イラカの花
自信が無さそうに消えていく言葉尻だったが、反対にネリネの目は大きく開いていく。
――イラカの花は猛毒。だけど、私が産まれたところでは『賢者の花』とも呼ばれていてね、適切な扱いさえすれば薬になるんだよ。
夢の中では聞こえなかった声が火花のようにパッと蘇る。勢いよく立ち上がった彼女は、霞がかっていた頭脳に血がめぐり始めるのを感じた。
「お母さん……あの花の効能だけは教えてくれなかった……強すぎるし、この国じゃ必要ないだろうからって」
そうだ、例の『大地の変化によって臭気を振りまく花の話』は、その後にしてくれたのではなかっただろうか? そして、その性質によく似通っているソフィアリリーの花……。
「……人体に影響のない濃度まで薄めたイラカの成分を少量ずつ投与して……」
バッと立ち上がったネリネは、自室に駆け戻り一冊のノートを取ってくる。そこには、庭の薬草畑を作り始めた時から書き溜めていた野草の成分がまとめられていた。触ってはいけない物をまとめたページを探してパラパラとめくる。
「要注意、毒を含む野草:トリカブト、ベラドンナ……イラカの花! あった! あります! この近くにも生えてます!」
手がかりを掴んだ彼女の青緑の目は、爛々と輝き始めた。その熱気に若干気おされながらクラウスはおそるおそる尋ねる。
「ほ、本当に患者に毒を摂取させるつもりかい?」
「やってみる価値は、あります!」
ありとあらゆる手は尽くした後だ。このまま死にゆく彼らを黙って見過ごすくらいなら、この一手にかけてみるしかない。先ほどまでの眠気もどこへやら、ネリネは張り切って腕まくりを始めた。
「すぐにでも採取しに行きましょう!」
「ちょっ、少しぐらい休まないと……」
「そうですか! どうぞ休んで下さい! わたしは一人で集めてきますので!」
「こらこらこら」
歩くのもやっとな彼女を行かせるわけにもいかず、クラウスは机の上に転がっていたカモミールの束をネリネの鼻の下にサッと差し入れた。
甘い蜜リンゴのような香りがふわりと香り、気力だけが先走っていた思考がとろんと蕩けていく。急にまぶたが重くなり、抗えない睡魔の波が意識を浚った。
効果はてきめんだった。カクリと崩れ落ちるネリネを受け止めた神父は、苦笑しながらその軽い身体を抱え上げた。
「まったく、悪魔使いが荒いな君は……」
すぅすぅと、健やかな寝息をたてながら眠る彼女を自室まで運び寝床に優しく横たえる。しばらくその寝顔を愛おしそうに見つめていた悪魔は、かかとをくるっと返すとその場から瞬時に消えていた。
***
「ん……」
喉の渇きを覚えて目を覚ましたネリネは、一瞬自分がどこに居るか理解できなかった。だが意識を失う前後がつながると、ガバリと起き上がり窓代わりの木扉を勢いよく開ける。
「嘘……!」
とっぷりと暮れた夜半が視界に飛び込んできた瞬間、眠ってしまった自分に愕然とした。だがキュッと眉をつり上げた彼女は、カーディガンをひっつかむと肩に掛けながら足早に部屋を出た。
(こんなに暗くては黒い花を見分けるのも難しい……いや、そんなこと言ってる場合じゃない。這いつくばってでも探さなきゃ――!)
