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わがままな妹を愛していた姉のお話

「おや? 先月プレゼントしたブレスレットは着けてきてくれなかったのかい?」


 王都の街角の一角にある上品な喫茶店。

 その一席で向かい合って座る若い男女がいた。

 

 女の名は男爵令嬢プリゼンシア・メムパスト。肩までまっすぐに伸びる髪はしとやかなグレー。瞳の色は冬の湖を思わせる薄い灰色。冬の凍て空を思わせる物静かな令嬢だった。

 

 男の名は子爵子息クレスディーム・ヘレアフタール。さらりと流れるショートのブロンド。瞳の色は涼やかな青。端正な顔立ちは冬の貴公子と言った感じだ。

 

 二人とも身に纏っているのはさほど目立たない平民の服だ。だがその気品ある佇まいを隠せてはいない。この王都は治安が良いおかげか、貴族が平民に扮して街に繰り出すことが流行っていた。

 今日から冬休みに入った。婚約関係にある二人は、貴族のしがらみからしばし離れ、休日を楽しんでいた。

 

 クレスディームからの指摘にプリゼンシアはバツの悪そうな顔をした。


「実は妹がどうしても欲しいと言うもので……つい渡してしまいました。申し訳ありません」

「また、妹君か……」


 クレスディームが眉を寄せる。こうしてプレゼントが妹に取られてしまうのも初めての事ではない。


「まだ君は妹のことを甘やかしているのか?」

「はい……いけないとはわかっているんです。でもあの子の笑顔がとても愛らしくて……ねだられるとついつい断れなくなってしまうんです」


 語るうちにプリゼンシアの口元は笑みの形をとっていた。凍て空を想起させる令嬢らしからぬ温かな笑みだった。妹のことが可愛くて仕方ないという様子だった。

 そんな婚約者の幸せそうな姿に対して、クレスディームは深々とため息を吐いた。


「君の妹好きは相変わらずだな。そろそろそのかわいらしい妹君に会わせてはもらえないか?」

「残念ですが、それはできません。クレスディームのような素敵な方を見せたら、きっと妹は欲しがる気持ちをおさえることができません。そんなことになったらわたしは……」


 そこまで言って、プリゼンシアは口元を押さえた。つい勢いに任せて話過ぎてしまい、途中で恥ずかしくなってしまったのだ。その頬は紅く染まっている。

 プリゼンシアにとって妹は誰よりも大切な存在だ。だが婚約者であるクレスディームもまた、かけがえのない人だった。家同士の関係で決まった婚約だったが、プリゼンシアは目の前のこの人のことを妹と同じくらい大事に思っていた。

 

「そうか……君の中ではそういうことになっているんだな……」


 クレスディームは視線を落とし、つぶやいた。プリゼンシアに向けた言葉ではないようだった。

 その目は悲し気で、その声は憂いに満ちていた。そんな彼を見ていると、プリゼンシアなひどく不安な気持ちになった。

 しばらくそんな彼の姿をじっと見ていた。しばらくすると、視線を上げたクレスディームと目が合った。

 

「ああ、すまない。少し考え事をしていた。それより休みの話だ。君は明日から実家に帰るのだったな?」

「はい。明日の朝一番の馬車で男爵領に戻る予定です」


 学園は今日から冬休みに入っていた。大半の生徒は帰省して休暇を過ごす。

 冬休みの間、二人は会う予定がない。今日はしばらくのお別れの前に二人で過ごすつもりだった。このあとは美術館に行く。花々を描くことで有名な画家の新作が展示されると聞いて、それを見に行くことになったのだ。


