【第七話】遺構の門、深淵よりの使者
1930年(昭和五年)十一月四日
北海道・十勝岳山麓 陸軍第七師団・山岳斥候小隊臨時拠点
雪混じりの風が山肌を叩く。吹き下ろしの強い風が、斥候兵たちの外套をばたつかせた。
観測用の仮設望遠筒が、ガリガリと軋む音を立てている。設置してから一時間足らずで、脚部の片側が凍結していた。対処に追われる兵士の一人が、小声で舌打ちした。
「駄目だ、もう氷が噛んでる……。これ以上近づいたら、装備ごと凍り付くぞ」
「寒冷対策は何重にもしてあるはずだ。下手な場所に触るな、素手でいくなよ。さっきも一人、指が抜けなくなったって騒いでた」
「それより、これを見ろ」
中隊副官の階級章をつけた軍曹が、白布で包んだ地図の一角を指さす。斥候たちは声をひそめ、その一点に視線を注いだ。
「この位置、三時間前の報告では“空白地”だった」
「だが、今は……」
その場所に、小さな赤い印がある。昨日までは何もなかった。軍地図に存在しない地点──そこに、突如として現れたのだ。
「……“裂け目”か」
誰かが呟いた。
音もなく、煙のように。夜の山間に、異質な空気の柱が立ち上がっていた。双眼鏡を覗いた者が、言葉を失う。空間が“めくれて”いる。
気温は下がり続けていた。周囲の磁場は乱れ、持参していた懐中時計が軒並み狂っている。針は逆回転し、正時を示すことなく止まった。
軍用電信が、甲高い音を立てて震えた。
「第七師団司令部へ、緊急電文。異界事象、継続確認。気象異常あり。封鎖区域の拡張を建議──」
この報は、札幌を経由して数時間後、帝都・霞が関の陸軍省へと届く。
***
1930年十一月五日
東京市・帝都中央官庁街 陸軍省本庁舎・第一作戦会議室
「……状況は、以上であります」
若い参謀将校が、顔色を変えぬまま報告を終えた。会議室の空気は、重い。
中央の卓上には、十勝岳周辺の最新地図と、異界裂け目の空中写真が並べられていた。ぼやけた白黒写真には、確かに不自然な“影”が写り込んでいる。地表にはない、構造物のような輪郭だった。
東條英機少将は、腕を組んだまま眉間に皺を寄せていた。手元の資料を指でなぞりながら、顔を上げる。
「……現場では地磁気の乱れが顕著とある。加えて、軍用時計の一斉停止か」
「はい。報告では、“時間が固まった”と形容されています」
「馬鹿な」
別の高官が呟いた。だが東條は即座にそれを否定しない。
「否、全くの虚構とは言い切れまい。我が陸軍は、既に“日常外”の現象に対応せねばならぬ状況に入ったのだ」
黙って資料を読み続けていたひとりの男が、口を開いた。
「……問題は、それが“敵”であるか否か、ですな」
石原莞爾大佐だった。彼の視線は、誰とも合わない。どこか遠く、異国の戦場を見つめるかのようだった。
「もし、あれが“新たな戦場”であるならば。早期に奪取し、掌握すべきだ。それは戦略資源であり、地政学的にも未踏の要素だ」
「異界が地政に関係あるかね?」
「あります。国家とは、“想像された共同体”ですからな。そこに新たな領域があるならば、誰かが最初に名乗りを上げねばならん」
その言葉に、会議室内の空気が少しざわついた。誰もが“異界”を現実として捉えるには、まだ時間が足りていなかった。
***
1930年十一月五日午後
帝都・海軍省別館 軍令部臨時会議室
海軍側でも、同様の会議が行われていた。異界裂け目の出現は、陸軍だけの問題ではない。
「航空観測により、標高一三七〇メートル地点に不明な構造物を確認。輪郭は明らかに自然地形と異なる」
報告に応じて、山本五十六少将が前屈みになった。
「……敵性存在の兆候は?」
「今のところ、なし。ただし電探にノイズが走るなど、異常反応はありました。精密機器の精度が落ちております」
山本は唇を噛むように考え込んだ。その隣にいた、井上成美大佐が静かに言葉を添える。