手提げランプに火を入れ、採取用カゴを持って勝手口に手を掛けようとする。その瞬間、扉が向こう側から開けられた。驚いて一歩ひくと、もうすっかりおなじみとなった神父がそこにいた。
「もう起きたのかい?」
ランプにぼやっと照らされた笑みに様々な言葉がこみ上げる。どうして眠らせたのかと不満が飛び出しかけたところで、彼が抱えていた物が目に入った。
「それ……」
クラウスのカゴに入っていたもの。それは今まさにネリネが探しに行こうとしたイラカの花の束だった。ツル性の植物で長い一本から枝分かれするように黒い花が四方に向けて咲いている。その中の一つを摘まんで悪魔は口を開いた。
「ちょっと自信はないけど多分あってると思う。間違ってたら言ってくれ。また探して来るよ」
渡されたカゴを照らして見分する。見た限り、必要としていた量は揃っているようだ。ネリネは震える声で問いかける。
「どうして……」
「私はこのぐらいしかできないからね」
ここで照れ隠しをするように頭を掻いた神父は、少しおどけた口調で続けた。
「まあ曲がりなりにもここの神父だし、それに点数稼ぎかと思われるかもしれないが、君と仲良くなるためにそういった下心がまったく無いといえば嘘に――ネリネ? どうした?」
カゴをぎゅっと抱きしめていたネリネは、何も言わず俯いてしまった。そうなるとクラウスからは彼女の頭しか見えない。艶のある灰色の髪が微かに震えている。
具合でも悪いのかと手を伸ばしかけた時、彼女は顔を上げた。にらみつけるような強いまなざしにぶつかり思わず怯む。
予想外の感情をぶつけられ、さすがの悪魔も驚いて彼女の次の言葉を待つ。静かな廊下では、わずかな衣擦れの音さえ立てるのがためらわれ、指先一つ動かせない。ジジッとランプの芯が燃える音だけが響いていた。
ネリネは泣いてはいなかった。だが今にも決壊してしまいそうに顔を歪ませ、やがて消え入りそうな声が震える唇から零れ落ちる。
「どうして、あなたは……っ」
「え……」
言ってしまってからシスターはハッとしたようだった。いつもの愛想のない仮面を瞬時にかぶりなおすと、踵を返して食堂へと向かう。
「すみません、何でもないです。これで次の段階に進めますね」
「ネリネ」
何かを言いたそうに手を伸ばすクラウスだったが、彼女はさっさと行ってしまう。だが、扉に手をかけたところで彼女は足を止めた。
「今からわたしがいう事は世間的に見れば間違ってるかもしれない。でも」
何を言われるのかと悪魔はギクリと身構えた。微妙な沈黙が駆け抜ける。口を開けては結ぶを何度か繰り返していたネリネは、背を向けたままやっとの事でその一言を発した。
「ありが……とう、たとえあなたが悪魔だろうと、わたしはあなたに感謝します」
あっけにとられて固まっていたクラウスだったが、扉の向こうに彼女が消えていった後でようやく言葉の意味を理解する。
ちょうど空にかかっていた雲が流れ、廊下に月明りが差し込む。その光から逃れるように悪魔は壁に背を預け、片手で顔を覆い隠した。
「礼を言うのは私の方なんだよ……ネリネ」
***
実験室、もとい台所に再び籠もったネリネは成分抽出の為に手袋をしてイラカの花を慎重に刻み始めた。だがその脳裏では先ほどのやりとりが幾度も再現されてしまう。
嬉しかった。ありがたかった。なのに、手放しで礼を言えない葛藤がネリネを苛ませていた。
どうしてクラウスは出会いがしらに自分が悪魔であることを明かしたのだろう。もし知らずに居たのなら、もしかしたら自分は彼を――
(ダメ、今はこっちに集中しなさい、コルネリア)
意識が逸れそうになる自分を叱責し、目の前の乳鉢に集中する。刻んだ花をすり潰しアルコールに浸ける、そして時間を置いたところで不純物を濾して煮詰めていく。
それを気の遠くなるほど繰り返し、やがて出来上がった透明な液体を目の前に持ち上げてランプの灯に透かす。ほんの一舐めだけでも死に至る猛毒を作り出してしまったことにゾクリとするが、気を引き締め直して次の手順に移る。出来上がった親液に蒸留水からなる希釈液を加え、倍々に薄めては計算式に書き込んでいく。
夜通しの作業は続いた。不思議なことに、時間が経過するにつれてネリネは妙な高揚感に包まれていた。次はどんな薬草が必要かと考えたかどうかのタイミングでひらめきが脳を駆け巡る。
(あぁそうか、これを足したら副作用が抑えられる……待って、だったらあっちも利用したらもっと効能の高いものが――)
それまでの経験が手をつなぎ、アイデアが次々と洪水のように溢れて来る。途中からはもう、苦しむ患者のことも、真意の読めない悪魔も、教会も聖女も全て忘れていた。ただ創作欲求を満たす為、ひたすら良い薬を開発することだけを追い求める。
途中で何度か誰かが入ってきて食料を置いてくれた気がしたが、そちらに目を向けることもなく無意識に口に押し込む。そして限界を感じたら自室に戻り仮眠をとる。
……そんなサイクルを何度繰り返しただろう。体感で言えばおそらく三日後。ハッと気付いた時、ネリネの手には一本の小瓶が握られていた。
「でき……た!」