悪魔が彼女を撫でる理由、あるいは猫型悪魔と猫系シスターと猫
軍手をはめた手で伸びている草をひとまとめにし、ブチブチと引き抜く。そんな作業をくりかえして30分は経っただろうか、教会の裏手に広がる敷地はだいぶ綺麗になってきた。額の汗をぬぐい、さぁもうひと踏ん張りと気合を入れようとしたネリネは、急に足首辺りにふわりとした物を感じた。
「えっ?」
驚いて視線を下ろすと、いつの間にか小さな茶トラ模様の猫が足元に来ていた。子猫から成猫に差し掛かる頃合いで、真ん丸の黄色い目でこちらを一心に見上げている。前足を揃えておすわりした猫は小さく「にゃん」と鳴いた。
「こんにちは、どこからきたの?」
その愛らしさに口元を綻ばせたネリネは、軍手を引き抜いて小さな眉間を親指の腹で撫でてやる。耳の後ろ、顎の下、腹回りと撫でる頃にはゴロゴロと喉を鳴らし、仕舞にはコロンと仰向けになってしまった。ずいぶんと人懐っこい子だ。
「ふふ、いい子だね。かわいいね」
単調な作業の合間になんという癒しだろう。何か食べる物でも取ってきてあげようと立ち上がりかけたネリネは、少し離れた茂みの影から覗いてくる視線とまともにかち合い中腰の姿勢で固まった。
「…………」
すさまじいジト目でこちらを凝視していた神父は、浮気現場でも見たかのように無言でひたすら見つめてくる。それまで平和に転がっていた子猫は、ピッと全身の毛を逆立てるとぴゃーっと裏手の森の方へ逃げてしまった。
「あっ」
名残惜しそうに手を伸ばすネリネだが、縞々のしっぽはすぐに消えてしまう。ハァっとため息をついた彼女は、呆れた様子で不審者に振り返った。
「何をやっているんですか」
「別に嫉妬シテナイ、私が行くと猫が逃げてシマウカラ、遠くから見守ってたダケダヨ」
なぜかカタコトで喋る彼はようやく茂みから出てくる。向こうの作業が終わって手伝いに来てくれたのか、無言でしゃがむと草をブチブチと引き抜き始めた。
「確かにサボっていたのは悪かったですけど、ちょっとした息抜きじゃないですか。そんなに怒らないで下さいよ」
いい年して頬を膨らませるなと、腰に手をあてて呆れていたネリネは、久しぶりに猫と戯れたことで昔の事を思い出した。黒くてふわふわ。思い出の森の中で、楽しそうに横を歩く毛玉の記憶がよみがえる。懐かしくなったネリネは、何気なく目の前の茶色の頭にそっと手を伸ばして髪を指に絡めてみた。予想だにしなかったのか、クラウスが驚いたような顔でこちらを見上げる。
「へ?」
「こうしてみても、やっぱりあの子猫があなただったとは思えないですね」
「……」
嫌がるかと思いきや、クラウスは目を閉じて触れられるのを堪能しているように背景にぽわぽわと花を飛ばした。指通りの良い髪質は元の姿と何となく似通っている気がしなくもなかった。
(撫でると目を細めるところは変わってないのね……って)
ここで、何をやっているのかとハッと我に返ったネリネは手を引っ込める。ところが、普段スキンシップを恥ずかしがる彼女から触れられたのがよっぽど嬉しかったのか、いきなり立ち上がったクラウスは有無を言わせず真正面から抱き着いて来た。
「あぁもう、かわいい! ほんと可愛いな君は!」
「ひゃっ!」
ぎゅぅっと抱きしめられ身動きが取れなくなる。力では到底かなわない事をしっているネリネは熱くなっていく顔を感じながら、間近で穏やかに響く彼の言葉を聞いていた。
「なぁ聞いてくれ、まだ小さい君に撫でられた時、こちらからも撫で返したいとずっと思っていたんだ」
