雷雲の訪れ
――それは、今までに見たことも無い、とても奇妙な雲だった――
私は毎日、空を眺める。
青い空にぽつんと浮かぶ白い雲。
雲間から差す日の光。
茜の空が濃紺へと移り変わるグラデーション。
真っ黒に塗りつぶされた宵闇に、砂を撒いたように散る星の煌めき。
モクモクと湧く鉛色。
冴えては仄かに灯る月。
朝焼けと昇る太陽。
格子越しに見つめる空は常に自由だ。気ままに姿を変えてはころころと表情もよく動く。
何を思う事も無く、私は毎日、窓向こうの空の彩りを眺めていた。
灰色一色に塗りつぶされた狭いコンクリートの部屋の中で、私の楽しみといえばこれだけだったのだ。
格子の隙間からひゅうっと風が入り込む。
ここ数日は霞んだような薄青の寒空が続いていた。
以前なら寒さに鳥肌でも立てただろうが、身体が冷え切った今は、さらりとした風の感触しか感じない。
強くも無く弱くも無く、風は絶えず吹きつけた。
薄青に浮かんだ雲たちは踊らされるように形を変えては流れていく。
ひとつ見えなくなればふたつ現れ、みっつ見えなくなればまたひとつ現れるといった調子で、幾つもの雲が窓枠の中を過っていった。
幾つかの雲が重なっては厚くなりもし、風に削がれては薄く散っていく。似ているようで違う、違うようで同じなような、そんな緩やかな変わりようを、只々ぼうっと眺めているのだ。
私は今まで何万もの雲を見てきたことだろう。
ひとつとて全く同じものはない。
風向きによって形を変え、位置を変え、時には太陽に照り、空に染まる。
どれもが初めて見る雲であり、空模様は見る毎に違うものであった。
しかし、今この時、目に映るそれは、明らかに異様なものだった。こんなものはさっぱりと見た事が無い。
果たして、今までこのような雲を見た者はこの世にあっただろうか。
そんな思いが過ぎる程に、目の前にあるのはとても奇妙な雲だった。
それは、地平から昇って来たかと思えば、ぐんぐん此方に近づいて、地平と平行に伸びていった。
太陽は空高く輝いているというのにその雲の下方ばかりが急速に暗く陰り、獣が唸る様な音が響く。
子供の時分は落雷の前兆であるその音だけで泣き出したものだ。
今も遠雷が聞こえれば、何処か心細く不安な気持ちにさせられる。
私は、そわそわと落ち着かない心でそれを見上げた。
窓の向こうで空を上下に二分するように、平たく延びた黒い雲。
それは確かに真っ黒な雷雲のようだった。
しかし、まるで踊っているかの様に、ぐにゃんぐにゃんと曲がっている。
風に揉まれたようにも見えず、私は眉を顰め、目を見張るようにしてその黒いものを凝視した。
私がじぃっと見ていると、そいつはとうとう口まで利いた。
「何だ、おかしいか?」
ゴロゴロと唸る雷の音をそのまま声にした様な、何とも不機嫌な声音だった。
声に合わせて黒雲の中に光が走る。やはりあれは雷雲のようだ。
「おい、答えたらどうだ。」
私が黙っていたからか、雷雲はさらに低い音で脅すように言い募った。
今にも激しい稲光がして雷鳴が轟きそうである。
これ以上機嫌を損ねれば私は落雷で死ぬかもしれない。
私は死ぬことよりも落雷の方が恐ろしく、咄嗟に口を開いていた。
「いえいえ、只珍しかったものですから」
ぐにゃぐにゃ曲がる黒雲を変だとは思ったが、素直に言えば怒り出しかねない雰囲気を俄かに嗅ぎ取り、正直なところは言わずに誤魔化した。
私の返答を聞いた雷雲はまたもや曲がった。
「そうか、珍しかったか!どうだ?黒い虹なんて見たことも無かっただろう?」
頻りにゴロゴロ鳴った遠雷は私を益々縮こまらせたが、笑い声であったようだ。
どうやら命拾いをしたらしいが、あれが虹のつもりだったとは驚きである。
何度見てもそれは変に曲がった雷雲だったけれども、あまり嬉しそうに言うものだから私は調子を合わせることにした。
「はい、黒い虹なんて見たことも聞いたことも無かったものですから、初めて目にして驚きました。こんなに珍しいものを見るなんて、今日はなんだか良い事が起こるような気がします」
虹や流れ星なんかを見ると、不吉だとはよく聞いた。珍しいから不吉なのだと。
幼い私はあんなに綺麗なものなのに如何して不吉なのかと不思議に思ったものだったが、今、目の前にある黒い虹やら不気味に蠢く雷雲には不吉というのがしっくりくる。
それでも私はそんな風に言ったのだった。
珍しいものを吉兆と見ることも有るから変な物言いでは無い筈だ。
それを聞くと雷雲はますます嬉しそうにして、そうかそうかと大いに笑った。
ガラガラガシャーン、ゴォーンと雷鳴を盛大に轟かせ、光が断続的に忙しなく瞬く。
上機嫌な雷雲は、「これをやろう」と凍った雨粒をひとつカツンと檻の中へ降らすと、ゴウっと風に乗って何処かへ行ってしまった。
肝を潰して動く事も忘れた私に、気付く事もなく。