12.お母さまみたいになりたい
その夜、第二王妃宮の寝室は、暖炉の火にやさしく照らし出されていた。
眠る前のひと時、わたくしは肘掛け椅子に腰を下ろし、ぼんやり一日をふり返っていた。
「お母さま」
という声と共に、小さなノックの音がした。
「入ってちょうだい」
わたくしは笑顔で扉の向こうに声をかけた。
「お母さま、来ました!」
ブランカが、絵本を大事そうに抱えて寝室に入ってきた。黒檀のような黒い髪が、薄桃色のナイトローブにさらさらとこぼれ落ちている。
「お母さま、今夜はわたくしが読みますね」
ブランカは、いつもより少し緊張したような、それでいて、なんだか嬉しそうな顔をしていた。
「ええ、お願いするわ。どんなお話かしら?」
わたくしはほほ笑んでうなずいた。
「とても勇敢な王女様のお話なんです」
わたくしとブランカは、寝台に並んで座った。
寝台のサイドテーブルには、ブランカの目が悪くならないよう、大きな燭台を置いてある。たくさんの蝋燭に火が点されて、わたくしたちを明るく照らしていた。
ブランカが絵本をそっと開く。
ブランカの澄んだ声が、静かな室内に響いた。
子供とは思えないほど、しっかりした読み方だ。
ブランカが王女教育を頑張って受けているのがわかるわ。
読んでくれているのは、わたくしの知らない物語だった。
物語の王女は、困難に立ち向かい、己の力で運命を切り開いてゆく――。
わたくしもまた、そうありたかった。
誰かの影に怯えるのではなく、自分自身で選び、愛し、守るべきものを見つける。
そんな人生が歩みたいわ。
「お母さまも、このお話の中の王女様みたいです」
読み終えると、ブランカはほほ笑んで、わたくしを見上げた。
「まあ、ありがとう。嬉しいわ。きっとブランカも、この王女様みたいに生きられると思うわ」
「わたくしは……、お母さまみたいになりたいのです」
ブランカが恥ずかしそうに笑い、わたくしは心が温かくなるのを感じた。
「あら、ありがとう。そんなこと言われると、ちょっと照れるわ」
わたくしはそっと手を伸ばし、ブランカの小さな頭を撫でた。黒い髪は絹のように柔らかく、温かな体温が手に伝わってくる。
ブランカはすっかり眠くなってしまったようで、わたくしの身体に寄りかかってきた。
「わたくし……、わたくしは……。お母さまがいてくださって、とっても幸せなんです」
心が静かに満たされていく。
子供がこんなにも愛おしいなんて、かつては想像もできなかったわ。
わたくしはブランカを寝台に寝かせると、侍女に合図して燭台の火を消させた。
わたくしもまたブランカの隣に横たわり、静かに目を閉じる。
――この世界も、思ったより悪くないわね。
ブランカに出会えて、本当に良かった。
それから数日後、ルドルフがずいぶん久しぶりに、わたくしの執務室にやって来た。
執務室の窓の向こうには、灰色の空。春の雪がちらつき、まだまだ寒い日だった。
ルドルフは、ちょうど補佐官たちが全員出払ったタイミングを狙って来たようだった。補佐官たちは、わたくしの命令で、あちらこちらへ書類を届けに行っている。
ルドルフは、いまだに国王の仕事をまったくしていないから、きっと暇だと思うの。
わたくしが一人になるのを、ずっと待っていたのかもしれないわ。
「……相変わらず、ここは冷たいな」
ルドルフは悪意に満ちた声で言いながら、わたくしの執務室に入ってきた。ルドルフは顔には薄く笑みを浮かべているものの、全身にまとっているのは不快と苛立ちだけだった。
「今日は、どんなご用件で? わたくしの仕事を手伝いに来てくださったのかしら?」
わたくしは書類の束を両手に持ち、とんとんと机の上で整えた。
わたくしがここでやっている政務は、本来は国王であるルドルフがやる仕事だ。
わたくしは聖人君子ではないから、嫌味のお返しくらい、したくなっちゃうわよ。
「ブランカのことだ!」
ルドルフは突然怒鳴った。
嫌味が効きすぎたのかしら……?
「最近、あの子が君にばかり懐いている! ……君を実の母親だとでも思っているような言動が目立つ!」
「わたくしは実の母親のようにブランカを愛しているわ。ブランカにもそれが伝わったのではなくて? わたくしたちの仲が良くて、なにか問題でも?」
「君は……、あの子の継母だろう? 立場を弁えてもらわねば困るのだよ!」
継母の立場ってなに?
