追憶の彼方
ネリネの戦いは始まった。台所を占拠した彼女は自前の庭から摘んできた大量の薬草を持ち込み、調合を開始する。
(要は身体に残留してしまった毒素を排出すればいいのだから、体内環境を正常・活発化させれば……)
刻んでは乳鉢ですり潰し、アルコールに浸したチンキを作成する。その作業を繰り返し、いくつかのエキスを作ったネリネはあーでもないこーでもないと調合作業を繰り返す。
「できた!」
調合は夜通し続き、目測をつけていた試作品の第一号が完成した頃には外はすでに空が薄っすらと白み始めていた。できたての薬を握りしめたネリネは喜び勇んで台所を飛び出す。そして、こちらも一睡もできなかったらしい患者の元に膝を着くと、その薬を差し出した。
「飲んでみて下さい」
受け取った患者は感謝の言葉を口にして喜んだ。これで助かるのだと誰もが信じていた。
だが、どれだけ時間が経とうとも回復のきざしは見られず、患者たちは苦し気に呻き続けていた。焦ったネリネは手当たり次第に効きそうな薬草を調合したが、成果は出ない。
……。
三日経ち、苦しみ抜いた末に老人二人が死んでしまった時、教会内は絶望の底に突き落とされた。死因は飲み物さえ受け付けないことによる脱水症状だった。
「ダメ! どうして効かないの!?」
皆の前では気丈に振舞っていたネリネだったが、台所で一人になった瞬間に頭を抱えた。碌に休息を取っていないせいか、元から陶磁器のように白かった肌がいまや青ざめている。
(なんで、何がいけないの?)
焦りと不安が冷たい手となり、ひたひたとうなじの辺りをなでるようだ。悪魔に飽き足らず死神までやってきたというのだろうか。
そんなことを考えていると目の前がかすみ、視界が揺れる。ここまで一睡もせずにいたツケが回ってきたらしい。机に突っ伏したネリネはテーブルクロスをぼんやりと眺める。十分、いや五分だけ目を閉じよう。と、そんな事を考えるか考えないかのタイミングで意識が落ちていく……。
***
次に意識のピントが合ったとき、ネリネの目の前には暖かい森が広がっていた。
(ここは……)
直観的にここは夢の中だと悟る。なぜなら、視線の先には今は亡き母がこちらに背を向けしゃがみ込んでいたからだ。
『おかーさん危ないよ! それ、さわっちゃいけないおはなだよ!』
自分の口が勝手に動き、舌足らずな警告を発する。これは……子供の時の記憶だろうか?
母の手には、触ってはいけないと彼女自身から教えられた黒い花が握られていた。焦った自分は、両手を振り回してすぐさま捨てるよう母を急かす。
『 』
微笑んだ母は口を動かし何かを話すのだが、彼女の声を忘れてしまったネリネにその声は届かなかった。だが、遠いぼんやりとした記憶の中で、『正しい知識さえ持っていれば大丈夫』と安心させてくれた気がするのを思い出す。
しばらく不安そうにしていた自分だが、本当に何でもないことを確認すると納得したように笑った。
『そっかぁ、おかあさんはすごいんだね』
記憶の中の母は今の自分とよく似ていた。差し伸べられた手に飛びつくようにしがみつく。暖かな手のぬくもりが懐かしくてなんだか泣きそうだ。
家へとたどる森の小道を二人で並んで歩いていく。午後の陽射しが木洩れ日になり、悩みも苦しみもなかったあの頃の世界をキラキラと輝かせている。
たとえ怖いことがあったとしても、暖炉の傍で大好きな母親の膝にしがみついていれば安心できた。小さな自分の世界は絶対安全に守られていた。
見上げた先の母の笑顔は優しく、嬉しくて繋いだ手を大きく振る。
***
(お母さん……)
自分が眠ったという自覚さえなかった。だからこそ肩に何かが触れた時、弾かれたように彼女は跳び上がった。
「うわっ」
驚いた声が背後から上がり、おそるおそる振り返る。ブランケットをこちらに掛けようとしていた神父はそのままの体勢で固まっていた。肩の力を抜いた彼はこう続けた。
