【第六話】侵入者たちの足音
1930年9月19日 北海道・十勝岳山麓 午後二時二十二分
突風にあおられ、山腹の斜面を登る三人の山岳兵が身を屈めた。
秋の嵐にしては異様な強さだった。風ではなく、空気そのものが上下左右に引き裂かれるような錯覚に陥る。枯れ枝が風圧で裂け、土煙が巻き上がり、斜面の石すら振動していた。
「こりゃ、まるで……風じゃなくて、音だな」
先頭の伍長が吐き捨てた。小型の気圧計をのぞき込むも、針は振り切れたまま戻らない。
「時計も止まってる、電磁計も狂ったままだ……中尉、撤退した方が」
斜面下方で隊員が叫ぶ。中尉は頷きかけたが、何かに気づいて手を止めた。
風の向こう、斜面の先に──空が、割れていた。
雲が裂けているのではない。空間そのものが、光の向こう側に“何か”を含んで歪んでいる。
紫がかった渦、微細な水泡、赤外線のような光の層──あらゆる知識に反する景色が、そこにあった。
「記録班! 今のうちに映像を!」
「駄目です、シャッターが切れません!」
「何でもいい、鉛筆でスケッチでも!」
「伍長──あれ、動いてます!」
ひとりの兵が声を上げた。裂け目の向こうに、何かが“いる”。輪郭は曖昧で、まるで水中に漂う影のようだ。四肢ともつかない線状のものが、揺らぎながら裂け目を“這う”ように進んでいる。
「……戻れ! 全員、撤退だ!」
中尉が叫ぶ。
だが、遅かった。斜面の中ほどにいた隊員のひとりが、無言でその場に崩れ落ちた。銃声も悲鳴もない。ただ、重力に吸い込まれるようにして。
全員が凍りつく。
その直後、空間そのものが“戻る”。まるで、異物が存在しなかったかのように、風も振動も、光さえも静まり返った。
裂け目も、影も、消えていた。
だが、ひとり──戻ってこなかった。
***
1930年9月19日 札幌陸軍司令部 午後七時十七分
「……十勝岳山麓にて、偵察隊が異常現象に遭遇。磁場撹乱、重力異常、時計停止、視覚幻影、および一名行方不明……以上が、現地からの報告です」
参謀将校が読み上げる報告書に、部屋の空気が凍りつく。
札幌陸軍司令部──第七師団を中心とした北部防衛の要だ。そこに集まる中堅将校たちの間にも、今回の報告は“事態の異常さ”を示していた。
「地震か?」
「いえ、地質庁の計測では地震波なし。空振すら検出されておりません」
「気象兵器の実験ではないか? ソ連の──」
「ありえません。電磁干渉のパターンが、既存の理論と一致しません」
机の奥、薄い眼鏡をかけた男が口を開いた。
「……それで、彼らは『裂け目』と記述しているのか?」
札幌防衛司令官、東條英機少将だった。
強い語気ではない。だが、その一語には全員の視線が吸い寄せられる。
「は。現地の報告では、“空間が裂けた”との表現が三度、繰り返されています。記録装置はすべて故障。生還者の証言が唯一の記録です」
「信憑性は?」
「極めて高いと。現地隊員は全員、精神・身体ともに異常なし。ただし……全員が“何かを見た”と申告しております」
東條は腕を組み、口元を拭うように沈黙した。
部屋の奥、控えていた別の将校が一歩進み出た。
「海軍の井上大佐を、呼ぶべきかと」
石原莞爾中佐。陸軍の中でも異端視されながら、満州事変を指揮した切れ者。東條と対立することもしばしばだった。
「海軍にも通達すべきですな。こういう“奇妙な現象”には、空の目が必要だ」
「……ふむ」
東條は短く頷いた。
「帝都へ第一報を。軍務局および海軍軍令部宛て。文面は私が書く」
その一言で、室内が動き出す。
史上初の“異界報告”が、日本陸軍の内部で正式に記録された瞬間だった。
***
1930年9月20日 帝都・海軍軍令部 午前九時三十五分
「おはようございます、山本さん。例の報告、読まれましたか?」
海軍軍令部の一室に、眼鏡をかけた整った顔立ちの青年将校が入ってくる。
井上成美大佐。理論と教養の申し子。冷静沈着な軍務官僚。
奥で報告書に目を通していたのは、山本五十六少将だった。
「読んだ。面白いじゃないか、“空が裂けた”とは」
「まさかと思いましたが……これは、真面目に考えるべきかと」
山本は報告書を閉じ、机に置いた。
「井上君──この件、“空の視点”で再検討してくれないか。おそらくこれは、次の戦争の“火種”になる」
「……既に、そう思われているのですね」
ふたりの視線が交錯する。
誰よりも冷静な参謀と、誰よりも未来を見据える海軍将校。
彼らの“異界”に対する最初の思考は、ここから始まっていた──。
1930年9月20日 帝都・海軍軍令部 午前十一時四十二分
