飛び降り自〇は水っぽい音がする
「飛び降り自殺って本当に水っぽい音がするんですよ」
そう語ってくれたのは二十代後半の男性・田辺さんという営業マンの方です。
私が方々で不思議な体験を集めていると言い回っているものですから、同僚から「それなら」と言って紹介してもらったのが田辺さんでした。
なんでもその体験のせいで仕事を続けられなくなり、現在、療養しているそうなんです。
公園のベンチで田辺さんは私に話してくれました。
飛び降り自殺に遭遇したのは、その日最後の営業先から出て、額の汗をハンカチで拭ったタイミングだったと言います。
そこはいわゆるビジネス街で高い建物も多かった。ぱんぱんに膨らんだ水ヨーヨーを叩きつけたような音がしたとほぼ同時に地面が揺れました。
道路が陥没して水道管でも破裂したのかと思いましたが、後ろから甲高い悲鳴が聞こえて気づきました。ビルの上から人が落ちてきたんです。柔らかい土ならまだしも、アスファルトの道路でしたので悲惨な状況なのが遠目からでも分かりました。
自分の足元まで体液が飛び散っているのに気づき、逃げ出すようにして自宅に帰りました。
「辛いことの多い仕事でしたが、このときばかりは営業先を訪れる予定があればよかった思いました」
一人暮らしの田辺さんには、この出来事を聞いてもらえる相手がいなかった。はけ口を見つけることができず、田辺さんはそのこと以外考えられませんでした。
なにより頭の中に残ったのは、あの音。
妙に生々しい水っぽい破裂音がずっと耳に残っていたそうです。
ぱしゃんッ、ぴちゃぴちゃ。
ぱしゃんッ、ぴちゃぴちゃ。
時間が経てば忘れるものなのに、音が繰り返されるたびに、脳裏によぎる映像が鮮明になっていく。
にごった体液。飛び散った中身。皮膚のついた髪の毛の束。見てはいけないと目を背けたはずなのに、その光景がはっきりと見えるのです。
気持ちを紛らわそうとテレビを見たり、シャワーに入ったりしても、水のはじける音が聞こえてくる。音量を上げても、その音だけはなぜか聞こえてしまう。
たまらなくなった田辺さんはイヤホンをつけて眠ることにしました。夜が明ければきっと気持ちもリセットされる。
ところが、イヤホンをしているのにあの音が微かに聞こえてきます。それどころか、遠くでする音が段々と近づいてくるような気さえする。
ぱしゃんッ、ぴちゃぴちゃ。
ぱしゃんッ、ぴちゃぴちゃ。
音量を上げ、意味がないとは思いつつも手で耳を塞ぐ田辺さんは、ふと、これは呪われてしまったんじゃないかと思いました。
いや、しかしそんなことがあってはたまるか。たまたま自殺現場に遭遇しただけで、なんなら自分よりもっと近くに人がいた。呪われるなら、もっと他の人がいるはずだ。
「なんで私だけ……!」
田辺さんはそう吐き捨てますが、音は近づいてきます。
ぱしゃんッ、ぴちゃぴちゃ。
ぱしゃんッ、ぴちゃぴちゃ。
落ちては飛び散り、落ちては飛び散り。
ぱしゃんッ、ぴちゃぴちゃ。
ぱしゃんッ、ぴちゃぴちゃ。
ダメだ。もう、すぐ横に落ちてくる。
目を瞑っていても、目の前に落ちてくるそいつの顔が見えそうな気がして、壁のほうに寝返りを打ちました。
……来るっ!
耳元で破裂する音をこらえようと全身に力を入れた、次の瞬間「みてよ」と耳元で女性の声に囁かれました。
「その瞬間からの記憶はありません。でも、正直助かりました。もう少しで真横で水っぽいあの音が聞こえるところでしたから」
でもね、と語る田辺さんの顔が歪みました。
「夢を見たんですよ」
「夢、ですか?」
「ええ。夢です。夢だと思います」
気がつけば田辺さんはどこかのビルの屋上にいたと言います。夢なのに風が頬を切る感覚が確かにあって、妙にリアルな夢でした。
まさか、と私はつい口を挟んでしまいました。その後の顛末が容易に想像できたからです。
「飛び降りたんですか……?」
「はい、飛び降りました。よほどその日のことが衝撃的だったんでしょうね。なにせ夢に見るくらいですから」
「それってやっぱり……田辺さんのおっしゃる通り呪われたのかもしれませんね」
「どうでしょう。所詮、夢ですから」
飛び降りた女性が田辺さんに呪いをかけ、自分の死ぬ時の音を聞かせている。夢の中で田辺さんに自分の死の追体験させたのも、もしかすると、田辺さんを道連れにしようとしたからかもしれません。
「それから音というのは……?」
「数日は続きましたね。でも、三日後くらいには聞こえなくなりました」
「そうですか。ちなみにお祓いには……」
「大袈裟なので行ってませんよ」
……だろうなと、思いました。
これでも人並み以上には怪談を聞いている身です。普段なら余計なお世話かなとは思いながらも「一応お祓いをしてはどうですか?」と提案します。
田辺さんには、できませんでした。
ぱしゃんッ、ぱしゃんッ。
お会いしたときから水ヨーヨーを叩いている田辺さんに言っても、お祓いはすでに手遅れだと思ったからです。
「あの不思議な体験のおかげで、私、変われたんですよ」
夢の中で飛び降りたとき、強烈な浮遊感に襲われると共に、こんなことしなければよかったと後悔したと言います。
しかし、アスファルトにぶつかった瞬間ーーーー全身に味わったことのない快感が走り抜けたと、田辺さんは恍惚そうな顔をして言いました。
「人間関係、仕事の責任、日頃から感じる生きにくさ。体の中に溜まっていたものを一気に吐き出したかのような清々しさがありました。目が覚めた後の数日はね、それはもう最高の気分でしたよ」
なにせ水の音がする度に、あのはじける瞬間の快感を少しでも思い出せるんですからと、田辺さんは水ヨーヨーを弾きながら立ち上がりました。
「私ね、もうこれなしじゃ生きていけないんです」
ぱしゃんッ、ぱしゃんッ。
ぱしゃんッ、ぱしゃんッ。
水ヨーヨーをはじく力が強くなっていく。快感をもっと深く味わおうと、手に込める力がどんどん強くなっていく。
ぱしゃぱしゃぱしゃぱしゃぱしゃッ。
私はいつ弾けてもおかしくない水ヨーヨーから目が離せませんでした。
最後のひと押しという具合に田辺さんが力を込め、水ヨーヨーを叩きつけましたが、はじける前に指にかけるゴムが切れてしまいました。
公園の砂の上に転がる水ヨーヨーを拾いあげながら「〇〇さんも水の音が聞こえるといいですね」とそう言い残して去って行ったので、
「……そうですね」
私はそう答えるしかありませんでした。