【第三話】 侵蝕する未知──東京と北海道の臨界点
昭和五年九月十日。東京帝国大学理学部第三実験棟。
土屋教授は薄暗い地下実験室にて、青燐鉱石の放射性測定と光学異常の解析に取り組んでいた。採取された結晶体の一部は、波長不可視の光を断続的に放ち、霧状の結晶粉末は真空下で自己構造を保持し続けていた。常識ではあり得ぬ現象だった。
「……これは、エネルギーではない。現実の“改変因子”だ」
彼は独りごちる。物理学が定義する法則を、根本から書き換える力。それがこの鉱石の本質ならば、国家の存亡を左右する代物に他ならなかった。
この実験は、既に軍部の支援を受ける国家機密の一環として扱われていた。理学部地下に設けられた臨時研究班には、帝大教授陣に加え、陸軍技術本部や海軍機関学校からも観察者が送られ、あらゆる変化が分単位で記録されていた。
一方、市ヶ谷では、陸軍参謀本部の戦術会議室にて緊急会合が開かれていた。
「この件、陸軍としては第零調査隊を本省直轄で指揮すべきと考える」 桐原賢蔵中佐が力強く述べた。
「現地展開はすでに完了しており、情報収集と部隊指揮の一体化を進めるべき時期にある」
これに対し、海軍軍令部の山本五十六少将は資料を静かに閉じた。
「中佐。あれは単なる地下構造物ではない。異界の理が海にまで及ぶ可能性を否定できぬ以上、海軍の介入は必然だ」
「異界が陸上で発見された以上、陸軍の管轄であるべきでは?」
「その理屈が通るならば、航空機は空の発明であり、海軍は空母を放棄せねばならなくなる」
一瞬の静寂。議場に微かな緊張が走る中、扉が静かに開いた。
「お二人とも、そのような論争は意味を成しません」 井上成美大佐が姿を現し、会議室へと入ってきた。
「この事象に必要なのは、統合的判断と柔軟な思考です。帝国の未来を背負うのは、陸でも海でもない──“理を扱える者”です」
「井上君……」 山本が口元を緩め、椅子に寄りかかる。
「我々は旧来の軍事理論で動いてきた。しかし今、我々の前にあるのは、国土の上に突如出現した“異なる法則”。これを誰が掌握するのか──その問いに、軍は自らの限界を認める必要がある」
桐原は腕を組み、黙していた。
「私は共同司令部の設立を進言します」井上は続ける。 「陸海軍の統合、学術機関との連携、内務省の治安統制を含めた“異界管理組織”を速やかに編成すべきです」
誰も異を唱えなかった。
同時刻、神崎尚武中尉は第二次異界潜入任務の準備を進めていた。彼の拠点である北海道・旭川第七師団の一角には、すでに軍用輸送車両が並び、軍医や技術士官が緊張の面持ちでブリーフィングを行っていた。
隊員は総勢十五名。第七師団からの選抜兵に加え、帝大・東北帝大・陸軍技術本部の合同技術者、さらに秘密裏に送り込まれた海軍の観測士が加わる。
異界ゲートは、前回観測された空間境界点よりやや下層──火山地帯の自然洞窟と繋がった“黒曜の回廊”と呼ばれる地点に再び姿を現していた。特殊な地熱探査装置が、周期的な空間振動を測定し、ゲートの開閉周期をおおよそ10時間23分間隔であると突き止めていた。
今回は侵入前に新型の磁場測定装置と、地形投影機が試験投入された。前回の観測時には確認されなかった幾何学的構造が地下に広がり、内部の気圧・磁場ともに常時変動を起こしていた。通路壁面には新たな浮彫文様──後に“第一構文体”と呼称される異界の記録文字と思しき図形が現れていた。
「我々が踏み入れたのは、単なる資源鉱床ではない……文化だ」 と、地質班を率いる鈴木博士は呟いた。
だが、それが何を意味するのかは誰にも分からなかった。すべてのパターンが人類の文明史に存在せず、単一文明の遺構とも言い切れなかった。いくつかの構文には連続的な数列や幾何図形が重ねられており、これは言語と数学を兼ねる何らかの情報構造体ではないかと推察された。
深部での新たな接触もあった。
今回は明確に“自律行動をとる異界生物”が神崎たちに接近してきたのである。外骨格と鉱石の中間のような外皮。昆虫とも機械ともつかぬ存在。交信の試みは失敗したが、明らかな“観察行動”と記録的な行動パターンが認められた。
神崎はその行動に対し、報復的行動や接触ではなく、あえて“撤収”を選択。
「相手が敵意を示していない以上、接触は我々の“領域”を侵しかねない」 と、理性的な判断を下した。
帰還した神崎たちは、直ちに帝都に報告書を提出。土屋教授の元には軍使が直々に訪れ、報告書と試料を手渡した。
会議室では教授陣と将校たちが集まり、分厚い報告資料を前に言葉を失っていた。
「空間歪曲、構文体、生物反応。これらが偶然に重なる確率は、地球上では一億分の一以下だ。すなわちこれは……知性の痕跡と見るべきでしょう」
この見解により、陸軍・海軍・内務・文部各省は異界構造を“異文明の遺構”として正式に認定。急遽“異文明接触戦略”に関する新たな研究班が編成される。
その頃、横須賀では初の青燐鉱石反応炉が臨界試験に入っていた。事故を防ぐため一部は海中施設で行われ、爆縮ではなく“磁場拡張”が起きるという未知の現象が観測される。現場の技術将校たちは震撼した。
「これは……兵器として使えるレベルではない。だが、使えれば、すべてが変わる」
技術本部では“魔導炉”の仮称が提案され、早くも空母搭載型エネルギー装置への応用を検討する文書が作成された。
帝都では、秘密裡に天皇陛下へ第二報が上がる。
「異文明との接触を、陛下にどのように奏上すべきか……」
高辻情報係官は悩んでいた。単なる資源の話ではない。文化、知性、意思。天皇の大権の外にある“存在”との接触は、政治体制の根幹を揺るがしかねない。侍従武官長との協議の末、文言は極めて慎重に選ばれた。
「陛下、これは……“他の理に属する文明の痕跡”でございます」
翌日、議会特別軍事委員会では、桐原中佐が冷静に述べた。
「我々はもはや、自国の存立を賭けて“存在”と対話すべき岐路にある」
その頃、北海道・十勝岳山麓では、地元住民の間で“幽火”と呼ばれる青い光の目撃報告が相次いでいた。夜間に現れる奇妙な光、耳鳴り、電子機器の不調、家畜の怯え。帯広新聞はその実態を追うが、翌日から社内に陸軍憲兵が常駐し始めたという。
帝国は、未知の扉を開いてしまったのである。