「実は遠国の珍しいお菓子が手に入ったんだ。休み中に君の家に届くように手配した。チョコレートというお菓子だ」

「チョコレート、ですか。どんなお菓子なんですか?」

「固そうに見えるが、口に入れるととろけていく。口の中にひろがるとびきりの甘さとほろ苦さは他の菓子ではなかなか味わえないものだ。ぜひ妹君と味わってほしい」

「それはおいしそうですね。あの子は甘いものが好きですから、きっと喜ぶと思います」

「ああ。ぜひ妹君といっしょに楽しんでほしい」

「ありがとうございます。冬休みの間はクレスディーム様とお会いできなくて寂しく思っていましたが、楽しみができました」


 プリゼンシアは微笑みを浮かべた。クレスディームも笑みを返す。しかしその顔はどこか悲しげだった。

 先ほどからどうも彼には陰りが感じられる。プリゼンシアはその原因に思い当たることがあった。


「クレスディーム様は予定通り、帰省せずに研究に専念されるのですよね? 先ほどから気分がすぐれないご様子ですが、研究で何か問題でもあったのですか?」

「そんなことはない。前にも話したが、最近発見された新種の毒草は実に興味深い性質を持っているんだ。この冬休みの間に研究の目途をつけたいと思っている。でもそうだな……それで熱を入れ過ぎて、疲れてしまったのかもしれない」

「そうでしたか。あまり無理はなさらないでくださいね」

「ああ、気をつけるようにするよ」


 クレスディームは貴族の通う学園の中でも優秀な生徒であり、薬学を専攻している。学園内の研究室に入って、本格的な研究をしている。魔法の扱いにも長けていて、薬草と治癒魔法を組み合わせた治療術は本職顔負けの腕前だ。学生の身でありながら、難病に苦しむ患者を何人か治療したという実績を持っている。

 プリゼンシアもまた優秀な生徒だった。クレスディームのように特化した得意分野はないが、彼女はおよそすべての分野を高い水準でこなした。薬学の成績こそクレスディームで劣るが、期末試験の総合成績では常に学年の上位に属していた。

 薬学の俊英と総合的に優秀な才媛。学園では似合いの婚約者と評判が高かった。

 

 クレスディームが研究に熱心なのはいいことだ。だが、プリゼンシアは家の都合で帰省しなければならない。疲れているクレスディームのことが心配だ。しばらく会えないと思うと寂しくも感じる。

 そんなことを考えていると、クレスディームがぎゅっと手を握ってきた。

 

「ブ、クレスディーム様……!?」


 まるで頭の中の不安を読み取られたかのようなタイミングで手を握られた。その温かさに身をゆだねてしまいたくなる。しかしいくら婚約者だからと言って、人目のあるところで断りに婚約者の手を握るなど、貴族としては不作法な行いだ。

 一言くらい、苦言を呈さなくてはならない。そう思い口を開こうとしたが、言葉を呑み込んだ。クレスディームはどきりとするほど真剣な目で自分を見ていたのだ。


「私は君の婚約者だ。だから君がどんな病気になろうとも、必ず私が治してみせる」


 真剣で熱のこもった目だった。鋭くも温かな言葉だった。握られた手を通して彼の想いが伝わってくるようで、プリゼンシアは心が温かになるのを感じた。


「はい、あなたのことを信じています……」


 はにかみながらそう答えた。

 プリゼンシアは、これは冬休みの別れを前にした婚約者のごく当たり前のやりとりだと思っていた。

 今の言葉にどれほどの覚悟が込められていたか。彼女はこのとき、そのことに気づきもしなかった。

 

 


「お、お待たせしました。クレスディーム様」


 冬休みになり、実家に戻って一週間ほど経ったある日の朝。プリゼンシアは突然やってきたクレスディームを出迎えていた。

 他家の、それも格上の貴族がやって来るなら出迎えの準備がある。訪問の際には事前に連絡をよこすのが礼儀だ。クレスディームはそんな基本的なマナーを無視するような人ではない。それでも突然来たということは、よほどの急ぎの要件であるらしい。

 ひとまずクレスディームには応接室に入ってもらった。プリゼンシアは使用人を呼びつけ身支度を整え、急いで彼の前へとやってきた。

 プリゼンシアが部屋に入ると、クレスディームは待ちか切れないかのように席を立ち、彼女の元へ来た。

 

