5.ルドルフ、働けよ……。
王宮の廊下には、冷え冷えとした空気が漂っていた。
足元から静かに這い上がってきた冷たさは、やがて胸の奥にまで染みわたってくる。
わたくしは、ここでなにをしているのだろう……?
激しい虚しさに苛まれる。
ルドルフには兄である王太子がいたらしい。
ルドルフは兄とウィルマを取り合い、決闘の末に兄を斬り殺したらしかった。
それでルドルフの母がショックを受けて亡くなり、最愛の妻を失った先王も亡くなって、第二王子だったルドルフが即位したらしい。
……できたら、こんなダーク系の鬱展開っぽい話なんてない、ほのぼのした世界に転生したかったよね。
ウィルマも、白雪姫であるブランカを産んで、すぐに亡くなったみたいね。
ウィルマの死因は、産後の体調不良によるものらしい。
ルドルフはどうやら、このことが原因で、ブランカを遠ざけているようね……。
そうそう、白雪姫の童話には、継母が白雪姫の殺害を依頼した狩人が出てきたわよね。
わたくしは、あの狩人と関わるつもりはなかった。
あの狩人って、たしか『白雪姫が美人だったから殺さなかった』という人だったはずよ。
継母への忠誠心もまったくないし、白雪姫が美人じゃなかったら殺していたわけでしょう?
しかも、この時の白雪姫って、たしか七歳とか、そのくらいの年齢の子供だったはずよ。
七歳の女の子に対して『美人だから殺さない』という判断をする人って、どうなのかなって思うわよね……。
『なにも悪いことをしていない子供だから殺せない』とか、そういう考えじゃないんだ……、って思ったわ。
転生前の記憶が戻ったわたくしには、受け入れがたい価値観よ……。
わたくしには、この世界の人々の一般的な価値観がまだわからないんだけど、あの考えが普通だなんて思えないわ……。
わたくしとしては、狩人は、絶対に関わり合いになっちゃいけないタイプの人物なんじゃないかと思うのよね……。
そして、わたくし――テレージアは、政略結婚の駒として育てられた王女だった。
自国か他国の王侯貴族に嫁ぐ者として、徹底的に教育され、磨き上げられてきた。
品位、言語、歴史、経済、統治、外交、軍略。
冷静な判断力と、実務をこなす力を叩き込まれてきた。
この国の王妃として王宮に迎え入れられたテレージアは、着任早々、財務と外交をやることになった。
初夜は『君を愛することはない』だったし、もはや文官の一人として連れて来られたみたいな状態だったわ。
しかも途中からは、もはや文官ですらなかったわね……。
ルドルフが働かなすぎて、テレージアが国王状態だった。
テレージアが政治の中枢を担い、この国を動かしていたわ。
ルドルフ、働けよ……。いや、本当に……。おかしいでしょ……。
もしもウィルマを失って心の病気になっているのなら、医師や治癒士や薬師に命じて、ちゃんと治療してもらいなよ……。
この国……、ウィルマが来る前は、どうしていたのだろう?
文官と貴族でなんとかしていたのだろうけれど……。
王族でないと、なんとかならないことも多かったのでは……?
まさか王族のサインが必要な書類には、ブランカに頼んでサインをしてもらっていたということはないわよね!?
ブランカとルドルフ以外の王族なんて、一度も見たことがないんだけど……。
ルドルフに頼み込んでいたのよね!?
不安でしょうがいないわ……。
テレージアはとても一生懸命に働いていた。
外交では、五か国との和平条約を取りまとめた。
財務では、長年赤字続きだった王室会計が黒字に転じるよう、王室の行事の整理をしたりしていた。
テレージアが嫁いで来てからというもの、国庫は劇的に回復し、民にも恩恵が及んだ。
ルドルフが放棄したままの政務も、主だった上位貴族とルドルフの許可を得て、テレージアがすべて代行するようになっていた。
宮廷財務の見直し。
農政改革と農政関連の補助金の見直し。
隣国との交易路についての再交渉。
孤児支援部門の予算是正。
騎士団の再編成。
港湾開発。
魔獣被害の防止策の導入。
手をつけるべき課題が山積していた。
テレージアは、本当は水路や道路の整備もしたかったみたいだけれど、とてもそこまで手が回らない状況だった。
わたくしだって転生したからには、温泉を掘ったり、和食を流行らせたりしてみたいけれど……。
今、この国は、そんなことをしている場合じゃないのよね……。
ルドルフ……、王なんだから働きなよ……。
病気なのか、なんなのか知らないけど……。
いやもう、本当に……。
前世の記憶が戻って、テレージアの人生を思い返してみた時、わたくしは驚いたわよ。
ルドルフは一切働いていないし、テレージアは朝から晩まで働きすぎだったわ。
この国の貴族や文官たちは、最初こそテレージアを侮っていた。
「嫁いできたばかりの異国の女が、なにをするというのか」
「王の寵愛すら得られない女が、この国の政に口を出すとは」
そんな陰口が、テレージアの耳にも届いていた。
けれど、テレージアは一言も言い返さなかった。
ただ黙々と、成果を積み重ねていった。
――結果だけは、誰にも否定できないもの。
それが最も確実で、一番の近道だと、テレージアにはわかっていたのね。
だいたい、陰口を言っていた文官や貴族だって、王族のサインが必要な書類の処理がしたかったでしょうしね。
日常業務は特に貯め込みたくないわよね……。
『毎日やること』を放っておいたら、毎日増え続けて大変なことになるもの。
テレージアが嫁いで来てから三年も経たないうちに、この国の赤字は解消され、王都の経済は息を吹き返した。
テレージアは、こんな国にはもったいないくらい仕事ができたのよ。
民の間では、次第にわたくしの評判が高まっていった。
商人たちは、わたくしに付けられた二つ名を冠したワインまで売り出したほどよ。
『白き氷の花嫁』
冷たく、気高く、美しく、そして、有能な王妃――。
そんな噂が、いつしか巷に広がっていた。
「王妃殿下こそが、この国を救うお方だ」
ある老将が、そんなことを言ったという噂まであった。
わたくし――テレージアが国の未来を見据えて改革を進めている間も、ルドルフはずっとウィルマとの思い出の世界で生きていた。
ルドルフはウィルマの墓に花を手向け、肖像画を見つめ、遺された日記や手紙を読み返すばかり……。
――勝手になさいませ。
わたくしは、わたくしの未来を見つめて歩んでいくだけ。
わたくしには鏡がある。
鏡はわたくしの話に耳を傾けるだけでなく、最近では厳しい忠告までしてくれるようになった。
それに、白雪姫であるブランカがいるわ。
まだ幼い、わたくしのかわいい義理の娘……。
一枚と一人の存在が、わたくしを支えてくれる。
それだけで、わたくしは、わたくしでいられるわ。
わたくしはブランカのために良い国を作っているのだと思えば、大変な政務だって頑張れる。