海軍軍令部の第参会議室。
山本五十六少将が着座し、眼鏡を外して額を押さえた。冷房のない室内は湿り気を含み、緊急会議の空気をさらに重くしている。
資料は手元に山積みされている。札幌からの陸軍報告、気象庁の観測記録、そして数時間前に届いた無電記録──そのすべてに、確かに“あり得ない何か”が記されていた。
「磁場異常、空間裂け目、視覚的幻影……まるで、科学と宗教の境目を歩いているようだな」
ぽつりと呟く山本に、横にいた井上成美大佐が静かに言葉を返す。
「現地の気象庁技官は、“宇宙線の降下が観測されていないにも関わらず、ガイガーカウンターの針が上限を振り切った”と記録しています」
「核反応……いや、あれはまだ理論段階だ。まさか……」
山本の眉間に深い皺が刻まれた。
「いずれにせよ、現場の報告と一致しない現象が多すぎる。観測機器も感覚も、すべてが混線している」
「それでも、見た者はいる。記録を残した者も」
井上は静かに手帳を取り出し、ページを開く。
「ご覧ください。札幌から直送された手描きのスケッチです。これは、裂け目の直前に現れた“何か”の輪郭を、複数人が独立に描いたものです」
山本が覗き込むと、そこには、線のような腕をもつ異形の影が、空間の“縁”に貼り付くように描かれていた。目も口もなく、だが確かに“こちら”を見ている気配。
冷たい汗が首筋を伝う。
「これは──」
「“視線を感じた”という証言もあります。“声がしないのに、何かが呼んでいた”と」
「……呼ばれた、か。あまりに文学的だが、否定できないのが厄介だな」
山本は椅子から立ち上がり、窓の外に目をやる。
「井上君。陸軍の動きは?」
「東條少将が報告をまとめ、石原中佐とともに“臨時封鎖案”を起案中です。対象は十勝岳山麓一帯、民間人の立ち入りを制限し、実質的に監視網を展開する方針かと」
「報道は?」
「すでに手が回っており、地滑り事故として処理されています。数日中に“軍の訓練区域化”を名目に、立入禁止措置が出る見込みです」
「……よし」
山本は再び席につく。
「我々海軍も、空からの観測を継続する。航空偵察を厚田岬から北方にかけて毎日実施し、変化があれば即座に報告。予備の通信機も積んでおけ。万が一、異常が出ても戻れるように」
「航空機の編成は──」
「呉航空隊から飛ばす。必要なら霞ヶ浦からも」
山本はペンを取り、白紙に命令草案を書き始めた。指揮官の手が、微かに震えていたのを井上は見逃さなかった。
だが、その震えは恐怖ではない。
興奮──未来への嗅覚に他ならない。
「井上君。おそらく、この“裂け目”は、我々が知っていた“世界”の終端だ」
「……と、言いますと?」
「常識の終端。科学の終端。兵器開発の終端。そして──国家の限界の向こうだ」
山本は、手にしたスケッチをもう一度見た。
「これが、本当に“別世界”と繋がっているのだとしたら。そこには、新しい資源がある。新しい物理、新しい兵器……そして、“誰か”がいる」
「侵略……あるいは、交流ですか?」
「どちらに転ぶかは、我々次第だ。だが、備えておかなければならない。陸軍よりも先に、“空”から目を付けておくんだ」
その口調に、井上はかすかに頷いた。
「了解しました、山本さん──」
***
1930年9月21日 帝都・陸軍省地下資料室 午後三時十五分
厚い鉄扉が静かに閉まる。
石原莞爾中佐は、薄暗い資料室でひとり、古文書をめくっていた。
彼の指先が止まったのは、江戸期の地誌──蝦夷地開拓に関する未分類の記録。
「……あったな。『十勝山、天の口開き、火の影、人を呑む』──」
古びた筆記体で記された一節。明治のはじめ、山間にて“空に吸い込まれた人々”がいたという伝承。
現地民は“カムイの咆哮”と呼び、恐れて近づかなかった。
「過去にも、“開いた”のだな。だが、記録はすべて封じられ、風化した」
石原は本を閉じた。
「……この戦争は、“過去”との戦いでもある。真に怖れるべきは、未知の敵ではなく、忘れられた“歴史”だ」
その言葉が、地下室の静寂に吸い込まれていった。
***
1930年9月22日 帝都・海軍軍令部屋上 午後五時三十七分
夕暮れの空を見上げながら、山本五十六は煙草を吸っていた。
遠く、厚田岬の方向に、今日も偵察機が飛んでいた。
新たな報告はなかった。
だが、静けさこそが──次の“鼓動”の前触れだ。
「……君は、何を見たんだ? 十勝の空で」
煙の先に、あのスケッチの影が浮かぶ。
人類はまだ、あの裂け目の“意味”を知らない。
だが、最初の“足音”は、すでに聞こえていた。