「突然の訪問、申し訳ない。だがことは一刻を争うんだ。プリゼンシア、私が送ったチョコレートは食べたか?」

「は、はい。とてもおいしかったです」

「妹君は甘いものが好きだったな。彼女も食べただろうか?」

「ええ、二人で食べて、残りは妹が箱ごと持っていてしまいました」


 その言葉を聞くと、クレスディームは両手で顔を覆った。

 プリゼンシアからすればわけがわからない。わざわざ遠国の菓子の感想を聞くために予告なく突然来るような人ではないはずだ。


「体調に何か異常はないか? だるさや吐き気があるのではないか?」

「は、はい。確かにおっしゃる通り、朝から少々身体の具合は悪かったです……」


 朝から全身にけだるさがあり、熱っぽさがあった。今日は一日、自室で過ごして経過を見るつもりだった。そう思っていたところに突然、クレスディームがやってきた。

 出迎えができないほど体調が悪いわけではなかった。だから来客用のドレスに着替え、顔色の悪さを見せないように少し化粧を濃くしていた。

 薬学に精通するクレスディームなら、それでも体調の悪さを察したかもしれない。だがその症状まで正確に言い当てるのは少々妙なことだった。


「失礼を承知でお願いする。袖をまくって腕を見せてくれないか?」

「は、はい」


 肌を晒させるなど、貴族令嬢として簡単に聞き入れていいことではない。しかしクレスディームの目は真剣だった。何か特別な理由があることが伺えた。

 言われるままに袖をめくる。すると前腕部の内側にいくつかの黒っぽい斑点があった。


「こ、これは……!? 朝起きた時にはこんなものはありませんでした! いつの間に……?」

「プリゼンシア、落ち着いてくれ。大丈夫だ。すぐに治療する」


 そう言ってクレスディームは呪文を唱えた。複雑な言葉を組み合わせた初めて聞く呪文だった。プリゼンシアも高い魔力を持ち、魔法の扱いについて学園で学んでいる。魔法に関する知識は並の魔導士を凌駕する。

 それでもクレスディームが使っているのが、かなり複雑な術式の高度な魔法であることくらいしかわからなかった。

 やがて大きな魔力が流れ込んでくるのを感じだ。すると全身が燐光に包まれた。だがそれもわずか数秒の事だった。

 光が消えると、朝から彼女を悩ませていた倦怠感や熱っぽさは嘘のように消え失せていた。

 

「プリゼンシア、身体に異常はないか?」

「ええ、大丈夫です。朝からあった身体の重さも熱っぽさもすっかりなくなりました」


 クレスディームは大きくな安堵の息を吐いた。

 どうやら彼が来たのはこれが目的だったらしい。それにしても、どうして体調が悪いことが分かったのだろう。プリゼンシアはこれまでの会話の流れを思い返す。

 クレスディームはチョコレートを食べたかどうかを聞いた。次に身体に異常がないかと聞いた。それらの問いの意味することを想像し、プリゼンシアは戦慄した。

 

「すまないプリゼンシア。君に贈ったチョコレートには毒が仕込まれていたんだ」


 クレスディームの言葉は、プリゼンシアの最悪の想像そのままだった。




 クレスディームはここ最近、新種の毒草の研究を進めていた。だが実は、この毒草は新種ではなかった。とある邪教集団が既に何十年も前に発見し、秘匿していた毒草だったのだ。

 その毒草は調合を施すと強烈な催眠薬となる。邪教集団はこの催眠薬を利用して体制を強固なものにし、少しずつ勢力を拡大していた。

 だがクレスディームがこの毒草を見つけてしまった。いかに生息地が限られ秘匿しようと植物であることに違いない。別の場所で自然に生え、それが発見されることもある。

 クレスディームがこの毒草を研究しその成果を発表してしまえば、王国で禁止薬物として規制するだろう。そうすれば催眠薬に依存した邪教集団の体制は崩壊する。

 

 邪教集団はクレスディームの研究を阻もうとした。だが相手が貴族とあっては容易に手を出すことはできない。そこで遠国から取り寄せた菓子に毒を仕込むという卑劣な手段を取ったのだ。



