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空の旅  作者: ごんたろう
3/7

月の涙




 やっぱり、海は良いもんだ。

 潜れば上下左右、何処に行くにも自由な上に、何処まで泳いでも視界いっぱいに広がるのは空色に染まる別世界。久々の解放感に大きく体を動かし、思う存分羽を伸ばす。

 最後に泳いだのはプールでの事で、ここ何年も海を見てはいなかった。

 私は海が好きだ。海沿いの故郷で育まれた私には馴染み深く心地良い。

 しかし、それでもやはり空にはかなわない。

 海より何より、私は空が一番好きなのだ。

 毎日眺めたあの空を、自由に飛ぶことが私の夢だった。

 なれるものなら大きな鳥に成りたいというのが私の願いであった。

 昔、頭のいい人間が飛行機というものを造った。

 それは空を飛ぶ鳥の形に似せてあって、本当に空を飛ぶものだ。

 私がどんなに鳥の格好をしても空は飛べないが、それは飛ぶのだ。

 どんなに羨ましいと思っただろう。

 あの大空を一度は飛んでみたいものだと、何度思ったことだろう。

 けれども、空を飛ぶなどそう簡単に出来る事ではない。

 海の中を泳ぐのは空を飛べない慰めだった。

 大きく羽ばたくように四肢を動かし、空の代わりに水を掻く。

 空より重い海の、ゆらりとした水の感触が纏わりつく。

 上方には水面が広がり、薄布のように光が揺蕩っていた。

 浮力に因って引き付けられ、下方に向かうは難しい。

 ここは空ではない。海なのだと。そんなことに一々と思い知らされるのに、地面に押さえつけられる事の無い別世界に、私は空を視るのだ。


 水面を視界に入れないように深く深く潜る。潜れば潜るほど海面は遠ざかり、青かった世界は次第に暗く夜の色へと変わっていった。

 夜の空に星が無ければ恐らくこんな感じだろう。視界が闇に近づいた頃、気まぐれに体を回転させて、一瞬、私は自分の目を疑った。

 そこには月があったのだ。

 十六夜ほどに欠けた月が、どこか頼りげなく佇んでいる。仄かな光は優しい乳白色で、暗く深い海の中で安らぎを与える存在だった。

「しかし何故、海の中に月がある?」

 疑問はそのまま声になり、月はいとも容易くそれに答えた。

「海の上には怪物が居て、海の中に逃げるほか無かったのです」

 月は言葉を話さないものだから、返事などを期待してはいなかった。思ったことがつい口から出ただけだというのに、月は素直に答え、そして此方に尋ねてくる。

「私は一体どうしたらいいの?」

 そんな事、尋ねられても分からない。

「以前はもっと高い所に浮かんでいたのに」

 私が答えずとも、月はぽつりぽつりと呟き続ける。私の答えなど最初から期待していないかの様に。

 海の上の怪物とは、あの大きな足のことだろうか。

 確かにあれに踏まれてはひとたまりも無く潰されてしまう。しかし、空の高いところに浮かんでいたならば、何故わざわざ海に降りて来たのか。高い処が良いのなら、より高い処に逃げればいい。

 月は最初に見たときよりも若干小さく見えた。

 以前居たという高い所が恋しいならば、怪物を追い払うなり避けるなりして昇ればいい。

 ただただ不安に揺れている月が、どうにも苛立たしかった。

 思ったままを言おうとしたが、今度は声が出なかった。

「大切なものが見つからないの。いつも傍にあったのに」

 月が零す涙が、あの雷雲の落とした氷の雨粒を思い起こさせる。

 何もかもがどうでもよく、ただ空を眺めていた自分は何だったのだろう。

 いつも眺めていた空の遠い向こうで、こんなにも悲しく、大切なモノを想って泣いているものがあったというのに。

 自分はそれさえどうでもいいと、ただ空を眺めるばかりだったのだ。

 私が戸惑っている間に、月は見る見る痩せ細っていく。

 我に返った私は、とりあえず尋ねてみる事にした。

「貴女はどうしたいのだ?」

 尋ねることは出来るのに、答えることは出来ない不思議。

「どうしたらいいのか、もう分からないの」

 月はそう言って、はらはらと唯泣き続けた。既に寝待月と見える程に、彼女は何かが欠けていた。   

 月には、私の言葉が届いているだろうか。私の思いは通じるだろうか。

 それは、ポタポタと滴り落ちる雨が地面に染みを作るように私の心を変えていった。

 よくよく考えてみれば、あの怪物は高い所の月にさえ簡単に手が届くのかもしれない。

 あの怪物をどうにかする事など私にはできない。

 きっと月にも出来ないのだ。何故簡単に答えられると思ったのか。

 鳩尾をギュッと掴まれた気がした時には、既に私も、どうしたらいいのか分からなくなっていた。

 自分にできることなど何もない事に気づいてしまった私は、また何処かへと泳ぐことにした。

 どっちが上だか、そっちが横だかも分からないのに、私はどんどん泳いで行った。

 泳げば家に帰れるような気がしたのだ。



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