【第八話】“理”の境界、知の戦線
1930年(昭和五年)十一月十四日 東京・帝国大学・理学部特別研究棟地下
壁の一面を覆う黒板には、すでに数十本の白墨の線が交錯していた。
それは物理学者たちが“異界”と呼び始めた空間の波形解析図。振幅、位相、時系列的なズレ──あらゆる既知の理論が破綻しながらも、どこかに“秩序”の痕跡を残していた。
「土屋教授、ここでゼロ点が歪んでいる。まるで……時間が非対称に“流れている”としか思えません」
帝大理学部助手・佐藤が黒板を指差し、やや興奮気味に言った。
「……観測装置では確かにそう見える。しかし問題は、“我々が観測できる限りでしか”時間を理解できていないということだ」
土屋教授は眼鏡を外し、静かに応じる。
彼の声は冷静だったが、その手には微かな震えがあった。
「青燐鉱石が発する光は、粒子でも波でもない。しかも、これらの結晶は“記録”している。構造体が変化しながら、何かを“学習”している」
「まるで知性体のように、ですか?」
「いや──もっと根源的だ。“法則”そのものが、あちら側では“進化”するらしい」
その言葉に、研究室内の空気が一瞬止まった。
物理法則の進化。それは理論物理において最も“神の領域”に近い思想であり、学者たちが決して口にしたがらない、禁じられた仮説のひとつである。
「我々は今……“理”を見ているのだよ、佐藤君。書かれた定理ではなく、生きて変化する“理”を、だ」
土屋の言葉は、ただの観測報告を超えた重みを持っていた。
そしてそれは、軍の戦略会議に新たな波紋をもたらすことになる──
1930年11月15日 帝都・市ヶ谷 陸軍省 特別参謀会議室
冷たい金属のテーブル。十名の将官たち。沈黙の中、東條英機少将がゆっくりと書類を閉じた。
「“法則が進化する可能性がある”──理学部からの公式見解、か」
「正確には、可能性を“排除できない”と申しております」
報告官の参謀が補足する。室内は静かだった。
「ならば、それは我々がいかに兵器を発展させようとも、その根本が“動いてしまう”かもしれないという意味だな」
石原莞爾大佐が、肘をついて言った。声は静かだったが、その瞳には明確な熱があった。
「つまり、我々が“この世の支配者”たり得ると思い込んできた地盤が、既に崩れつつある。だが──それでも“先に立つ者”が道を示さねばならん」
「異界という“未知”があるなら、それを日本が主導して扱う。それが正義である、と?」
「正義ではない。“未来”だ」
石原は即座に返した。
東條は、手元の地図に目を落とす。十勝岳周辺の軍用測量地図。その上に重ねられた、最新の空中写真。異界構造体が地形そのものに“影響”を与えていることが、すでに明白になっていた。
「……異界は“動かない資源”ではない。我々が踏み込むたびに、あちらも何かを変えている」
「つまり……戦場であり、実験場でもあるわけですな」
横にいた石原が微笑を浮かべた。
「だが、我が国だけがこれを抱え込むのは危うい。今後は“情報流出”と“工作”に備えるべきでしょう」
「対外諜報には、すでに特高課が動いている。旭川や帯広でも、“異界”の噂を流した民間人は……」
「消された、というわけですね」
短く、重い言葉。
そして誰も、それに反論はしなかった。
1930年11月17日 横須賀・海軍航空技術研究所
明るい試験棟。試作機の骨格に、青燐鉱石を複合素材として組み込んだ“浮遊翼”が仮設されていた。
「重量換算で17%減。だが磁場共鳴が不安定で、操縦系統に干渉の恐れがある」
技師が記録板に数字を書き込む。その横で、井上成美大佐は静かに見守っていた。
「山本さん、今の段階では空母搭載は現実的ではありません。ですが……」
「だが、“空中静止機”の可能性はある、ということか」
山本五十六少将が言葉を継いだ。
「はい。推力無しでも、一定の浮力圏を利用すれば……“空の要塞”が理論上、成立します」
「理論上、ね」
山本は試作機を見上げる。
「……兵器とは“結果”だ。だが、我々が今向き合っているのは、“理”そのものだ。井上君」
「はい」
「これは、もはや軍事という枠ではない。人類の“境界”を問われている。
科学者の言葉に、軍人が従う日が来るかもしれん」
その言葉は、山本の冷静な中にある“未来への恐怖”と“好奇心”をにじませていた。
指が震えることはなかった。ただ、ゆっくりと拳を握るその動きが、今の彼の“覚悟”を示していた。
1930年11月19日 北海道・十勝岳 異界入口 第三観測拠点
「空気圧、7.2hPa下降。共鳴周波、Δ値0.04──」
「接近している! ゼロ領域境界に“構造波”──来るぞ!」
瀬名博士が叫ぶ。観測兵たちは慌ただしく装置を固定し、記録板を確保した。
「データ確保、最大限優先! 生命線は地上! 戻れ!」
神崎中尉の指揮は冷静だった。彼は手に持った“磁界安定弾”のセーフティを外す。
だが、その瞬間──
空間が“めくれた”。
そして“それ”は、再び現れた。
外殻体。発光する眼状器官、沈黙。だが今回は、明らかに**“対象としての認識”**を持っている。
それは神崎の前で止まり、腹部を開き、内部から“図形の投影”を示した。
「これは……言語、か?」
瀬名博士が息を呑む。
浮かび上がる、幾何学的な符号。連続する三角構造、反転対称、周期列──これは“情報の提示”であり、**“対話の試み”**だった。
「……撤収しろ。記録だけは、持ち帰る」
神崎はそう判断する。
交戦でも、接触でもない。“それ”は、彼らが見るのを静かに許したまま、再び奥へと姿を消した。
今回、確実に一歩踏み込んだ──そう誰もが確信していた。
1930年11月20日 東京・陸軍省/海軍省/帝国大学合同報告会議(極秘)
集められたのは十数名。
陸海軍参謀、帝大教授陣、内務省係官。国の中枢で“異界”が初めて**“知性をもった対象”**として認識された日である。
「明言します。あれは構造物ではない。文明です」
「そして──我々に対し、言語の提示という“手段”を用いたのです」
土屋教授の断言に、室内が静まる。
「魔導でも超科学でもない。これは“異文明との対話”の第一歩です」
「危険性は?」
石原が問う。
「あります。だが、最大の危険は“無知”です。無知なまま触れれば、我々こそが最初の“暴発者”になる」
東條英機は静かにうなずいた。
「……本件、帝国として“文明接触段階”に移行したと認識する」
誰も否定しなかった。
国は、もはや“鉱石の迷宮”など見ていなかった。
その先にある“誰か”──理の向こうに存在する知性との邂逅に、踏み出していたのだ。