「つい先日、その邪教集団は王国の騎士団に摘発された。それでチョコレートに毒が仕込まれていることが分かったんだ。私の子爵家で口にした者もいたが、全て治療した。そして急いで君の所に駆けつけてきたんだ」

「そんな恐ろしいことがあったんですね……」

「この件に関しては後で正式に我がヘレアフタール子爵家から謝罪する。だが今は治療が先だ。君のほかに食べた者がいないだろうか。妹君はさっき食べたと言っていたな。すぐにここに連れて来てくれ。治療しないと命に係わる」


「妹をあなたに会わせるわけにはいきません!」


 プリゼンシアは大声をあげて拒絶した。彼女は自分で自分の声に驚いたように口元を押さえた。

 クレスディームは眉を寄せた。

 

「会えば妹に取られる……君はそう心配していたな。だが今はそれどころではない。命にかかわることなんだ」

「さ、先ほどの魔法を教えてください! 妹はわたしが治療します!」

「残念ながらそれは無理だ。あの治療魔法は私が開発した特殊なものだ。君が魔法の扱いに長けていることは知っているが、それでも習得するのに最低一か月はかかるだろう。そんなに時間がかかっては妹君の身体がもたない。他にこの魔法を扱える者もいない。私がいますぐ治療するしかないんだ」


 そのことはプリゼンシアも実感していた。目の前で使われたというのにその術式の構造すら理解できなかった。単純な低位魔法ならともかく、複雑な高位魔法はただ使い方を知れば扱えるというものではない。術式への深い理解と正確な魔力操作が必要となる。それは一朝一夕に身に着くものではなく、地道な訓練を経てようやく扱えるようになるものなのだ。

 

「妹君が私のことをどれほど求めようと、君の婚約者という立場を忘れたりしない。君を裏切らないと誓おう。何も心配しなくていい。だから早く妹君を連れて来てくれ」


 そこまで言われても、プリゼンシアは首を縦に振ることはできなかった。

 なぜなら、妹をこの場に連れてくることなど『不可能なこと』だったからだ。




 プリゼンシアは幼いころから優秀だった。教わったことはすぐに習得した。理解が深く思考もさえていて、未知のことはすぐに既知のことへと変えていった。

 どんなに新しく珍しい未知なことも、知ればすぐに既知なことへと変わる。そんな彼女にとって日々の暮らしは刺激というものがなかった。どこへ行っても、何を見ても変わらない。世界は灰色で薄暗い、冬空のようだと思っていた。

 

 そんな灰色の世界で唯一、色をもつ存在がいた。それが妹だった。

 男爵令嬢ヴァネッシア・メムパスト。プリゼンシアの三つ年下の妹。ヴァネッシアは、理性で世界を知る姉とは対照的に、感性で世界を感じ取る令嬢だった。何でもない事に驚き、ありふれたことを楽しみ、気分屋でくるくると表情が良く変わる少女だった。

 プリゼンシアにとって妹は理解しがたい存在だった。血のつながりがある身近な存在でありながらその反応や行動がまるで予想できなかった。

 だが、そんな妹を見るのが楽しかった。ヴァネッシアの笑顔が何よりも輝いて見えた。その明るい笑顔は、凍て空の切れ間からふと差し込んだ太陽のように、プリゼンシアの心を温めた。

 

 ヴァネッシアはよく姉の物を欲しがった。幼い女の子は大人に憧れるものであり、年上の姉の持ち物はなんでも輝いて見えるのだ。

 プリゼンシアは物に執着しなかった。令嬢として着飾ることの重要性は認識している。だがどんなドレスもアクセサリーも、彼女にとっては灰色の世界を構成する物に過ぎなかった。

 だからヴァネッシアの求めに応えた。ねだられるままに物を譲った。どんなドレスや宝石より、妹の笑顔が大切だった。

 両親に諫められても二人のこの関係は変わらなかった。ヴァネッシアはわがままな少女に育っていった。

 

 

