第39話 ブラインドタッチ
サークル部屋にいるほぼ全員が動きを止める中、理巧に向けて目配せをしたのは百華だ。目をゆっくりと閉じながら首を軽く横に振る。「ファイを渡すな」ということだろう。もちろん理巧も相棒を渡すつもりなど微塵も無い。とはいえ、錫木を見殺しにもできない。
ファイの受け渡し拒否と錫木の救出。相対する2つの命題が導く矛盾。これを回避するなら目指すは仮定の否定、すなわち忍びの撃破だ。問題はその導出仮定だが、クナイと首の隙間はわずか、杖を取り出してから魔法が顕界に顕現する間に届く距離だ。
少し考えた末に、理巧は杖を床に置いて忍びの方に滑らすように蹴った。
「他の奴らも早くしろ」
低く太い忍びの声を受けて一拍、陽斗が渋々杖を足元に置く。その様子を見て、燐もそっと床に置いた。正義感の強い2人にとっては苦渋の決断だろう。
『まだだ』
那由多も色々と考えを巡らせていそうだったが、指示に従うことを決めたようだ。その思考の過程がどのようなものだったかは分からないが、様々なパターンを思案したに違いない。
百華はというと、ファイを渡すべきでないと示した割には全く臨戦体勢を崩そうとしない。しかし、魔術でも武術でもどうにもならないことは分かっていそうだ。戦闘経験の豊富さが、その結論を残酷に導く。
『まだだ』
さて、交換に指名された当の本人、ファイはというと、理巧のカバンを漁ってAQB――人工量子脳を取り出すと、その中へ吸い込まれるように消えていった。人工量子脳、その立方体の12の辺が赤色に3回点滅したのち消灯した。ファイが自ら潔くスリープに移行した証だ。
スリープは脳を休めるための睡眠とは違う。一度スリープの状態になればファイは自ら再始動することはできない。
『もう少し』
サークル部屋の床を照らしながら進む太陽の光が時間の経過を示している。これだけ経っても外部から援護の様子は無し。見張り役がいないとも限らないので迂闊に通報もできない。
「おいお前も杖を下ろせ」
百華に向けて忍びが命令するが、それでも降ろさない百華に忍びはしびれを切らして一言。
「殺さない程度にいたぶることもできんだぞ」
「――――」
忍びの脅しに百華はハッとした顔をして、苦い顔をしながらゆっくりと杖を床に置こうとしたとき、その時は来た。
窓から差し込む西日が床を這い、壁をよじ登り、ついに忍びの目元まで達する。
「っく」
『今だ』
忍びは西日の眩しさで気が付かない、足元に転がった杖の先端が微かに輝いたことに。
次の瞬間、溢れる水の奔流に忍びは足を掬われる。
人はバランスを崩したらまず、腕を広げるものだ。これは慣性モーメントを大きくして倒れるまでの時間稼ぎをしつつ、バランスの調整に必要なトルクを梃子の原理で簡単に得られるからだ。
何はともあれ、錫木を抑えていた忍びの腕が緩む。その瞬間を百華は逃さなかった。
「【念力】!!」
魔法によって引っ張り飛ばされた錫木は那由多に受け止められる。
「くっそ、お前どうやって魔術を」
「ブラインドタッチって知ってます? パソコンを使い始めたら最初に習得すべきことなんですけど」
理巧はそう言うとキーボードを見ずに、否、見る見ないの前に見えないキーボードを空中で素早く叩く。入力装置が無ければ出力用の画面も無い。だが、最後の入力は近くで見ていた百華にも分かった。右手の小指。Enterキーだ。
押された瞬間再び現れた水の流れが今度は忍びの全身を飲み込み、ドアから廊下へ、そのまま閉まった窓を押し割ってから校舎の外へ流し飛ばした。
理巧は「さてと」と、言いながら手でフレームを作るジェスチャをすると空中にディスプレイが表示される。投影装置を使う空中結像ディスプレイではなく、光属性魔法の【映面】だ。本来は他の魔法の出力やデバッグに用いるものだが、今はターミナル――コンピュータにコマンドで命令を与える画面が開かれている。
理巧は机に置かれた人工量子脳に手を伸ばし、その一面に指で触れると再び縁が光りだす。今度は赤、黄、白の順に縁が輝き、その後空中にポンっと現れたのはファイだ。
「思ってたより早くない?」
「手に渡る前に隙ができたからね。まぁ油断させるのには貢献したかな」
「じゃあ」と言いながら、窓ガラスが割れた廊下の方をファイが見る。
「後始末は手伝うとするかな。逃げてなさそうだし」
「聞きたいこともあるしね、おっと、【水泡】っ!」
再び淡く光った杖先に遅れて拳サイズの水塊が空中に練られて射出される。そして、数メートル先、ちょうど窓から入ろうとした忍びを撃ち落とした。
理巧は杖をスッと拾うと、【泡緩】を前面に展開しつつ窓に飛び込む。
慌てて後を追った百華は自分も飛び出そうな勢いで窓から身を出す。
「ここ3階なんだけど!?」
そう言いながら覗くと、理巧が10メートル弱先で泡使って衝撃を吸収させながら着地したのが見えた。
「器用! ああいう使い方もあるのかーって、杖持ってないのにどうなってるの!?」
「百華先輩は見るの初めてですよね」
「え? うん」
横から話す燐の質問に戸惑いながら答える。
「左右の手にそれぞれ1つずつ指輪してるじゃないっすか」
「あー、そういえば会計、右手かざして済ませてたような。スマートリングってやつ?」
陽斗の確認に百華は昨日のハンバーグ屋でのことを思い出す。
「それです。右手は会計用、左は健康用らしいんっすけど、機能はそれだけじゃなくって」
「指の動きを検知して、接続したコンピュターをジェスチャーで操作したり、キーボードで入力したりもできるんだとか」
理巧と高校からの付き合いがある2人が百華に説明を続ける。
「でもあのキーボード操作、物理的なフィードバッグが無いからあまり好きじゃないって言ってたんすけどね。こっちの方が強いのに」
「確かに前忍びと戦ったとき、物理キーボード使ってたや」
「今日はどうして使ったのでしょうね」
普段と様子の違う理巧に燐が疑問を感じると、サークル部屋のドアから声がかかる。
「おい、先生医務室連れてくから、お前らは次元を追え」
「はっ、先生の存在忘れてた!」
「ったく、まぁいい」
「まぁいい?」
「多分忍びは1人じゃないぞ」
那由多から告げられた言葉を受けて陽斗と燐は急いで階段へ向かい、百華は窓から飛び降りる。
「おい、ここ3階だぞ!」
慌てて窓を覗いた那由多の視線の先で、百華は【浮遊】を使って華麗に着地する。
「待って、ねぇ僕のこと忘れてたって冗談だよね? ね!?」




