14.『ウィルマ様』になる必要はないのよ
その夜、わたくしは執務をほぼ終えて、執務室のソファで書類に目を通していた。
紙がめくれる音しかしない部屋に、遠慮がちなノックの音が響いた。
「……お母さま、入ってもよろしいですか?」
扉の向こうから、ブランカの小さな声が聞こえた。
わたくしは書類を置いて扉を見やる。
「どうしたの? もちろんいいわよ」
扉が静かに開き、ブランカが中に入ってきた。
ブランカはなんだか顔色が悪いわ。
「……お仕事中なのに、申し訳ありません」
「いいのよ。もう終わろうと思っていたところですもの。どうしたの? 眠れない?」
「……はい。少しだけ……、心が落ち着かなくて」
「こちらへいらっしゃい」
わたくしはブランカに向かって両腕を広げた。
ブランカはわたくしの腕の中に飛び込んできた。
「お母さま……、少しだけお話ししてもいいでしょうか?」
「もちろんよ。あなたの話なら、いくらでも聞くわ」
ブランカは小さくうなずいて、わたくしの肩に小さな額を押しつけた。
なにかあったのだわ……。
ブランカは普段は遠慮して、こんな風に甘えてきたりしないもの。
「最近、お父さまがよくおっしゃるのです。『ウィルマに似てきたな』と……」
わたくしは黙って心を落ち着けるよう努めた。
ルドルフ、なにを言ってくれちゃってるのよ……。
「笑い方や、歩き方、食べ方まで、『まるでウィルマを見ているようだ』って、嬉しそうにおっしゃるのです……」
ブランカの声音は震えていた。
まあ、怖いよね……。
わたくしも話を聞いているだけなのに、とても怖いわ……。
このままブランカがウィルマそっくりに育ったら、ルドルフはブランカをどうするつもりなんだろう……。
気持ち悪くて考えたくない……。
「わたくし、ウィルマお母さまのことを、本当にほとんど覚えていないのです……」
ブランカはわたくしに強く抱きついた。
わたくしはそんなブランカを抱きしめる。
「わたくしの侍女も『ウィルマ様のように』と言うのです。『お父さまもお喜びになりますよ』と……。だから……、わたくしは、ずっとできるだけ、『ウィルマ様』のようにあろうとしてきました」
ブランカの言葉には、自分の役割を果たそうと努力してきた者の辛さが感じられた。
「ブランカ、よく頑張ったわね……。あなたは『ウィルマ様』になる必要はないのよ。あなたは、あなたでいいの」
わたくしはそっとブランカの背中をなでた。
ブランカの侍女は、また変えなければならないわ……。
ルドルフに取り込まれない侍女を探さないと……。
ああ、でも、『運命の強制力』に抗える人なんて、滅多にいないわよね……。
あのブランカの乳母みたいな人が、大勢いてくれたら助かるのに……。
おそらく『運命の強制力』は、ルドルフにブランカを「ウィルマそっくりだ!」と言わせて、わたくしにブランカを憎ませて、殺させようとしているんだろうけれど……。
そろそろ『この継母は、白雪姫を殺そうとしない』と認めて、いい加減、無駄なことは止めてほしいわ……。
「ブランカ、わたくしは、あなたがブランカ自身として生きている姿が大好きよ」
「……そうおっしゃっていただけて、とても嬉しいです」
「あなたは、あなたのままでいいのよ。無理して『ウィルマ様』を目指す必要なんてないの」
ブランカが本当にウィルマ前王妃そっくりになったら、ルドルフはブランカをどうするつもりなわけ?
もっと『運命の強制力』にも、いろいろ考えてもらいたいわ……。
「……お母さま、ありがとうござます。わたくし、少しだけ……、心が軽くなった気がします」
「ねえ、ブランカ……。わたくしも、国王陛下から『ウィルマ様のようであれ』と言われてきたの」
「はい、知っています」
わたくしは小さく息を吐いた。
まあ、知っているわよね……。
「最初はね、それが当然だと思っていたの。わたくしは国王陛下が深く愛した前王妃、ウィルマ様の代わりとして、ここに迎えられたのだから……」
「お母さま……」
ブランカの声が震えた。
わたくしは背中をなでるのをやめて、ブランカを抱きしめた。
「でも、今は違うわ」
わたくしはほほ笑む。
痛みを押し隠すのではなく……。
痛みを認めながら……。
「国王陛下は間違っていると気付いたの。『ウィルマなら、こうしただろう』とか『ウィルマは、もっとやさしい眼差しだった』とか……。わたくしの笑い方も、話し方も、食事の仕方さえも、すべて比べられたのよ。そんなのって、おかしいわ」
「お母さまも……、ウィルマ様の代わりに……、なろうとしていたのに?」
「ええ。そうしていれば、少しは国王陛下に愛してもらえるかもしれないと思ったから……。でもね、そんな風に愛されても、意味がないと気付いたの」
わたくしはブランカを抱きしめていた腕をゆるめた。
ブランカが顔を上げる。
わたくしはブランカに笑いかけた。
「わたくしがどれほど努力しても、ウィルマ様にはなれないわ。わたくしはウィルマ様ではないんですもの。国王陛下のお心の中にあるのは『過去の美しい思い出』で、そこには誰も入り込めないわ。国王陛下のお心の内にいるウィルマ様には、生きている人間は決して勝てないのよ」
ブランカの目に、涙がにじんでいた。
わたくしは静かに続ける。
「だから、ウィルマ様になる努力なんて、もうやめようと思ったの。『ウィルマ様の代わり』じゃなくて、『テレージア』として生きようと決めたの。たとえ、どんなに冷たい目で見られても、罵られても、わたくし自身でいたいと……、そう思ったから……」
「わたくしも……、そうしたいです。ウィルマお母さまの代わりじゃなくて……。わたくしは……、わたくしで、いたいです」
ブランカの小さな声は震えていた。
わたくしは、そっとブランカの髪をなでた。
「それでいいのよ。あなたはあなたのまま、そのままで充分に、愛される価値があるわ」
「お母さま……」
ブランカがわたくしの首に抱きついてきた。
わたくしもまた、ブランカを抱きしめる。
「ブランカ」
「はい……?」
「これからも、あなたのお母さまとして、あなたの味方でいるわ。だから、困ったら、すぐにわたくしのところに来てね」
「お母さま……」
ブランカの小さな泣き声がした。
わたくしはブランカの背中や頭をなでながら、ブランカが落ち着くのを待った。
わたくしたちは抱き合ったまま、しばらくソファに座っていた。
「このまま、今夜も一緒に眠りましょうか?」
こんな話を聞かされたら、ブランカが心配で一人になんてしておけないわ……。
「はい……。また面白いお話を聞かせていただけますか……?」
「ええ、もちろんよ!」
ブランカはずっと一人で、こんなことを抱えていたのね……。
明日の朝一番で、信頼できる騎士たちをブランカの護衛に加えないと……。
ルドルフがブランカになにかしようとしたら、騎士たちに命を賭けてルドルフを阻んでもらうのよ。
わたくしは、なにかあった時のために、わたくしに忠実に従ってくれる騎士たちを育てていた。
あの騎士たちは、この国のために命を捧げると言ってくれている。
彼らにも死んでもらいたくはないけれど……。
ブランカはこの国を継ぐ者。
全力で守ってもらうわ。