大きな手が慈しむように何度も頭を撫でていき、幸福感が身を包んでいく。そんな風に考えていたとは意外だった。
「柔らかそうなこの灰色の髪に触れたら、どんなに心地いいだろうとずっと思っていた」
耳元で囁かれる低い声に、身体の内側から火をつけられたように全身が熱くなっていく。それをごまかしたくて少しだけ身をよじった。
「だ、誰かに見られたらどうするつもりですか」
「誰も見てないよ、愛しい人」
頭頂部近くに唇で軽く触れられる気配がする。ボフッと赤くなったネリネだったが、珍しく抵抗はせずに大人しく抱きしめられていた。
(通りからは死角になっているし大丈夫、別にこのまま居たいと言うわけじゃなくて、無理に離れてすねられても面倒だから。それだけだから。……だけどこうしてみると、私の体ってこの人にすっぽりと収まってしまうんだなぁ)
そうだ、この状況は逃れられないから仕方なく抱きしめられているだけなんだ。決して嬉しいとか心地いいとかじゃなくて……。
(あったかい、な。どうしてこんな可愛くないわたしに愛想を尽かさないで居てくれるんだろう。あなたが救われたという、子どもの時の純粋な『ネリネ』なんてもうどこにも居ないのに)
ぎゅっと彼の胸元を握りしめたネリネは、ふと普段の自分の振る舞いが怖くなった。自分はいつも素直になれずに突っぱねてばかりだ。こんな態度を続けていてはいつか愛想を尽かされてしまうかもしれない。ならば今からほんの少しだけでも、子どもの時の自分に成りきれたら……。
曲がりなりにも自分は彼の恋人なのだ。だから甘えることは恥ずかしいことじゃない、これから言おうとしている事は決して不自然なことじゃないんだと己を励ましながら、おずおずと顔を上げる。優しいブラウンの目を見つめながら小さく言った。
「あの……」
「ん? どうした?」
安心させるように柔らかく微笑まれ、穏やかな声はいつものようにこちらの呼吸が整うまできちんと待ってくれる。そのことに安堵しながら、ネリネは彼を見上げてそっと口を開いた。
「誰も見ていないですし、今ならいくら撫でても、いいです、よ」
「……」
大きく目を見開いた彼を見ていられなくて、恥ずかしくなり視線を逸らす。すがるように掴んだ彼の胸元をさらにギュッと握りしめた。
「あなたに触れられるのは、心地いい……です」
息を呑みこんだクラウスが、いきなり片手で自分の顔を覆う。どうしたのかと不安になりかけたその時、いきなり茂みのさらに奥の方へと押し込まれた。
「っふ……」
柔らかい葉に受け止められ声が漏れ出る。何事かと目を開くと、鼻が触れ合いそうなほど至近距離でクラウスがこちらを覗き込んでいた。
「キスしていいか?」
「えっ」
「今のはだめだ。不意打ちが過ぎる」
よく見れば穏やかだったブラウンの瞳は本来の燃え上がるような赤色に戻っていた。堪えるように切なげな顔のクラウスは、こちらの髪を一房するりと梳いて頬に手を添える。
「約束してくれ、今みたいな姿は絶対に俺以外には見せないと」
「え、今みたいな、って……?」
「あぁ、了承も許可も後で良い。――限界だ」
「ちょっと待……っ」
言いかけた言葉ごと呑み込まれる。あとはもう、不明瞭な声だけが教会の裏庭に響くだけだった。
***
ようやく解放され、耳まで真っ赤に染まったネリネはどう頑張ってもそちらを見ることが出来なかった。草むしりの後片付けを手早く済ませ教会へ戻ろうとする。そんな彼女とは裏腹に、終始ご機嫌な悪魔はスキップする勢いで付いてくる。
「しかしキスするの下手すぎて可愛いなぁ~~、鼻で息をするのが分からないなんて本当にうぶだ。まぁそんなところも愛しいけど」