 プリゼンシアが14歳になり学園への入学も近づいたころ、縁談の話が舞い込んできた。貴族の令嬢として高位貴族との婚姻は義務であり、プリゼンシアはそれを当然のこととして受け入れた。

 縁談の相手は子爵子息クレスディーム・ヘレアフタール。ブロンドに蒼の瞳の理知的で美しい貴族子息だった。幼いころから薬学を好み、熱心に学んでいると聞いていた。

 釣り書きに記されたそれらの情報にプリゼンシアが特に感情を動かされることはなかった。直接会っても何の感慨も抱かなかった。彼もただ未知から既知に変わり、すぐに灰色の世界の一部になるものと思っていた。

 

 だが、そうはならなかった。

 彼は勉学に勤しむあまり、女性の扱いに関しては少々不器用なところがあった。

 女性は花を見せれば喜ぶという知識をもとに、子爵家の花園や美しい花々で有名な公園にプリゼンシアを誘った。

 花を楽しむと言えばその彩の美しさやかぐわしい香りだ。世界を灰色に感じるプリゼンシアにはそうした楽しみ方はわからない。

 しかし彼はそうしたことにほとんど触れず、学術的な知識ばかりを語った。花の学名や植物学上の分類、植生の分布や花弁の数や葉の形状や生態。薬としてどう使えるか。栽培にはどんな手法が適しているか。そういったことばかり熱心に語った。

 

 普通の令嬢なら退屈に感じられたかもしれない。プリゼンシアにとって知識を得るということは未知を既知に変えるだけのことだが、知識欲はあったので退屈はしなかった。それにクレスディームは不器用ながらも、婚約者を楽しませようする気持ちは本物だった。花々について語る彼の言葉の数々は、プリゼンシアにとって温かなものだった。彼と共に見る花々は、彼女の灰色の世界で色を持ち輝いて見えた。

 クレスディームは妹の次に見つけたぬくもりだった。その温かな気持ちが恋へと育つのにそう時間はかからなかった。

 

 

 プリゼンシアのメムパスト男爵家は夏になると領地内の別荘で過ごす習慣となっている。

 婚約者となって初めての夏。この別荘へクレスディームを招き、数日を過ごしてもらった。妹のヴァネッシアはこのとき初めて姉の婚約者を目の当たりにした。

 感情豊かなヴァネッシアは、理知的でスマートなクレスディームのことをすっかり気に入ったようだった。彼が帰ったあとも、話題に出すのは彼の事ばかりだった。

 ある日の昼下がり、別荘の庭に設えられたテラスで二人はクレスディームついて語り合っていた。話が盛り上がっていくと、ヴァネッシアはたまりかねたように言った。


「お姉様! クレスディーム様ってとっても素敵ね! お姉様お願い! クレスディーム様をわたしに譲って!」


 ヴァネッシアの言葉に悪意はなかった。いつもの通り欲しい物を姉に要求しただけだ。プリゼンシアはこれまでずっと、それを許し、応えてきた。

 妹は灰色の世界に初めて色をくれた大切な家族だ。婚約者に恋してもなお、妹が一番大切だと思っていた。そうは言っても家同士の婚約を当事者の一存で左右できるはずもない。まずは両親に相談してうまく取りなさなければならないと、冷静に考えた。


「それは無理です。貴族の婚姻は家同士の重要な契約です。あなたがいくら気に入ったからと言って、簡単に譲ることなどできません」


 しかし、口から出てきたのは明確な拒絶の言葉だった。

 ヴァネッシアは驚きに目を見開いた。姉からこんなにもはっきりと断られたことはなかったのだ。

 プリゼンシア自身も自分の発した言葉に驚いていた。

 言ったことは嘘ではない。だが普段のプリゼンシアなら、もっと言葉遣いに気をつけて、妹の機嫌を損ねないようにできたはずだ。ずっとやってきたことだ。それなのに、この時はそれができなかった。