「しかし山本さん、我々は次の戦争を想定するならば、まず“空の覇権”を確保せねばなるまい。異界資源がそれを可能にするのなら、海軍にとっても必然だ」
「井上君……。その考えは、よく分かっている」
山本は目を細めた。だが内心では、異界技術がどれほどの力を持つか、確信には至っていなかった。
***
1930年11月11日 北海道・十勝岳山中
同日 帝都・陸軍省軍事課・作戦局会議室
***
その日、十勝岳山中では冷たい霧が山肌を這うように広がっていた。斥候小隊の生存者から得られた記録と報告書は、すでに札幌の師団司令部を経由して、帝都・市ヶ谷の陸軍省に届けられていた。
陸軍省内、作戦局の会議室では、長机を挟んで数名の将官と参謀たちが沈黙のまま資料を睨んでいた。
その中心には、軍務局軍事課長の東條英機少将と、参謀本部の石原莞爾大佐の姿がある。二人は、かつて満蒙における権益を巡る議論で何度も衝突しながらも、現下の事態に対しては歩調を合わせざるを得なかった。
「……“観測不能な構造体”、か」
石原が低く呟き、指先でページを捲る。記録された地形情報、磁気異常、音響干渉、そして“構造物”の存在。どれを取っても、現代の科学的知見からは説明のつかない内容ばかりだった。
「しかも、そこには生物反応があった。斥候兵の一名は“獣のようなもの”に襲撃されたと証言している。形態不明、言語不明。だが明確に攻撃的だったと」
資料の読み上げを終えた若い参謀が言うと、東條は腕を組んだまま目を閉じた。
「封鎖は当然として……観測と記録が先決だな。現場に観測所を設け、帝都と直通の通信線を敷設するよう、陸地測量部に打診しておけ。気球による上空観測も併用だ」
「了解しました。ですが、これは通常の火山活動とは次元が違います。構造体が自律的に開閉する様子も──」
「ならばなおのこと、敵か否かを見極める必要がある」
東條の目が鋭くなる。
「この存在が日本国内に発生した事象である以上、第一に我が国の領土保全と国民安全が最優先されるべきだ。異常現象がいかなる力によって引き起こされたものであろうと、統制下に置かねばならん」
「……同意します」
石原が短く頷いた。
「だが、これは一つの契機でもある。既存の国際秩序に対して、日本が“異なる選択肢”を持つことを意味するかもしれません」
「それを決めるのは、まだ早い」
東條はぴしゃりと断言した。
石原は微笑みすら浮かべていたが、その表情には、確かに何かを見通すような光が宿っていた。
***
一方、同じ時刻──
東京湾を望む横須賀の海軍軍令部でも、緊急協議が開かれていた。海軍内で異界現象への直接対応が行われているわけではなかったが、観測飛行隊による報告や、気象庁との共同調査など、情報収集面での協力は進められていた。
「……東條少将は、やはり強硬な対処方針のようですね」
井上成美大佐が、報告書を手にしながら静かに言った。
「当然だ。陸軍としては、あの土地に“新たな戦場”が生まれたと見ている。事実、敵性反応が確認されている以上、武力対応の準備は必要だ」
応じたのは、軍令部次長・山本五十六少将。海軍きっての理論家であり実務家でもある彼は、異界の存在を単なる怪現象とは見ていなかった。
「だが山本さん、もしこの事象が資源的価値を持つものであったなら──いや、それどころか、異界の中で得られる物質や技術が、航空技術に転用可能であったなら?」
井上が問いかける。
山本はしばらく黙していたが、やがて低く答えた。
「その時は……海軍も踏み込むしかあるまい」
彼は視線を遠くに向けた。
そこには、空母艦載機の将来図──いや、“空の主権”を握る構想が、確かに存在していた。
「井上君。……この件、軍務局や航空本部にも共有しておけ。先手を打て」
「了解しました」
二人の間に、静かな火が灯る。
それは、国家の安全保障の名の下に、“未知”へと踏み出す覚悟でもあった。
