17.あなた自身の行動の結果
ある日の夕刻、ブランカと過ごした穏やかな時間が終わり、わたくしは第二王妃宮へと戻る途中だった。
ルドルフが廊下に飾られたウィルマ前王妃の肖像画の前で、わたくしを待ち構えていた。
数日ぶりに見るルドルフは、いつになく険しい表情をしていた。
「貴様、ブランカになにを吹き込んでいる!?」
ルドルフの唐突な言葉に、わたくしは眉をひそめた。
ルドルフは、ついにわたくしを『貴様』と呼ぶまでになってしまっていた。
「なにを、とは? どんなことでしょうか?」
「最近、あの子は私を避けている。貴様のせいだろう!」
「あなた自身の行動の結果ではなくて?」
皮肉を交えた返しに、ルドルフの顔が強張った。
なんでもかんでも、わたくしのせいにして済ませられると思わないでほしいわ。
「ブランカは私の娘だ。母親面をするな」
「母親面?」
わたくしはゆっくりと言葉を噛みしめた。
スマホがあったら、母親面という言葉を検索して、意味を確認したいところだわ。
「わたくしは放置されていたブランカと仲良くなっただけよ。それに、母親としての愛情を惜しんだことはないわ」
ルドルフは黙り込んでしまった。
「あなたは一度でもブランカに絵本を読み聞かせたことがあるの? 手を引いて散歩に出たことは? 誕生日にお祝いの言葉を言って、贈り物をしたの? 前にも同じことを訊いたはずよ?」
長い沈黙。
それこそが、ルドルフの答えだった。
ルドルフはブランカになにも与えてこなかった。
自分の娘なのに、愛情も、言葉も、時間も、なにも……。
しかも、わたくしや乳母が諫めても、ルドルフは決して変わろうとしなかった。
それどころか、わたくしとブランカとの間で育った絆を、今になって壊そうとする。
――それが、この男だった。
「君は冷たいな……。ウィルマは、こんな風に私に楯突いたりはしなかったぞ!」
「わたくしはウィルマ前王妃ではないもの」
わたくしはルドルフに一歩近づき、唇の端を釣り上げた。
「国王陛下、いつまで亡霊を愛しながら生き続けるおつもりなのですか?」
「――っ!」
「過去ばかり見て、現実を拒み続けた結果が、今の国王陛下ではないですか。わたくしにも、ブランカにも、あなたはなにも与えようとはしなかったでしょう?」
ルドルフの目が揺れた。怒り、羞恥、困惑。さまざまな感情が浮かんでは消える。
わたくしには、もうそれ以上、ルドルフを責める気持ちはなかった。
だって、時間の無駄ですもの。
わたくしはルドルフに背を向けて、その場を離れると、秘密の小部屋に行った。
そこでは、鏡がいつものように待っていてくれた。
「ただいま」
『おかえりなさい、王妃殿下』
鏡に向かってほほ笑むと、温かい声が返ってくる。
ルドルフがくれなかったすべてを、鏡はわたくしにくれた。
言葉、敬意、やさしさ、そして、愛を――。
わたくしは鏡の前に椅子を運んで行って、腰を下ろした。
鏡を見つめて、大きなため息を吐く。
なんだか、とっても疲れたわ……。
「……わたくしは、王を追い落としていいのよね?」
『ああ、もちろんだ。きっと上手くいく……。王妃殿下には、すでに女王としてこの国を動かす力がある。あなたが即位した方が、この国の民たちも、豊かで安心した暮らしができるだろう。だが、くれぐれも反対勢力には気を付けてくれよ……? 私にとっては、この国の民よりも、あなたの方がずっと大切だ』
鏡の声は今も変わらず、わたくしを支えてくれていた。
「鏡よ、鏡。壁にかかっている鏡。……あなたは、どうしてわたくしに、こんなにやさしくしてくれるの?」
『あなたは孤独だった。それでも、誇り高く、気高くあろうとしていた。けれど、誰にも理解されず、傷ついていた……』
鏡からは、いつもの低く穏やかな声が返ってくる。
「ええ、そうだったわね……」
『私はこの場所で、そんな王妃殿下をずっと見てきた。あなたは敬意を払うに値する方だ』
わたくしは鏡の言葉を聞いて、胸の奥が熱くなった。
王の言葉に傷ついた夜も。
ブランカとの笑顔の時間も。
誰にも打ち明けられなかった弱さや喜びも。
この鏡だけは、すべてを知ってくれている。
『私は長い年月を鏡として過ごしてきた。多くの人々の問いに答え……、怒らせて割られそうになったこともあった』
「そう……なのね……」
この鏡は『白雪姫』の童話では、王妃の問いに対して、白雪姫の方が美人だと答えて、王妃を狂わせていたものね。
怒らせて割られそうになっちゃうことも、まあ、ありそうよね……。
『だが、私が心を通わせたのは、王妃殿下、あなただけだ』
鏡の声には、熱がこもっていた。
「そう……、なの……?」
わたくしだけ……?
わたくしは熱くなった頬に片手を当てた。
この鏡、わたくしのこと口説いてるよね!?
違う!?
えっ、絶対に口説いてるよね!?
わたくしが鏡のことを意識しすぎてるだけ!?
『あなたは私に問いかけ続けた。あなたの言葉の奥には、いつでも強い心があった。嘘も見栄もない。痛みと、やさしさと、誇りがあった』
「鏡よ、鏡。壁にかかっている鏡。あなたには、名前はあるの……?」
わたくしは震える手で、鏡の表面にそっと触れた。
『そんなものはない。必要ならば、王妃殿下が名付けてくれ』
「ラルフ……。ラルフはどうかしら?」
なぜか、ラルフという名前が自然と浮かんできた。
きっとこの鏡は、原作でラルフという名前だったのだろう。
東の果ての島国で付喪神になった、ラルフ。
ラルフかぁ……。
たしかにこの童話っぽい世界にはあっているけれど、東の果ての島国にいそうな名前ではないかな……。
良瑠夫とかなの……?
スポーツのために日本に帰化した人?
『ラルフか。妙にしっくりくる名だ』
この鏡の見た目は、日本製という感じではないわ。
いかにも白雪姫に出てきそうな、楕円形の西洋の鏡ですもの。
きっと異国から日本の誰かに献上された鏡が、巡り巡ってこの国に来たのね。
なにかの作品で織田信長がザビエルたちから望遠鏡や地球儀をもらっているシーンを見たことがあるし、鏡がそういう献上品の中に入っていることだってあるわよね。
あの望遠鏡や地球儀だって、百年とかもっと長い間、日本で大事にされていたら、付喪神になることもあるわよ。
ラルフのことが、さらにわかってきた気がするわ!
「ありがとう、ラルフ。ずっと、わたくしのそばにいてくれて」
『私からも礼を言わせてくれ。王妃殿下と出会えて、私は自分にも……、人間のような心があると知ることができた』
その夜、わたくしはラルフと長く話をした。
王が亡き妻を愛し続けている間に、わたくしはこの鏡の中の魂と心を通わせてきた。
夜がだいぶ更けてから、わたくしはようやく寝室に戻った。
わたくしは寝台に入りながら、心の奥が華やぐのを感じていた。
長く閉ざされていた、わたくしの心の奥が――。