「お姉様の意地悪! もう知らない!」


 そう言ってヴァネッシアは別荘を飛び出してしまった。プリゼンシアは驚きのあまり、妹を呼び止めることも追いかけることもできなかった。

 別荘は閑静な林の中にある。魔物よけの結界が施してあるし、周囲の獣は定期的に掃討してある。まだ昼下がりで日も高い。何の危険もないはずだった。


 しかしヴァネッシアは夕食の時間になっても帰ってこなかった。不審に思った男爵は使用人たちに探しに行かせた。

 ヴァネッシアはすぐに見つかった。別荘から歩いて30分も離れていない場所で彼女はこと切れていた。


 不幸な事故だった。ヴァネッシアは林の中を駆け、木の根に足を取られて転んだ。それだけなら打ち身や擦り傷程度の軽傷で済んだだろう。だが転んだ先にたまたま岩があり、そして打ち所が悪かった。

 一つ一つはなんてことのない些細な不運だ。しかしそれらが少し重なるだけで、人の命が失われることもあるのだ。

 

 プリゼンシアは自分を責めた。もっと違う言い方をしていればヴァネッシアは林の中に駆けて行ったりしなかったかもしれない。すぐに追いかければ事故を防げたかもしれない。

 だがいくら後悔したところで失われた命は戻ってこない。

 食事もろくに喉を通らなくなり、プリゼンシアは見る見る痩せていった。そしてヴァネッシアの葬儀が終わったところで、ついに彼女は倒れた。

 それからプリゼンシアは一週間もの間、眠り続けた。

 目覚めた時、男爵が一週間も眠り続けていたと伝えると、プリゼンシアは実に落ち着いた声でこう言った。

 

「そんなに眠っていたんですね。ヴァネッシアにも心配をかけてしまいました。あの子を早く安心させてあげないといけませんね」


 プリゼンシアはヴァネッシアの死にまつわること全てを忘却していた。そしてそれからは、事故の起きる前と変わらない様子で日々を過ごした。

 時折、「あの子にねだられたから」と言ってドレスやアクセサリーをヴァネッシアの部屋に置いていった。

 ヴァネッシアは既に墓の中にいる。その姿を見ることはない。生きていると信じていながら、その姿を目にしないことにまるで疑問を持たなかった。明らかに異常な状態だった。

 

 両親もそんな娘のことを放置していたわけではない。ヴァネッシアが死んだことはちゃんと話した。死亡証明書を見せた。墓に連れて行ったこともあった。

 だがプリゼンシアは両親たちの言葉を質の悪い冗談として受け取り、本気にしなかった。

 ヴァネッシアが死んだという決定的な証拠を目の前にすると、プリゼンシアは人形のように無反応になった。声をかけても強く揺り動かしても何の反応も返さない。放っておくといつまでも動かない。

 ヴァネッシアの死の証拠を遠ざけるとようやく言葉を返すようになった。妹の死を知らない、普段通りのプリゼンシアに戻った。

 

 困り果てた男爵は高名な医者を招き診断してもらった。

 

「ご令嬢が妹君の死を認識できないのは、壊れそうな自分の心を守るためです。精神魔法で強制的に認識させれば、ご令嬢の心は壊れてしまうかもしれません。時間が経てばご令嬢も受け止める準備ができるでしょう。今はどうか様子を見てあげてください」


 医者からの診断を受け、プリゼンシアの両親は、娘が回復する日を信じて見守ることにした。

 だが、婚約者であるクレスディームは時間に解決を任せるつもりはなかった。そして、彼は行動した。




 そして今。クレスディームは解毒するために妹に会わせろと言い出した。


「時間がない。解毒魔法を使わなければ妹君の命が危ないんだ」

「ま、待ってください!」


 引き留めるプリゼンシアの手を振り払い、クレスディームはヴァネッシアの部屋へと向かい、使用人に言いつけて部屋を開けさせた。

 ヴァネッシアの部屋には物が散乱していた。

 ベッドには何着ものドレスが折り重なっていた。テーブルの上には様々なアクセサリーが並べられていた。まるでどこかの市場のような有様だった。人が暮らしているとは思えない部屋だった。

 

