3.ルドルフはバグってるの!?
ルドルフと顔を合わせたのは、何日ぶりだろうか。
王宮の長く薄暗い大理石の廊下を歩いていると、ルドルフがウィルマ前王妃の肖像画の前に立っていた。
亡き前王妃であり、白雪姫であるブランカの実母であるウィルマ……。
雪のような白い肌。
血のように赤い頬と唇。
黒檀のような黒い髪。
物静かな笑みをたたえるその女性は、まるで聖女のように描かれていた。
ルドルフは絵に見入ったまま、わたくしには目を向けなかった。
今日のわたくしは悪役メイクはやめている。アイラインはまつげの間を埋める程度。アイシャドウはパールホワイト。頬と唇はワインレッド。
ドレスもルビーレッドの生地に黒いレースをあしらった華やかなものだ。
ラスボス風ではなくなった代わりに、なんだかちょっと悪女みたいになってしまっている。
だけど、綺麗な薄い色のメイクやドレスだと、なんだか顔の印象がぼやけるのよね……。
どうやらテレージアには、赤や黒や紫が一番似合うみたい。
イメージを変えるにも限界があって、改めてこの世界の『運命の強制力』の強さを感じたわ……。
「……君は、やはりウィルマにはなれないな」
どうやら、ルドルフはわたくしに気付いていたようね。
わたくしは黙ってその場に立ち尽くした。
こいつ、またその話なの……!?
初夜の床でも、晩餐の席でも、何度となく言われてきた言葉だった。
いい加減、しつこいわ!
この世界って、もしかして乙女ゲームの世界!?
ルドルフはバグってるの!?
「君は本当に冷たいな。ウィルマはもっとやさしかった。……もっと笑ってみたらどうなのだ? ウィルマは……、どんな時でも、柔らかく笑っていた……。ブランカには母親譲りの美しさがある。君は……、そうだな……、どこか鋭すぎるのだよ」
わたくしはもうルドルフの言葉に反応しなかった。
わたくしの怒りも、悲しみも、もうルドルフに与えるに値しない。
ただただ、胸の奥に、冷たい氷のような塊が沈んでいくのを感じていた。
どうしてこの人は、今も過去だけしか見ないで生きているのだろう。
国王として、父親として、そして、一人の人間として、目の前にあるものを見ようとしないのだろう。
わたくし――テレージアがどれだけ働いても、どれだけ成果を上げても、ルドルフの目にはウィルマの面影しか映らなかった。
わたくしはもう、ルドルフになにも求めていなかった。
けれど、テレージアの心が叫ぶのだ。
『たった一度でいいから、名前を呼んでほしかった』
『ただ一言、ありがとう、と言ってほしかった』
と――。
それすら、望むことは間違いだったのだろうか?
――テレージアは、この城のどこにいても孤独だった。
華やかな宮廷行事に笑顔で臨み、積み上げられた政務の書類にも目を通し、母親役としてブランカの教育にも心を砕いてきた。
けれど、誰一人として、テレージアを見てはくれなかった。
ルドルフはわたくしの姿を、そのブルーグレーの瞳に映そうとしない。
臣下たちもルドルフに媚びて、今なお前王妃を讃え続けている。
わたくしには『前王妃の代わり』という肩書きしか与えられない。
使用人たちすらも、わたくしとは最低限しか関わらないようにしていた。
王宮の空気は、白く凍っていた。
誰もが皆、気づかないふりをしているのだ。
テレージアという王妃が、今まさに、静かに壊されていっていることに――。
わたくしは秘密の小部屋に戻り、嫁入り道具の鏡に語りかける。
この『魔法の鏡』は、由緒ある秘宝だ。遥か東の果ての島国で、名家の人々が何代にも渡って大切にしてきたと伝えられている。
祖国の国王だった曾祖父が、臣下から忠誠の証として捧げられた品だ。
「……鏡よ、鏡。壁にかかっている鏡。この国で一番美しいのは……、誰かしら……?」
わたくしは鏡の前に立ち、震える声で問いかける。
『それはあなたです、王妃殿下』
その声は、穏やかで、温かくて、どこまでも真摯だった。
わたくしはいつも、この鏡の声を聞くと、生き返るような気持ちになる。
この鏡だけは、わたくしを認めてくれる。
この世界のどこよりも冷たい王宮の中で、ただ一つ、この鏡だけが、わたくしを『美しい』と肯定してくれる。
気がつけば、わたくしは鏡にしか本音を話せなくなっていた。
