16.王に対する排除宣言
春の風が気持ちの良い朝、わたくしはブランカと共に花園を歩いていた。
小鳥たちのさえずりが遠くに響き、かすかな花の香りが風に乗って届く。
「お母さま、見てください。チューリップの蕾が、もうこんなに膨らんでいます」
「もうすぐ咲くわね。楽しみだわ。ブランカが一生懸命にお世話をしてくれたおかげね」
ブランカは嬉しそうにほほ笑んだ。その笑顔が、最近は日ごとに柔らかくなっていっている。
一時期は、ブランカはルドルフにひどく怯えて、視線を伏せていることが多かった。
けれど、今ではわたくしの隣で、楽しそうに春の訪れを語ってくれている。
ブランカの心が少しずつ安定してきているようで、わたくしは心から嬉しかった。
その夜、わたくしは秘密の小部屋で鏡と話をしていた。
ブランカの変化について一通り聞いてもらった後、わたくしは鏡自身の変化について訊いてみた。
「鏡よ、鏡。壁にかかっている鏡。最近、あなたの声が、なんだか近くなった気がするわ。どういうことなのかしら?」
『ああ、私自身もそんな気がしている。私は……、私の魂は……、ついに鏡ではない姿を得ようとしているのかもしれない』
鏡はいつもの落ち着いた声で答えた。
「それは……、もしかして……、あなたが人間の姿になる前兆ということ?」
『そうだといいが……。もしも王妃殿下が望んでくれるなら、私は……、すぐにでも王妃殿下の傍に人の形を得て立ちたいと思っている。だが、なかなか思うようにいかないのだ……』
わたくしは鏡に向かって手を伸ばした。硬く冷たいはずの鏡面に触れると、なんだか温かいように感じられたのは、きっと気のせいではないわ。
「わたくしは……、人の姿になった鏡に会ってみたいわ。鏡のままでも、充分に助けてもらっているけれど……」
『もう少し待ってほしい。時が満ちたら……、私は人になれるかもしれない……。ああ、でも、どうだろうか……? あまり期待しないでいてほしい』
「慎重なのね」
『あなたをがっかりさせたくないのだ』
鏡が静かに光を放った。その光の中で、銀色の髪と蒼い瞳を持つ整った顔が揺らいでいた。
鏡は、こんな顔をした人間の姿になるのかしら……?
わたくしが前世で見た茶碗の付喪神のイラストは、茶碗に人間の手足が生えた姿だったわ。
この鏡だって、鏡に人間の手足が生えた姿が限界かもしれないじゃない……。
『あやかし』や『物の怪』にもランクがあって、付喪神は神というわりには上級妖怪ではないような扱いのことが多かったわ……。
神は妖怪ではない気がするけれど……。でも、付喪神は妖怪枠として扱われることが多かったわよね。
ああ、同じ妖怪枠の神でも、竜神だと上位妖怪という扱いで、人間になれることが多かったわ。西洋ではドラゴンだから? 人気の関係?
知名度の高さなら、『白雪姫』の物語に出てくる鏡も、なかなかのものだと思うんだけどなぁ……。
だんだん妖怪系の神がわからなくなってきたわ……。
とにかく、あまり期待しすぎないで待ってみるわ!
その翌日、宮廷では大問題が持ちあがった。
ルドルフが、ある侯爵家とブランカとの婚約話を進めているという話が出てきたのだ。
その侯爵家は、わたくしの判断で、ブランカとの婚約話を一度は破談にした先だった。
しかも、ルドルフからブランカ本人には、なんの話もされていなかった。
「お父さま……、なぜ……、わたくしに、なにも教えてくださらなかったのですか?」
ブランカは玉座の間で、ルドルフに向かって震える声で問いかけた。
わたくしとブランカはしばらく待ってみたけれど、ルドルフはなにも答えない。
「国王陛下がブランカの婚約者として選ぼうとしている貴族令息は、かつてブランカを『母殺しの娘』などと言ったのですよ? 幼い子供の言ったことではありましたが、見逃すわけにはいかない暴言でした。だから、婚約話はなかったことにして、領地の半分を返上させ、公爵家から侯爵家に落としたのです」
わたくしが説明すると、ルドルフは眉をひそめた。
「……政略には多少の犠牲が必要だ」
政略!? あの侯爵家の人々が、黒髪だからでしょう!? それ以外に、なにがあると言うの!? いい加減にしてよ!
「犠牲にするのは、あなたの娘ですわよ!? あなたの『ウィルマ様』が命を懸けて産んだ娘を、あなたはただ利用するだけなのですか!?」
「黙れ! 私を非難するな!」
声を荒げたルドルフは、そのまま荒々しく玉座から立ち上がり、部屋を出ていった。
「ブランカ、わたくしが、わたくしの権限で、あんな貴族令息となんて婚約させないわ!」
わたくしはブランカを連れて執務室に戻った。
補佐官たちに命じて、『侯爵家の令息とブランカとの婚約の話はなかったこととする』という旨の文書を作成させる。
完成した文書は、筆頭補佐官に持たせ、騎士団長を護衛に付けて、侯爵家に届けさせた。
同時に、ブランカの婚約者に最適な者も探させ始めた。
ルドルフ……、お願いだから、わたくしの仕事を増やさないで……。
次の事件はすぐに起きた。
隣国との同盟更新会談において、ルドルフの独断による条項の改悪が明るみに出たのだ。
貴族たちはあまりにも不利益な内容に騒然とし、政務を代行しているわたくしの元に嘆願書が殺到した。
わたくしは貴族たちの承認を得て、ルドルフの代わりに会談に出席することになった。
「この件は、わたくしが同盟更新会談において、国王代行として再協議を行いましょう。その会談には、国王陛下の出席は不要とします」
騒然とした空気の中での宣言。それは、他国から嫁いできた王妃による『王に対する排除宣言』だった。
けれど、異議を唱える者などいなかった。
貴族たちも、文官たちも、衛兵や番兵などの武官たちも、王宮の使用人たちも、騎士たちも、将軍をはじめとする王国軍に所属する兵士たちも、誰もが、わたくしの判断を支持してくれた。
ルドルフは、すでにこの国を動かす力を失っていたのだ。
夜になると、わたくしはあの鏡の前に立った。
鏡の中にいる男性がぼんやりと、白い靄の向こうに見える。
「今日もいろいろ……、めちゃくちゃな一日だったわ……」
『ああ、だいぶ疲れているようだな……。人間の姿になれるようになったら、私もなにかしら、あなたを手伝えるのだが……』
「その気持ちだけで嬉しいわ。……きっと後もう少しで、あなたも人の姿になれるわよ」
わたくしはほほ笑んだ。
今はまだ、わたくしたちは人間と鏡。
でも、鏡が人の姿になれる日が、少しずつ近づいてきている気がした。