 これらの品々はプリゼンシアが持ち込んだものだ。

 「妹にねだられた」と言ってはドレスやアクセサリをヴァネッシアの部屋に持ち込む。そしてプリゼンシアはただ一人、いもしない妹と歓談して、この部屋に置いていく……そんなことを何度も繰り返していた。

 男爵は、使用人たちにこの部屋を片付けず、最低限の掃除だけするように命じていた。この部屋の異常な有様を目にし、いずれプリゼンシアが正気に返ることを期待していたのだ。

  

 その部屋にクレスディームはずかずかと踏み入った。そして部屋の中をじっくりと見回した。

 テーブルの上には菓子の箱があった。クレスディームの贈ったものだ。仕切りで区切られた中にチョコレートが収まっている。そのいくつかは空きがある。プリゼンシアが食べたのだろう。

 

 振り返ってプリゼンシアに向き直った。彼女は震えていた。まるで極寒の地に薄着で投げ出されたようにぶるぶると震えていた。

 そんな彼女の様子に構うことなく、クレスディームは問いかけた。

 

「ヴァネッシアはここにはいないようだ。さあ、彼女を連れて来てくれないか?」


 邪教集団が菓子に毒を仕込んだと言うのは作り話だ。毒を仕込んだのはクレスディームだ。彼が開発した、彼の魔法でしか解毒できない特殊な毒を仕込んだチョコレートを贈ったのだ。

 事前にプリゼンシアの両親には話を通してある。いくらプリゼンシアの異常を正すためとはいえ、本当に毒を盛るなど正気の沙汰ではない。だが両親は娘の哀れな姿に疲れ切っていた。なにより婚約者を想うクレスディームの熱意にあてられ、この無茶な計画を了承した。


「すぐにでも解毒魔法をかけなければヴァネッシアの命が危ないんだ。さあ、彼女を今すぐ連れてきてくれ」


 静かではっきりとした、逃れようのない要求だった。

 

 プリゼンシアは、ヴァネッシアが死んだ証拠を目の前にすると人形のように無反応になって逃げてしまう。

 だが今、彼女は死の証拠を突きつけられているのではない。まったくの逆だ。彼女自身が生の証拠を出すことを強いられているのだ。

 そこから逃げることはできない。プリゼンシアはヴァネッシアが生きているという虚構に縋っている。生の証拠を出さずに逃げるということは、妹の死を認めることになる。

 

 ヴァネッシアはチョコレートを食べなかったと言い張ることはできるだろうか。それは無理だ。既に妹も食べたと答えてしまった。そもそもヴァネッシアが美味しそうなお菓子を前に食べずにいることなどありえない。


 ヴァネッシアは出かけていてどこに行っているかわからない――そう言ってこの場をごまかすことはできるかもしれない。でもそうすると、毒入りのチョコレートを食べたヴァネッシアは、手当てが間に合わず命を落としたということになる。

 

 生の証拠を出すのを諦め逃げ出すか。

 あるいは偽りを貫き通し、この場を嘘でごまかすか。

 どちらを選んだところでヴァネッシアの死は確定する。

 クレスディームが仕掛けたのは、そういう二択だった。


「うっ……うっ……ううっ……」


 どちらを選ぶこともできず、プリゼンシアはボロボロと涙を流した。

 クレスディームはそんな彼女を真剣な目でじっと見つめた。覚悟の決まった目に、彼が引くつもりはないことがわかった。

 彼は何時間でもプリゼンシアの答えを待つことだろう。時間は彼女に味方しない。答えないまま時間が経てば、毒でヴァネッシアは死んだことになるのだ。

 プリゼンシアは耐えきれなくなって泣き崩れた。


「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……! わたしのせいで妹は……ヴァネッシアは死んだんです!」