わたくしには、どんなに辛くても、助けを求められる人間などいなかった。
けれど、この鏡だけは違った。
「鏡よ、鏡。壁にかかっている鏡。この国で一番美しいのは誰かしら?」
その問いかけは、いつしかわたくしの日課になっていた。
わたくしがどんなに醜く泣いても、嫉妬に胸を焦がしても、鏡は同じ言葉を返してくれる。
『それはあなたです、王妃殿下』
それが、どれほど救いになっていたことか。
誰にも愛されない王妃。
夫である王には冷ややかに見下され……。
義理の娘である白雪姫と比べられ……。
民には『義娘を虐げる継母』と噂される。
わたくしは気高く在ろうとすればするほど、孤独が深まっていった。
「鏡よ、鏡。壁にかかっている鏡。この国で一番美しいのは誰かしら……?」
『それはあなたです、王妃殿下』
何度同じことを問いかけても、鏡の答えは変わらない。
わたくしの目の下に疲れの影が落ちていようとも……。
紅を引いた唇が、怒りで醜く震えていようとも……。
この鏡だけは、わたくしの美しさを否定しなかった。
ただ、それだけのことなのに……。
鏡の言葉は、わたくしの崩れかけた心を、辛うじて支えてくれていた。
冷たい大理石の床に膝をついて王に愛を乞い、足蹴にされながらも。
義理の娘に震える手を差し伸べて、怯えた顔で拒絶されても。
それでもなお、わたくし――テレージアは、憎しみに染まることなく生きようとしていた。
けれど、それも、もう限界だった。
テレージアではなくて……。
前世を思い出した、わたくしの心が限界だった。
どこにも逃げ場などなく、誰もわたくしを見ていなかった。
いつしか、わたくしは、自分自身すら見失いそうになっていた。
――そんなある日、鏡が答えを変えた。
『あなたは美しい……。だから、しっかりするのだ! 気を確かに持て! ここまで頑張ってきたのだ! 闇に飲み込まれてはいけない!』
鏡の声は力強くて、真剣にわたくしを心配してくれているのが伝わってきた。
「……えっ? そこは『あなたは美しい。だが、白雪姫の方がもっと美しい』なんじゃない!?」
この鏡、急にどうしちゃったの!?
鏡が白雪姫を称賛し始めたから、白雪姫の継母は殺人鬼になってしまったはずよ?
『なぜいきなりブランカ王女殿下の話になる!? 私に映っている自分の顔をよく見てみるのだ! いつにも増して、ひどい顔色をしているではないか!』
「ああ……、そうね……。本当だわ……」
たしかに鏡に映るわたくしの顔は、目は虚ろだし、顔色は悪いし、ひどいものだった。
『疲れているのではないか? ゆっくり休んだらどうだ? 美味しい物を食べて、たくさん眠り、好きなことをするのだ。人間というものは、心のままに過ごすと元気になれるらしいからな』
「ええ、そうよね……。あなたの言うとおりだわ。ありがとう」
わたくしは、ストレスがマックスで物語に取り込まれそうになっていた。
鏡の声は、そんなわたくしの心を呼び戻してくれた。
あの時はめちゃくちゃ危なかったわ!
鏡がなかったら大変なことになるところだった!
鏡の奥に、誰かが……。
いいえ、人ではないかもしれないわね。
なにか、心を持った存在がいる――。
この冷たく残酷な世界の片隅で、わたくしの孤独を知り、涙を知ってくれている者がいる。
――わたくしは、願わずにはいられなかった。
どうか、この世界のどこかで……。
たった一人でもいい。
もう人間でなくたっていい。
わたくしという人間を、心から愛してくれる誰かに出会えますように――。
できるだけ早く……。
わたくしが道を誤らないうちに……。
ああ、もう!
わたくしは白雪姫の物語に取り込まれて、継子を殺すなんて、絶対にしないわよ!
鏡が叱咤激励してくれなかったら、本当に危なかったわ!
この世界の『運命の強制力』、強すぎなんじゃない!?
とにかく、まずはこの弱っている『テレージア王妃』を元気にするところからだわ!
鏡の言うとおりに過ごして持ち直したら、前世の知識の出番よ!
バランスの良い食事をとって、朝日を浴びて、ウォーキングとか踏み台昇降みたいな反復運動? をやって、日記に良いことを書き出すと良いのだったかしら?
ああ、早寝早起きも大事よね。
いずれもっと体力がついたら、筋トレもいいわね。
『運命の強制力』に抗える心身を手に入れないと!




