ビー・マイ・ベイビー
「おい、ボン、今夜クラブ行くべ」
ギャンブル中毒が原因で彼女に振られ傷心中の月下馨、本名辰巳千太郎は自身の心の傷を癒すためにクラブに行って踊り狂う女性たちを眺めようと計画していた。だが、一人で行くのは心細い。そう思い、同居人の大雅純をクラブに誘う。
「クラブ?楽しそうらな。俺はできれば渋谷ポップについて語り合う音楽クラブみたいなのがいい」
純はクラブを同じ趣味を持つ人間の集まりである同好会と思い込んでいた。馨は彼が夜の世界とは無縁の人生を送ってきたからこのような返答をしてくるだろうと、ある程度予想はしていた。馨が彼のことを「ボン」と呼んでいるのは彼がボンボン育ちの坊ちゃんだからである。
「いいかボン、クラブは同好会のことじゃねぇンだよ。男と女がヨ、ビカビカ光る眩いライトと大音量の音楽に包まれ踊り狂う空間だ」
「あぁ、そっちか」
クラブがどういうところかは知っていたが、呼び方が同好会の方のクラブの同じであったため勘違いしていただけど知り、馨は声を出して笑う。純はなぜ笑うのか、と馨に少し怒りを交えながら問いかける。
「だって、お前なかなか面白い勘違いしてたからさ」
「だからって笑うこったねぇろ」
自分が馬鹿にされたことに不満を感じ頬を膨らます純。それを見てニヤリと口角を上げて笑う馨。
「じゃあ、夕飯食ったらクラブな」
時間は過ぎ、あっという間に時刻は午後七時。夕飯の時間である。いつものように純は食卓に向かい、料理を作る。少しは手伝え、と不満気に言う純を無視し、一人テレビを見ながら酒を嗜む馨。その姿はまるで結婚して数年経ち、お互いの不満をぶつけ合うようになった夫婦のよう。
卓に並べられた夕飯を見た馨は顔を輝かせ、純を褒め称える。それもそのはず、今日の夕飯は馨の好物カルボナーラだからだ。
「こりゃあ、酒が進むべ」
「ダンスフロアに行く前から飲む馬鹿がどこにいるんだい」
「何言ってんだボン。クラブの客は大体、その前にどっかで呑んできてるぜ」
そう言うと馨は酒をカーッと煽る。それを呆れた表情で見つめる純。テレビから聞こえる「アホか」の罵声がこの空間にマッチしている。
「ウォッカにカルボナーラは合うぜ」
カルボナーラにウォッカは合わないだろう、と純は矢をも凌駕する速さでツッコミを入れ、酒を嗜みながら食べる馨のペースに合わすことなく黙々とカルボナーラを食べる。そしてテレビからはまるで馨に言っているかのように、何度も「アホか」と罵声が飛んでくる。
「ごちそうさまでした」
純は食べ終えた皿を下げると、後から馨も空の皿を下げてきた。
「珍しい、アンタが自分でお皿下げるなんて」
馨は基本的に純の手伝いをしない。というかしたことがない。もし手伝いをしたのならば、翌日台風と大雨が同時に襲ってくるだろう、それくらい彼は純の手伝いをしない。そんな彼が純の手伝いをした。純は心底恐れていた。明日台風が来るのではないか、と。
「そんなに俺が手伝うのが珍しいかよ!」
「珍しいよ。五つ葉以上のクローバーを見つけるよりも」
不貞腐れた表情でため息をつく馨。子供のように頬を膨らませる馨を見て純は申し訳なさを感じていた。
「毎日だらけてばかりで手伝いもせず悪かったなと思って手伝ったのに」
「わ、悪かったって。ごめん、ごめん」
二人の間に少し気まずい空気が流れたが、それも束の間で終わった。二人が愛してやまないお笑い芸人がテレビに登場したからである。
「あ、ハンバーガーマンだ」
幼い頃に両親が離婚し、苦しい生活を強いられ育った馨と町工場の重役の父とファッションデザイナーの母の間に生まれ何不自由なく育った純。が、共通の趣味や好みがいくつもある。好きな音楽、好きな芸人、好きなテレビ番組……。育ってきた環境は違えど、心が通えば関係は成り立つのだ。
ハンバーガーマンの出番が終わると馨はハンガーにかけてあったジャケットを羽織り、出かける準備をし始める。
「もう行くんか」
当たり前だ、と馨が純に言う。急いでクローゼットから豹柄のジャケットを取り出し羽織る純。大勢の人がいるクラブだから不良みたいな豹柄のジャケットはやめておけ、と馨から忠告を受け、黒い無地のジャケットに替える。
「これでどう?」
「うん、ばっちりだね」
二人は玄関に向かい、ドアを開け、鍵を閉めた。時間も八時を過ぎていたということもあり、マンションから出るまで二人は一言も発することはなかった。