 追い詰められ、逃げ場を無くし。ついにプリゼンシアは、妹の死を認めた。




 メムパスト男爵家の別荘から少し離れ丘の上。眼下に一面の花畑が広がる場所。そこにヴァネッシアの墓はあった。

 プリゼンシアとクレスディームは二人でこの場を訪れていた。

 妹の死から目をそらしていた彼女は、ここに近づいたことさえなかった。

 プリゼンシアは初めてこの墓に訪れ、ヴァネッシアが好きだった花をささげた。


「ごめんなさい、ヴァネッシア。わたしは悪い姉でした。あなたのことを死なせたばかりか、その死からも目をそらしていました……」

「ヴァネッシアの死は事故だった。その死から目をそらしたのも妹君のことを愛していたからだ。君は何も悪くない」

「いいえ、私が悪いんです!」


 耐えきれないといったように、プリゼンシアは叫んだ。


「本当にあの子のことを愛していたのなら、わがまま放題にさせてはいけなかった! きちんと諫めて、我慢を覚えさせなければいけなかった! そうしていればあの子が死ぬことはなかった! わたしが至らない姉だったせいで、あの子は死ぬことに……」


 そこまで言おうとしたところでクレスディームはプリゼンシアの手を引くと、その胸に抱きしめ、言葉を続けさせなかった。

 

「ヴァネッシアの死を君一人で背負おうとするな! 君たち姉妹の関係を正さなかったご両親にも責任があるだろう。私にしても、もっと毅然とした態度で妹君に接し、余計な考えを起こす余地を与えなければよかった。ヴァネッシアの死は、決して君だけの責任じゃないんだ」

「どうして……どうしてそんなに優しくしてくださるんですか……?」

「君を愛しているからだ」


 クレスディームは迷いなく言い切った。

 プリゼンシアはそれ以上何も言えなくなった。ただ彼の胸に顔をうずめて、子供のように泣きじゃくった。




 クレスディームは彼女のことを深く愛していた。

 婚約者になった時から彼女には惹かれていた。だが本気で愛するようになったのは、彼女の決断を聞いたからだ。

 妹の望むことなら大抵のことに答えてきたプリゼンシア。そんな彼女が、婚約者を譲るよう求められた時だけははっきりと拒否した。そのことに彼は胸を打たれ、彼女と一生添い遂げようと心に決めた。

 

 しかしプリゼンシアは妹の死から目を背け、虚構の中に生きるようになってしまった。

 彼女を救いたいと思った。綿密な計画を立て、男爵家とも相談して今回のことを仕組んだ。

 危険な策だった。チョコレートに仕込んだ毒は、彼が魔法によって開発した独自のものだ。致死性のものではないが、それでも毒であることに変わりはない。過剰に接収すれば命に係わる。例えばプリゼンシアが、妹がチョコレートを全部食べてしまったことにするために一人で全て食べてしまえば、過剰摂取で命を落としてしまう可能性もあった。

 その危険性をわかっていながら実行した。偽物の毒ではプリゼンシアを騙せないという理由はあった。だがなにより、嫉妬の感情があったからだ。プリゼンシアが死んだ妹に囚われていることに我慢できなかったのだ。

 

 ヴァネッシアの死は自業自得だ。プリゼンシアのことをこんなに悲しませている。プリゼンシアの心を占めるヴァネッシアに対して嫉妬さえ抱いた。

 それでもクレスディームは、ヴァネッシアのことを憎いとは思わなかった。

 ヴァネッシアは姉にドレスやアクセサリを求めた。クレスディームは強硬策を取ってプリゼンシアの心を取り返した。どちらもプリゼンシアの愛を求めての『わがまま』だった。その一点において、自分はヴァネッシアと変わらない……そう思うと、憎むことなどできないのだった。



終わり

「実在しない妹を自慢する姉」というネタを思いつきました。

最初はコメディ風なお話になると思っていたのですが、設定を色々詰めていくうちに悲しい感じのお話になってしまいました。

お話を組み立てているうちに思いもよらないものになってしまうことがちょくちょくあります。

それはお話づくりの楽しいところで、だからなんとか書き続けることができているのかもしれません。(書き続けると言っても不定期投稿ですが……)


2025/1/2

 誤字指摘ありがとうございました! 読み返して気になった細かなところもあちこち修正しました。

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