4.朝のお散歩をしませんか?
あれは冬の朝だった。
あの頃のわたくしは、この国に嫁いできたばかりで、まだテレージアの意識しかなかった。
わたくしはドレスの上から悪役らしい漆黒の毛皮のマントを羽織り、王宮の花園にいた。
吐く息は白く、黒革の手袋越しでも指先がかじかんだ。
わたくしは人目を避けるように花園の奥へと進んだ。
花園の奥にある薔薇園は、この時期に咲いている花はない。
薔薇園ならば誰もいないだろうと思っていた。
けれど、そこには、なぜかブランカがいた。
白雪姫。
前王妃の忘れ形見。
この世界の白雪姫は、まだ四歳だった。
雪のように白い肌。
血のように赤い頬と唇。
黒檀のような黒い髪。
まるで本の挿絵から抜け出してきたような、美しい女の子。
ふわふわの白い耳当てをして、純白の毛皮のマントを羽織り、ブーツも白。
そんな全身が白い装いの中、真っ赤な革の手袋が印象的だった。
「おはようございます、お母さま」
ブランカはわたくしにお辞儀をしてくれた。
ブランカから初めて声をかけられて、ひどく戸惑った。
この子は、わたくしをどう思っているのだろう?
この前は、転んだブランカを助け起こしたら、怯えた顔をされたわ。その上、ブランカは立ち上がったと思ったら、乳母のスカートの後ろに隠れてしまった。
母を奪った女だなどと勘違いして、怯えているのではなくて?
そんなことを思っていたのに、ブランカの言葉は、ただただやさしくて純粋だった。
前世の記憶が甦った今だと、悪役らしいメイクと服装が、幼いブランカにとっては普通に恐ろしかったから逃げられたのかな、とも思うんだけどね……。
「お母さま、ご一緒に朝のお散歩をしませんか?」
わたくしは戸惑った。
ブランカからまっすぐに向けられる視線に、なんと返していいのかわからなかった。
誰もわたくしになど目を向けてこなかった。
夫であるはずのルドルフでさえ、わたくしをまともに見ようとはしなかったのに……。
それでも、ブランカは、わたくしに笑いかけてくれた。
「……おはよう。こんなに朝早くから、あなたもお散歩中だったの?」
「はい。ここの薔薇が、冬でも咲いていないかと思って見にきました」
ブランカは冬期の剪定がされた薔薇の茎をやさしく撫でた。茎で凍った露が、きらきらと光を反射して、まるでガラス細工のように儚く見える。
「残念だけど、冬の薔薇は眠っているの。春になれば、また咲くわ」
「眠っている……」
ブランカはわたくしの言葉をくり返した。
「お母さま……、わたくしも、そうだったのかもしれません」
ブランカの声は、なにかに耐えるように震えていた。
「……え?」
わたくしには、ブランカがなにを言っているのかわからなかった。
「お母さまと出会って……、少しだけ、心が目を覚ました気がします……」
「ブランカ……」
わたくし――テレージアには、心が寒さで冬眠してしまう感覚が理解できた。
ああ、この子は、まだこんなに小さいのに……。
きっと……、すでにたくさんの辛さと寂しさを知っている。
「ありがとう。あなたのおかげで、わたくしもなんだか目が覚めたような気がするわ」
わたくしは無意識に、ブランカの手を取っていた。
ブランカの赤い手袋に包まれた小さな手は、なんだか温かいように感じられた。
その後、わたくしたちは、しばらく無言で庭を歩いた。
凍った噴水。
枯れた蔦。
石畳の脇に退けられた雪の山。
静寂の中で、わたくしは心の奥に生まれた小さな母性を感じていた。
それはとても儚くて、すぐに消えてしまいそうだったけれど、たしかにわたくしの中にあった。
王宮の誰もが白雪姫とわたくしを敵同士だと思っていた。
けれど、この子の瞳に映るわたくしは、『冷酷な継母』ではなかった。
――どうしてテレージアは、この子を愛し続けてはいけなかったの?