マンションから出た途端、馨は笑顔で純にこう言い放った。
「俺はクラブで新しい出会いを求めてる」
彼女に振られたばかりなのに笑顔で新しい出会いを求めてると言う馨に心底呆れる純。
「別れたばかりなのに?」
「俺はアメリカのヤングだ。運命を感じたらすぐさま、|ビーマイベイビー(俺の彼女になって)ってその子に言うね」
「きっと嫌われるよ」
「そうなったら一人寂しく、いとしのエリーでも聞いてるさ」
純は悟った。ならば自分はクラブにいる必要はないんじゃないかと。自分は一体何のために馨とクラブに行くのか、何故馨は自分を誘ったのか。純の脳内をぐるぐると疑問が飛び回る。
「というかさ、なんで俺を誘ったの。出会いを求めるなら一人で行けさ」
笑顔だった馨の表情が一瞬にして曇る。それを見た純はまずい質問でもしてしまったのかと不安になる。すると二人は一言も発さなくなってしまった。二人の間に沈黙が生まれ、普段そこまで気にしない遠くから聞こえる電車が走る音、車のクラクション、犬の鳴き声が随分と大きく聞こえた。小さな虫の鳴き声ですらはっきりと聞こえるくらい、二人はその場で立ち止まったまま、一言も発しなかった。その沈黙の空間を破ったのは馨であった。
「俺、寂しいんだよ」
いつもは強気な態度をとる馨が弱々しい声で言い放つ。余計に心配になった純の心は先程の発言を撤回したいという思いでいっぱいだった。
「ごめん、さっきは」
「いや、俺のほうこそごめんな、純。巻き込んじまって」
馨が純のことを名前で呼ぶのは真面目な場面の時と、本気で謝る時だけだ。普段、彼はおちゃらけているが、ちゃんと場をわきまえる真面目な部分がある。それを純は知っていた。知っていたからこそ余計に傷つけてしまったのだろうと心配になっている。
「発言には気をつけるよ千ちゃん、さっきの言葉、忘れてって言っても、忘れないよね」
心配そうな表情で馨を見つめる純。その目には涙が滲んでいた。
「いいや、忘れてやるよ。忘れてなくても、忘れたことにしてやるよ」
必死に忘れようと自分の頭を殴る馨を、純は慌てた表情で必死に止める。止めるな、と指示をされてもなお彼は必死に止める。これ以上馬鹿になっては困るからだ。
こうしている間に目的地であるクラブのあるビルに辿り着く。クラブがあるのは地下二階。ビルの入り口のドアを開けるとハッキリと聞こえてくるエイトビート。一階にいてもわかるくらいの大音量だ。エイトビートに合わせてステップを踏む馨。足元に気をつけて、と注意する純。まるで子供を注意する親のようである。
階段で地下二階まで降り、クラブの入り口の黒く重いドアーを開けると、そこには青と紫の空間が広がっていた。
金曜日の夜にもかかわらず、人が少なく、出会いを求めていた馨はがっかりしていた。後に店長に話を伺うと、ここ一、二年は訪れる人が減少傾向にあり、昔みたいに満員になることは少なくなったという。春の夜の夢の如し、良い状況は長くは続かない。月に叢雲花に風、この世は諸行無常だと店長は言う。それでもクラブを畳まずに続けるのは、常連客のためである。
「やっぱ世の中、常に同じってことはないんだな」
「そりゃそうだっけね。栄華も永くは続かないさ」
「まるで戦乱の世だ。築き上げた栄光も儚く、桜のように散っていく……」
「そうそう。世の中というのは、そんなもんよ」
しみじみと世の常を憂う彼らを包む大音量のハウスミュージック。そして彼らが眼中に入らないくらい無我夢中に踊る客たち。
「ビーマイベイビー(俺の彼女になって)、なんて言う隙もないな」
馨はクラブで新たな彼女を探すのを諦めた。無我夢中に一心不乱に踊り狂っている女性客たちを見ていると、話すタイミングや話す言葉も忘れてしまうからだ。
「たまにはこういうのもいいとおもうよ。ひたすら踊る女の子たちを見ているのも。まぁ品のない格好はしているけどね」
「夜に品を求めるな。夜は人間から品も理性も奪ってゆくのだから……」
「そうか。品を捨てて踊るのも、いいかもしれないな」
「あぁ。踊り狂おうぜ。夜が明けるまでヨ」
二人は夜が明けるまで、クラブで踊り狂った。
君がいてくれるだけで、僕は寂しくない。
君がいてくれるだけで、僕は楽しい。
君がいてくれるだけで、
僕は全てが満たされる。