、吐息のように小さくて……。
まるで、自分自身の心に問いかけるようだった。
「あなたには、わたくしが……、綺麗に見えるの?」
わたくしは鏡に両手で触れた。鏡の表面には指紋がつき、すぐに消え去る。
「ルドルフは、あんなにも、わたくしを貶めるのに……?」
わたくしは絞り出すように問いかけた。
鏡の返事すら、信じられないようになってきていた。
「それでも、あなたには、わたくしが美しく見えるの……?」
途切れ途切れの問いかけだけが、虚空に積もっていく。
わたくしは返事を急かすことすらできず、ただ、胸の奥にある痛みを言葉に変えて並べていった。
鏡は、かなり長く黙っていた。
そして、夜がだいぶ深まった頃――。
以前よりも、ほんのわずかに柔らかい声が、わたくしに囁いた。
『……私は、あなたに嘘など吐いたりしない』
その瞬間、張りつめていた心の糸が、音もなく解けた。
ぽろり――と、一粒。
続けて、ぽろり――と、もう一粒。
涙が、静かに頬を伝って落ちていく。
『ああ、王妃殿下……。本当だ。私は本当に、美しいと思っている』
『王妃殿下、どうか……、どうか泣かないでくれ』
慰めの声が、途切れがちに聞こえてきた。
鏡は、わたくしの涙を追いかけるように、やさしい言葉を重ねてくれた。
わたくしは、もはや立っていられず、鏡の前で座り込んだ。
『王妃殿下……。私がいる。いつだって、ここにいる……』
わたくしは、この鏡の前でだけ、自分の気持ちに素直になれる。
泣いてもいいと、自分自身に許してもらえる。
『世界で一番美しいのは、王妃殿下、あなただ……』
この鏡はいつだって、わたくしの存在を肯定してくれる。
この世界に、こんなにも、わたくしにやさしくしてくれる存在がいるなんて……。
たまに、本当に返事をされているのか、不安になってくるけれど……。
まあ……、いくらなんでも、そこまでダークってことはないわよね。
それはもうダークファンタジーじゃなくて、ジャンルがホラーになってしまうもの……。