「うるさいですこのエロ魔神。バカ悪魔。天の裁きで今すぐにでも黒焦げになればいい。骨は拾ってあげます」
「冗談だよ、やりすぎたごめん」
引きとめられて頬に軽くキスを落とされる。やられっぱなしの苛立ちと甘さが奇妙に入り混じる胸の内にネリネは翻弄されっぱなしだ。触れてもいいと許可を出したのは自分なので、今回の事は流す事にするが。
「戻りますよ、荷物もって」
「はいはい」
パッパと手を払い離れると、どことなくクラウスは大人しくついてくる。
なぜだかそれが愛おしい光景に思えて、ネリネはふっと笑った。それに気づいた彼も同じ表情を返し、歩調を速めて横まで追いついてきた。のんびりと昔を思い出す様に宙を仰ぐ。
「それにしても、あんなにも可愛がってくれたのに、再会した時に忘れられていたのはショックだったなぁ、昔の愛称を呼んだり結構ヒント出してただろう?」
「気づくわけないじゃないですか、こんなに小さな手のひらサイズだった可愛い子が、」
両手をお椀の形にしたネリネは架空の毛玉を持ち上げる仕草をする。そのまま横目でチラリと見上げ、どこか悲しそうな声色を出した。
「いつの間にこんな……ゴツくて大きな男性に……」
「あれー、なんでちょっと残念そうなんだ」
半目で微妙な薄笑いを浮かべる彼に、慌てて残念がる表情を引っ込める。
「とにかく気づけなんてムリですよ」
「えぇ、そんなことないさ。だって小さい頃に助けた動物が恩返しにやってくる物語なんて古今東西でよく聞くありふれた話じゃないか」
確かに、物語で言うならばありがちな展開だろう。だがそれが自分の身に起こるとは到底思わなかったのだから仕方ない。
「恩返しというには翻弄され過ぎましたけどね。そもそもあの子が人知を超えた存在だとは気づきませんでしたし、結び付けるのはちょっと……」
「酷い! あの時共に過ごした日々は君にとっても尊い思い出じゃなかったのか!? 魔界での過労死寸前の私が、あのキラキラとした思い出にどれだけ縋ったことか!! 温度差がエグい!」
何をムキになっているのか分からないが、難しい顔で首をひねったネリネはさらりと正直なところを打ち明ける。
「そうは言われましても、助けたのは何もあなただけじゃないですし」
「え」
「あなたの前にも、小鳥とかリスとか結構いろいろと拾ってきては治療して森に返していたんですよ」
慈悲の心を持ったネリネが森の中で助けた動物は、片手の指では足りない。それぞれに思い入れが深く、どの子も特別扱いすることはなく平等に記憶の箱に納めていたので、毛玉=クラウスをすぐには連想できなかったのだ。その事を淡々と説明する。
「でもいいじゃないですか、大事なのは出会いではなく、積み重ねてきた過程だと私は考え――」
そこまで言ったネリネははたと気づく。横を歩いていた神父がいつの間にか少し後ろに立ち止まっている気配がする。嫌な予感がしながらおそるおそる振り返ると、見た事がないほど嫉妬深い瞳とかち合った。ほんの十分前にも見た気がすると嫌なデジャヴが背筋を伝う。
「なに……きゃっ!」
思わず息を呑むこちらにはお構いなしに、ツカツカと歩いてきたクラウスはひょいとネリネを肩に抱え上げた。そのまま教会に向かって歩き出す。
「フン、そんな畜生共と悪魔は格が違うんだ。こうやって抱き上げられるのも、君の頭を撫で返せるのも私だけなんだからな」
「何と張り合ってるんですか、降ろして~~」
茂みの影からコッソリと戻ってきた茶トラの子猫は、騒ぎながら部屋に帰っていく二人組を不思議そうな目でいつまでも見つめていた。




