24.あなたを愛している(上)
その日も、わたくしは王宮の執務室で政務に追われていた。
まだまだ問題は山積みで、いくらやっても切りがない。
わたくしは適当なところで執務を切り上げると、赤い絨毯が敷き詰められた廊下を歩き、自分の居所へと向かう。
窓の外では、夏の太陽が沈みかけて、王都を赤く染め上げていた。
秋の訪れが近いことを告げる虫が、王宮の庭園の草むらで鳴き出している。
かつて第二王妃宮と呼ばれていた居所は、今では女王宮と改められていた。
変わったのは名前だけで、建物も、調度品も、まったく変わっていない。
あの秘密の小部屋も、なにもかもが、そのままだ。
美しい銀の縁を持つ、楕円形の大きな鏡。
わたくしが、かつてルドルフから激しく否定されていた頃。
わたくしをずっと支え続けてくれた、あの低くて穏やかな声の主も……。
「鏡よ、鏡。壁にかかっている鏡のラルフ。反乱軍の騒動の後始末も、ほとんど片付いたわ」
『お疲れ様。いろいろと大変だったな』
ラルフがやさしい声で労ってくれる。
今のわたくしには、『女王陛下に取り入ろうとしてくる男たち』が大勢いた。
貴族、騎士、文官、武官、将軍や兵士、使用人の中にまで、わたくしに媚びてくる者がいる。
『女王陛下、今日もあなたはとても美しい』
ラルフは、わたくしが質問しなくても、わたくしを『美しい』と褒めてくれる。
わたくしは、もう以前のようには『美しい』という言葉を必要としていないのだけど……。
ラルフはいつだって、わたくしを喜ばせようとしてくれる。
そんなラルフの気持ちが、わたくしはとても嬉しかった。
「わたくし、ラルフに出会えて本当によかったわ」
『私もだ。女王陛下、あなたに出会えて幸運だった』
ラルフは、この国の誰も知らない、わたくしだけの心の恋人……。
わたくしは、まるでなにかに突き動かされるかのように、鏡に唇を寄せた。
ひんやりとした感触――。
けれど、その奥に、わたくしはたしかに感じた。
ラルフの存在を。
そして、ラルフの魂を――。
次の瞬間、鏡がまばゆい光を放ち始めた。
光は静かに広がり、まるで美しい夜明けでも迎えるかのように、部屋全体を包み込む。
不思議な光の中で、鏡がゆっくりと姿を消していった。
――そして、わたくしの目の前に、一人の男が現れた。
印象的な蒼の瞳。彫りの深い整った顔立ち。そして、腰まである銀髪が彩る、鍛え上げられた、彫像のように美しい裸体。
「私は……、私自身とあなたの願いを叶えるため、我が妖力の限りを尽くして、この姿を得た」
ラルフの声は変わらず、鏡の時と同じ、低くて穏やかなものだった。
妖力なんだ……!
うん……、付喪神だもの、『あやかし』とか『物の怪』枠だよね……!
そう……よね……、魔力じゃないわよね……!
「ラルフ……! 本当に人間になってくれたのね……!」
涙がわたくしの頬を、ぽろりぽろりと伝い落ちる。
「あなたの愛が、足りなかった妖力を補ってくれたのだ」
童話などでは、『王子様やお姫様のキスで、呪いが解けて人間に戻る』という展開がけっこうあった。
ラルフは呪われて鏡になっていたわけではないし、わたくしもお姫様ではないけれど……。
どうやらわたくしのキスで、ラルフは人間の肉体を得たようね。
「これからは鏡ではなく、一人の男として、あなたの傍らに在りたい。これからも、私はあなたのために生きていく」
ラルフはひざまずいて、わたくしの手をとり、指先に口づけた。
わたくしは涙の中で、ラルフにほほ笑みかけた。
「ああ……、ラルフ……。鏡のラルフが……、本当に人間になってくれた……」
ラルフはゆっくり立ち上がり、わたくしの頬にそっと触れる。
ラルフのやさしい指先が、わたくしの止まらない涙を拭ってくれた。
ラルフの指先から伝わる温もりは、ラルフが人間であることを、わたくしに教えてくれていた。
「世界で一番美しい女王陛下……。あなたを愛している……」
ラルフの唇が、わたくしの頬に触れる。
ラルフの言ってくれる『美しい』という言葉は、今や、わたくしの外見だけを称えてくれるものではなかった。
わたくしがどれほど迷い、傷つき、それでも進んできたか――。
ラルフはすべてを知ってくれている。
いつだって、ラルフはわたくしの心に寄り添って、わたくしを見守り続けてくれた。
わたくしはもしかしたら、この時のために、いくつもの悲しい夜を越え、いくつもの孤独をくぐり抜けてきたのかもしれない。
わたくしは、わたくしをずっと愛してくれていた者と、これからの人生を歩んでいけるのだ。
「女王陛下、あなたが反乱軍の前に立ち、弓矢を持ったブランカ王太子殿下に守られたと聞いた時ほど、鏡である自分がもどかしかったことはない……。これからは、この私に、あなたを守らせてほしい」
元が鏡だと、文官や魔法使いみたいな細身の男になりそうなイメージだったのに、騎士みたいな肉体になった理由は、それだったのね……。
「あなたは、あなたの言うところの、この『白雪姫』という童話の世界で、自ら運命をねじ伏せ、義娘を心から愛した。絶望の日々の中でも、愛も未来も諦めず己を貫いた。その不屈の魂は、この世の誰より美しい……」
ラルフはわたくしをきつく抱きしめてくれた。大きな手が、わたくしの背中をやさしくなでてくれる。
わたくしもまた、ラルフの背中に腕をまわした。
ラルフの硬く引き締まった肉体は、温かくて、力強くて――。
そして、やっぱり滑らかな手触りだった。
わたくしたちが、どちらからともなく顔を近づけあった、その時――。
いきなり秘密の小部屋の扉が開けられた。