物語の継母は、白雪姫に嫉妬し、ついには毒を盛った。
でも、前世を思い出したわたくしは、あの物語の継母とは違う道を選べるわ。
「お母さまとお散歩できて、とても嬉しかったです」
別れ際、ブランカはわたくしを見上げて、遠慮がちに笑った。頬が血のように赤く染まっていたのは、寒さのせいだけではないとわかったわ。
あんなにも小さくて、やさしくて、純粋で、とにかくかわいい娘を、ルドルフはなぜわたくしへの攻撃の材料として扱えるのだろう。
わたくしは前世の記憶を取り戻してから、徐々にルドルフのブランカへの態度もおかしいと思い始めていた。
ブランカをわたくしへの攻撃には使うのに、ブランカ自身にはろくに話しかけない。
冷たい王宮の中で、ブランカもテレージアと同じように、『見られていない存在』だったのだ。
『白雪姫は、継母に真っ赤に焼けた鉄の靴を履かせて、死ぬまで踊らせる』
白雪姫の物語の最後で、わたくしたちを引き裂く、残酷な結末。
けれど、今のわたくしはもう知っている。
わたくしも、ブランカも、そんな運命を歩む必要はないのだと――。
わたくしは、白雪姫であるブランカを憎んでなどいない。
むしろ、愛おしいと思っている。
あの子は、唯一、わたくしに心からほほ笑みかけてくれる存在だ。
「お母さま、今日もお綺麗ですね」
たった四歳だというのに、あの子はまるで大人のように、わたくしに気を遣ってくれる。
ブランカの愛らしい唇から紡がれるやさしい言葉は、わたくしの冷え切った心をいつも温めてくれた。
でも、良くないわよね。こんなに小さな子供が、大人の顔色を窺って、時には大人を支えるような真似をしているなんて……。
わたくしには、健全な母子関係だとは思えないわ。
「ねえ、お母さま。一緒にお手紙を書きましょう? わたくしはお母さまにお手紙を書くので、お母さまはわたくしにお手紙を書いてくださいね」
そんな愛らしい提案をされて、一緒に手紙を書いたこともあった。
二人で並んで手紙を書いて、交換して、またすぐに返事を書いた。
その手紙の束は、今でもわたくしたちの宝物だ。
この王宮の者たちは、陰でわたくしのことを『冷たい継母』と呼んでいる。
でも、ブランカだけは違ったのよ。
最初こそ、人見知りをして、ひどく怯えていたけれど……。
あの頃は、まだメイクも服装も普通だったのに……。
ああ、きっと、誰かになにかを吹き込まれていたのね。
だけど、きっと別の誰かが、なにかを言ってくれたのよ。
ブランカは今では偏見や恐れを向けることなく、わたくしを『お母さま』と呼んでくれていた。
ブランカには、いつも付き従っている乳母がいる。
――きっとあの乳母だわ。
わたくしは前にブランカが転んだ時、助け起こしたことがあった。
ブランカはわたくしに怯えて、すぐに乳母のスカートの後ろに逃げ込んでしまって……。
わたくしはショックを受けて、泣きそうになりながらブランカを見ていた。
乳母は、その一部始終を見ていたわ。
もしも乳母でなかったら、ブランカは乳母に止められているはずよ。
わたくしに近付くなんて、絶対にできないわ。
あの乳母が、わたくしがブランカを虐めるつもりはないと、わかってくれたのよ。
「お母さま」
わたくしはブランカにそう呼ばれると、喜びと切なさが同時にこみあげてくる。
心の奥底にしまい込んでいたなにかが、大きく揺さぶられるのよ。
――ああ、この子を守りたい。
あの頃、まだテレージアの意識しかなかったけれど、わたくしは心からそう思ったのだ。
そんなテレージアが、義娘を殺しかける女に変わってしまった。
理由はやっぱり、ルドルフが前妻ばかり称賛していたからよね。
ルドルフはテレージアをウィルマとだけでなく、ブランカとも比べて貶していたもの。
それではテレージアも病んできて、終いには『前妻の娘である白雪姫』まで憎くなってしまうわよ。
――前世の記憶が甦った今、わたくしには、はっきりとわかっているわ。
この物語の世界で、わたくしが守るべき存在が誰なのか。
それは、間違っても夫のルドルフなどではない。
あの男に心を砕く価値など、かけらもないもの。
わたくしが守り抜くと決めたのは、この子よ。
白雪姫であるブランカ。
わたくしにどんな運命が待ち受けていようとも。
たとえこの世界が、わたくしに踊り死ぬ結末を用意していようとも。
わたくし――テレージアは、あの時、この子の母になると決めたのだ。
――わたくしは、この世界で、ブランカの母として生きていく。
わたくしとブランカは、一緒に刺繍をしたことがあった。
糸が、針と布に絡まってモコモコになってしまって、まるで新しい刺繍技法みたいで、顔を見あわせて笑いあった。
庭園をゆっくりと歩き、花の名前を一つ一つ教えあったこともあった。
夜は、小さなランプの明かりの下で、わたくしが覚えている童話や日本の昔話を聞かせた。
ブランカは、わたくしが話す物語に目を輝かせ、それでも眠たげに目を閉じた。
わたくしとブランカは、笑顔を交わし、手を取りあって、少しずつ本当の母と娘になっていった。
――ブランカの笑顔を曇らせる者がいるのなら、わたくしが相手になりましょう。
毒林檎?
真っ赤に焼けた鉄の靴?
そんなふざけた結末、わたくしが書き換えてみせるわ!
この人生は、わたくしのもの。
誰かが決めた筋書き通りになんて、絶対に進ませないわ。
わたくしは決して嫉妬に囚われる悪役にはならない。
ブランカは、わたくしの小さな味方で、やさしい小さな友で……。
そして――。
わたくしが守るべき、かわいい娘なのですもの。