***
帝都、霞ヶ関。
午後一時を過ぎた時刻。軍令部の奥、関係者以外立ち入りを許されぬ会議室では、陸軍と海軍の選抜された高官たちが重々しい沈黙のなかに座していた。
机上には、一枚の航空写真が広げられていた。十勝岳の山肌に、不自然な黒い“裂け目”のようなものが映っている。それは地質学的に説明のつかぬ直線であり、周囲の植生にも不可解な変化が観測されたという。
「異界資源なるもの……これが何であるか、我が国にとっての脅威であるか、あるいは好機であるか、それすら未定である」
そう語ったのは、陸軍省技術本部より出席していた東條英機・少将である。
彼の手元には、昨夜届いたばかりの現地報告がある。第七師団山岳小隊が確認した“物理干渉不能領域”と“空間ゆらぎ”の描写、さらには磁場の異常や生物反応の報告まで含まれていた。
「しかし、その未定なる脅威を他国が先に掌握した場合……我が国の安全保障は根底から覆される」
隣に座っていたのは、海軍側からの出席者である山本五十六・少将であった。彼の発言は、東條と異なりあくまで“可能性”を語るものではあったが、そこには明らかな危機感があった。
「山本さん、空の覇権を確保することが海軍の要諦であるのは承知しているが、今回の件においてはそれを超えた現象だ。既存の理屈では立ち行かぬ」
そう言ったのは、海軍省軍務局より参加していた井上成美・大佐である。
彼の指先が示したのは、同じく机上に置かれた複数の資料──観測気球の揚力異常、磁針の乱舞、さらには兵士の体調変化や、音の“反響異常”に至るまで、多岐にわたる報告が記されていた。
「私見だが、“空間”それ自体に別の原理が混在しているのではないかと考えている」
「空間の重層化、あるいは並行的干渉……だと?」
口にしたのは、陸軍大学校教官出身の石原莞爾・中佐。彼は当初より“異界現象”の地政学的影響に注目しており、会議中も積極的に記録を取っていた。
「仮にそれが事実であるならば、我が国の“国家戦略”は根本から再構築を迫られるだろう。軍備、外交、資源政策、教育、情報……全てにおいてだ」
石原の言葉に、室内の空気が一瞬止まったように感じられた。
「だが、ならばこそ我々が最も早く、それを実地で掌握せねばならぬ」
東條が重ねて言う。彼の言葉には、戦略家としての冷静さと、現場指揮官としての即応性の両面があった。
「当面の対応として、陸軍は現地封鎖と監視部隊の展開を続行。海軍には空中観測と外部偵察任務を依頼したい」
「了承しよう」
山本が短く頷いた。だがその横顔は、どこか釈然としない表情を滲ませていた。
「井上君……」山本が声を落とし、井上へと目を向ける。「君の言う“空の覇権”は、果たしてこの異界の原理にも通用するのだろうか?」
「わからんよ、山本さん。だが、我々には“知らねばならぬ責任”がある。そうだろう?」
そのとき、会議室の扉が静かに開かれた。報告書を携えた通信将校が現れ、東條へと一枚の用紙を手渡す。
「報告。北海道十勝岳西面、観測隊の一部が“裂け目”内部への接近に成功。ただし……その後の交信が途絶」
室内に再び沈黙が落ちた。
「……決断の時かもしれんな」
誰が言ったのか、それは記録に残っていない。ただ、その瞬間、帝国の命運は新たな岐路へと向かっていた。
***
その夜。
山本と井上は、軍令部近くの海軍クラブで会食をしていた。表向きは懇談だが、実際は先ほどの会議の“答え合わせ”である。
「“あの空”に、本当に我々の飛行機は届くと思うか?」
「まず、届かせねばならぬ。それが我々の仕事だ」
井上はグラスを置き、山本と静かに目を合わせる。
「深淵は、ただ覗くだけでは済まない。こちらの目も、覗き返されている」
その言葉に、山本は僅かに表情を動かした。
彼の背後には、遠く十勝岳の空に、異様な光の瞬きがあったという──。