赤いきのこの光
そのうち海はどんどん深く、どんどん赤く光っていった。
光っているのが分かるのに、何故だか薄暗く感じる。
暁の空にも夕暮れにも似ているようで、全く違うようなよく分からない赤い光だ。
もう、周りが赤くて暗い事以外、すっかり判らなくなった頃、カッと、更に赤い光に照らされて思いがけず目がくらむ。
反射で閉じた瞼をそうっと押し上げた時には、二面中に広がるたくさんの赤いきのこに囲まれていた。
百や二百じゃない。万や億といった単位の、数え切れない程の赤いきのこが目の前にある。
周囲はがやがやと騒がしかったが、ほんの数瞬で現れたきのこの群生にすっかり度肝を抜かれた私は声も発せず立ち尽くしていた。
「静かに!」
ひと際大きく偉そうなきのこが一喝すると、その場はしんと静まり返った。
そのきのこは続けて言った。
「其処の怪しげな者よ、此処は我らの国である。其処も我らの国である。勝手に侵入するとは言語道断。お前の命は死刑にするに値する」
どうやら此処は、赤いきのこの縄張りらしい。どこに境界線があったというのだろう?
私はさっぱり分からなかった。分からなかったが、このままでは多勢に無勢で死刑にされる。
もはや、きのこが口を利くか否かなどを考えている暇はない。
「ちょっと、待ってくださ……」
「黙れ、お前は死刑だ!」
弁解する余地もなく断言されてしまった。周囲はきのこでいっぱいで、逃げ場はまったく見当たらない。
「しかし、我々にも情がある。お前を許して逃がしてやろう」
あせって周りを見渡す私に、たった先ほど死刑宣告を下したばかりのひと際大きく偉そうなきのこがそう言った。
私は何がなんだかサッパリ解らなかった。
「我らはお前を許してやった。だから、お前は我らに恩がある。お前は我らに従わなければならない」
「ちょっと、待ってくださ……」
「黙れ、お前は我らに従わなければ生らんのだ。お前はきのこの種を何処か良い処に放らねば成らん。きのこの種を放ってやらねば成らんのだ。お前は為さねば成らん」
そう言って、一番偉そうで大きなきのこは、私に小さなものをそっと渡した。
それはたったひと粒の種だった。
「あの、此処に放っては駄目なのでしょうか?」
私は上手く隙をついて、質問を完成させる事に成功した。
きのこは若干不愉快そうにしながら尚も偉そうに言った。
「ならん。此処はきのこでいっぱいだ。此処に放っては成らん。きのこの種は青い海に放るのだ。聞けば青い海はまだ在るというではないか。ならん、ならん。世界中を赤いきのこでいっぱいの赤い海にするのだ。そうすれば、世界は平和で善良のものとなる。それに此処らはきのこでいっぱいだ。身動き出来ん程にいっぱいだ。だから種を放るのだ。国土が広がり平和になればこれ程良い事は無い。きのこの種を放ったならば、きのこは直ぐに其処ら一面中に、はえる事が出来るのだ。きのこの種を放れば直ぐに、きのこの赤い国は広まるのだ。世界はきのこと平和で満たされる!きのこと平和で満たされる!」
きのこ一つの演説は、いつの間にか、きのこ総ての大合唱となっていた。
赤いきのこは騒々しい程たくさん居る。
本当に、こんなにたくさんいるのだろうか?
周囲には限りない程のきのこでできた赤い壁が二つ。赤いきのこ達は頻りに何かを騒いでいるが、億にも兆にも思えるきのこが一斉に叫んでいるものだから、わんわんと言葉が反響して何を言っているか判らない。
暗い海で赤く光る二面中のきのこに挟まれて、私はカタカタと震えてしまった。
私が培ってきた常識も理屈も、赤いきのこたちには通じない。
この、恐ろしいほどの群勢に立ち向かうことの出来ない私は、彼らの言いなりになるしか道は無いのだ。
逃げる事も出来ずにただ震えて其処に居る私のことを、きのこ達は見てはいないようだった。
ひたすらに熱に浮かされて、何処だか知らない遠くの方を見ているようだ。
赤いきのこたちには、何が見えているのだろう?
世界中を赤いきのこばかりにして、いったい何が良いのだろう?
私はわんわんと響く耳鳴りと頭痛に苛まれながら、そんなことを思った。
そしていつしか幻のように、赤いきのこ達はすうっと見えなくなっていった。
まるで悪夢でも見ていた様に、ドクドクと心臓が脈打って体が芯から冷えている。
指先も足先も氷に浸かったみたいに、いたく冷たくなって動かない。
固まった私の手には、未だきのこの種が乗っていた。
私は唯、この種を放ればいいだけ。
命じられたのだから仕方ない。やらなければ、やらなければ。
恐い。
その思いが私を焦らせ駆り立てる。
しかし、種を放ったらどうなるだろう?
そこら中、赤いきのこに占領されて、あの自由な青い海は失われてしまう。
私はいったい、どうしたらいい?
焦げた心が胸中に黒く燻り、其処から湧き出した煙で頭が真っ白になったようだった。
もはや目の前のものにも焦点を結べず、視界はぐるぐると渦を巻く。
何に対しての恐れなのか、分からぬままに抱え込んで、渦のなかに呑まれていった。