「ああ驚いた。こんなところで寝ると風邪を引くよ」
「……」
そうだ、ここはホーセン村の教会で、自分はこの荒れ放題の台所で新薬の実験をしていて――暖かい夢から急に冷たい現実に引き戻されたようで、ネリネは知らぬ間に滲んでいた涙をこっそりぬぐった。
もう一度、神父が毛布を掛けようとしてきたのでやんわりと拒否する。いつもの真顔を取り戻した彼女は頭を振って声を奮い立たせた。
「ありがとうございます。でも、寝てる場合じゃないんです、起きます」
言葉とは裏腹に足にまったく力が入らない。何とか気力をかき集めようとしていると、窘めるような声が返ってきた。
「根を詰めすぎだよ、村人を救う前に君が倒れてどうするんだい?」
「……」
「薬師が潰れてしまったら元も子もないじゃないか」
もっともな意見だったが、思考が短絡的になっているネリネにその言葉は届かなかった。頭を振りたくった彼女は独り言のように呻く。
「それでも、みんなが助けを求めてるんです。約束したんです。ここで逃げ出したら今度こそ――」
嫌われてしまうと言いかけて言葉を呑みこむ。結局は己のために頑張っているのだろうかと自分に対して少し嫌悪感が湧く。だが、慎重に言葉を選んだネリネは自分にも言い聞かせるよう低く呟いた。
「今回の毒は自然排出されないみたいです。わたしがここまで分かっている、もう少しで何かひらめきそうなんです……やらなきゃ、やらないと……」
グッと握り込んだ拳が震えている。頑固なシスターを眺めていた神父は、ふぅっと息をつくと彼女の隣の椅子をひいた。静かに腰掛けるといつもの深みのある声でゆったりと話しかけて来た。
「手がかりを掴むまでは意地でも寝なそうだね。一緒に考えてみようか」
「一緒に……?」
「私は地上の植物に関しては素人だけど、話している内に何か分かることもあるかもしれないだろう? たとえばこういう薬草はどういった目的で調合しているのかな」
問いかけにのろのろと視線を上げたネリネは、試してダメだったその草の効能を思い出す。
「それは……胃の洗浄です。入眠を促すハーブに、そっちは一時的に感覚を麻痺させて自然治癒での効果を期待した薬。ぜんぶ根本的な解決にはなりませんでした」
毒素がどこにとどまっているか分からなかったので、とりあえず経口摂取した場合のルートを洗ったものだ。と、なると毒花の胞子は別のところに入り込んで悪さをしているのだろうか? ネリネはクマのひどい目元をこすりながらブツブツと独り言を呟く。
「神経系? 吐き気や頭痛が引き起こされるのもそれなら説明がつく? でも、そんなものどうやって取り除いたら……」
寝不足ゆえか考えがまとまらない。だが、ネリネの独り言を聞き留めたクラウスは何やら考え込むような仕草でこう言った。
「神経に作用する? んー」
「何か?」
心当たりでもあるのかと藁にもすがる思いで問いかけると、神妙な声色が返ってきた。
「……見当違いだったらごめん。魔界だと二日酔いの時は強い酒をぶつけるんだ」
「酒」
いきなり何の話だと胡乱な目を向けると、魔界出身の悪魔は実に楽しそうに笑顔で人差し指を立てた。
「そうそう、魔界の酒は超強烈で、とくに特上品の辛口なんか飲むと神経がギチャギチャに焼き切れるようでね。中には痛みのあまり自然発火しだす悪魔とかも居たよ。その悶え苦しむ様を酒の席で見てみんなで笑うんだ」
「悪趣味な酒の肴ですね」
一言でバッサリ切り捨てる。精神的に参っている時に聞く話じゃないと終わらせようとすると、クラウスは慌てたように続けた。
「待った、ここからが本題なんだ。だからその、迎え酒じゃないけど、毒には毒をぶつけるとかできないかな?」
「毒には、毒?」
「それが人間に効くかどうかは分からないけど……」