わたくしに継子いじめでもしろと言うの?
わたくしたちは仲良しなんだから、放っておいてほしいわ!
「……では、わたくしも問います。あなたはいつ、ブランカに対して父親らしいことをしたのですか?」
「なんだと!?」
ルドルフは怒りに目を見開いた。まさに醜悪な表情だわ。
「ブランカが熱を出したと伝えても、あなたは来なかったわ。ブランカの乳母からの進言だって、すべて無視したでしょう。……ルドルフ陛下、あの子の誕生日に、なにを贈ったか覚えていらっしゃる?」
「それは……」
「なにも贈っていないでしょう? ブランカの誕生日がいつだったのかだって、もう覚えていないのではなくて?」
わたくしは淡々と言葉を並べた。
ルドルフは、すでに最低の父親ですもの。
嫌味を混ぜる必要すらないわ。
「あなたにとっては娘のブランカですら、亡き前王妃を悼むための道具でしかなかった。……でも、それでは、ブランカは孤独だわ。だから、わたくしが愛した。ただ、それだけよ」
「……君に言われる筋合いなどない……っ!」
「そうなのですか? ならば父親として、行動で示してみてくださいませ」
わたくしは立ち上がり、ルドルフの目をまっすぐに見つめた。
わたくしは、かつてはルドルフに怯え、顔色をうかがっていた。
だけどね、そんなわたくしは、もういないのよ。
「わたくしはあなたが望む『完璧な妻』にも、『前王妃の代わり』にもなれないわ。でもね、わたくしは『この国の王妃』として、『ブランカの母親』として、もう道を定めたのよ」
ルドルフは黙り込み、わたくしに背を向けた。
その背中は、なんだかとても小さく見えた。
「……君は本当に、あの子の母親になれるとでも思っているのか?」
ルドルフは部屋を出る直前、嫌味ったらしく訊いてきた。
「なにを言っているの? わたくしはもうすでに、ブランカの母親じゃないの」
わたくしは声に笑いを含ませた。さも『面白いことを聞いた』と言わんばかりに。
「国王陛下、そんなことよりも、せっかくこの国王の執務室に来たのですから、お仕事をしていってくださいませ」
ルドルフは舌打ちをした。
ルドルフの従者が、わたくしにぺこりと頭を下げながら、急いで扉を閉めた。
ルドルフ……、働く気がないなら、ここには来ないでほしいわ。
わたくしは本当に聖人君子じゃないから、自分ばかり働かされていると思うと腹が立つのよ!
その日、夜になると、わたくしは秘密の小部屋に行き、鏡の前に立った。
昼間、執務室にルドルフが来た時のことを、鏡にすべて聞いてもらう。
「鏡よ、鏡。壁にかかっている鏡。わたくしは間違っていなかったかしら……?」
『あなたの歩む道に、もはや間違いなど一つもない』
その声に、わたくしは苦笑いした。
そんな言い方をしたら、わたくしが、まるで覇道でも歩んでいるみたいじゃない。
「あなた、それはちょっと忖度しすぎよ」
『本当にそう思っているのだが……』
鏡の表面が、白くふわっと光った。
その中に、一瞬だけ、銀の髪と蒼の瞳が見えたような気がした。
「今、あなたの顔が見えた気がしたわ!」
白い靄がかかっているみたいな感じで、はっきり見えなかったけれど、かなり格好良さそうな男性だったわ!
今までこんなこと、一回もなかったのに!
『ああ、実は……、私の魂が、王妃殿下のいる世界に近づいていっているような気がするのだ。……もしかしたら、いつか私は、こうして壁にかかっているのではなく、人の姿で王妃殿下の前に立てるのではないかと、そんな気がする……』
そんなことってあるの!?
鏡が人間になる!?
ああ、あるわ。
あるわね。
擬人化っていうのかしら? それはちょっと違う?
前世ではタヌキやキツネだって人間に化けられたんだし……!
いや、現実世界で化けたところを見たことなんて一回もなかったけど!
昔話では、けっこう化けていたわ!
とにかく、付喪神である鏡が、人間に化けられたっていいと思うの!
「……待っているわ、鏡。あなたがこの世界に、人として降り立つ日を」
わたくしは鏡に向かってほほ笑みかけた。
鏡はこの広い王宮の中で、誰よりもわたくしを理解してくれている。
いつかこの鏡が人間に化けて、わたくしに会いに来てくれるなんて、すごく夢のある話だわ!




