成りすましの代償②
「確かに私はクラウスという名前ではありますが……実を言うと、数年前の事故でそれより前の記憶を全て失っているのです」
「えっ……」
「ですから申し訳ありません……あなたの事も故郷も、何ひとつ覚えていないのです」
そう来たか。向かいの席で聞いていたネリネは顔をキュっと横に引き伸ばし微妙な心境を表に出さないように努めた。
息子が死んだことを悟らせないまま優しい嘘で演じ切る。嘘も方便とは言うが、果たしてこれが本当に正しい選択なのかどうか分からないまま、成り行きを見守る事にする。
「聞けば以前の私は詐欺を繰り返す常習犯だったとか。ですが今はこうして教会の末席に名を連ね、清く正しく生きているつもりです。犯した過ちは消せないかもしれませんが、これからも人々の為にこの身を粉にして尽くします。ですからどうか過去の事は胸に秘め、温かく見守っては頂けないでしょうか? エルマさん」
よくもまぁ、これだけ切々と訴えられるものである。神父よりよほど詐欺師か舞台俳優の方が向いているのではないだろうかとネリネは内心舌を巻く。それをよそに老婦人の手を優しく取った悪魔は沈痛な面持ちをしてみせた。
「私は今、新たな人生を歩み始めています。どうかご理解下さい……」
しばらくその顔を見つめていた老婦人は、少しだけ眉尻を下げて寂しそうに笑い返した。
「生きてさえ居てくれたらいいよぉ。元気でやっていることが分かったら、それでじゅーぶん」
それを聞いた瞬間、それまで完璧に取り繕っていたクラウスの表情が崩れた。少しだけ目を見開き戸惑ったように口をつぐんでしまう。おや、と意外な流れに驚くと、老婦人は目の前の聖職服をしわくちゃの手で優しく撫でた。
「こんな立派な仕事についてるんじゃ、帰ってきて貰う事は難しそうだねぇ……。いいんだよ、今の生活が気に入ってるんだろう?」
「それは……」
「忘れられても、お前の親なんだからそれぐらいわかるさ。生きてさえいてくれれば……うん。それが分かっただけで、もう悔いはないよ」
さて、そろそろ宿に行こうかねと、どっこらしょと立ち上がった老婦人は杖を頼りにヨタヨタと歩き出した。慌てて駆け寄ったネリネは申し出る。
「宜しければ泊まっていきませんか? 救護用のベッドですが空いていますし、簡単になら夕食の準備もできますよ」
「まぁありがとう。でももう宿代を払ってあるし、気持ちだけ受け取っておくわね」
「でしたらせめて送ります」
結局二人でエルマを宿まで送り届ける事になる。ランプが灯る宿屋の入り口で振り返った老婦人は微笑みながらこう言った。
「明日は夕方の乗り合い馬車で帰るから、午前中はお前の仕事ぶりを見させて貰おうかねぇ、それじゃあまた明日。おやすみ」
教会への帰路に着く頃には、辺りはもうすっかり日も暮れてオレンジ色の街灯がレンガ敷きの通りを照らしていた。隣を歩く神父の表情をチラリと窺ったネリネは後ろで手を組みながら尋ねてみる。
「複雑そうですね」
クラウスは浮かない顔つきでトボトボと歩いていた。眉間に皺を刻むと戸惑い声で答える。
「てっきり悲観して泣きつかれるかと思っていた。それを諭すための言葉も用意していたが……何なんだこの気持ちは……これが罪悪感というものか……」
その返しについふふっと笑ってしまう。ムッとした彼をなだめるように、ネリネは微笑んで見せた。
「ごめんなさい。ただ、悪魔にもちゃんと良心ってあるんだって思ったら嬉しくなって」
そう言うと、クラウスはすとんと腑に落ちたように胸の辺りを押さえた。
「良心? ……そうか、これが良心の呵責という感情か」
「ええ、あなたも人の心に近づいて、少しずつ学んでいるんだと思います」
そうして話している間に教会に帰ってきた。閉めていた正面玄関の鍵を開けながら、ネリネは首だけ振り返り優しく言った。
「今日、エルマさんに対して感じた心を大切にして下さい。わたしだけじゃなく、みんなに対して優しいあなたがわたしは好きですよ」
「……」
難しい顔で考え込んでいたクラウスは、後から続けて入ってくる。聖堂内に入ったところで急に後ろから伸びてきた腕に抱きすくめられた。小さく悲鳴を上げる間もなく、すねたような声が響く。
「言っている事は分かるし、できるだけその意思に沿おうとは思う。だけどこれだけは言っておく。他人に関心は持つけれど、それでも君は私にとっての特別だし、何よりも最優先なのは変わらないからな。自分の事はいいから、他の人を助けに行けとかは言わないでくれよ」
少しずつ触れ合う事にも慣れてきたと思ったのに、力強い後ろからの抱擁に鼓動が逸ってしまう。ぎゅっと抱きしめられ、低く真剣な声が耳に吹き込まれた。
「君はどうなんだ」
真っ赤になった顔を見られないよう背けながら、ネリネは自分を抱きしめる腕に手を掛ける。
「きょ、教会に属する者として、もちろんあなたにも博愛の精神を分け隔てなく――、」
「シスターコルネリアではなく、ネリネとしては?」
ふてくされたような声に思わず視線をやると、至近距離で赤く燃えるまなざしが真剣な眼差しでこちらを覗き込んでいた。グッと詰まったネリネは、諦めて心の内をさらした。
「……。わたしも、あなたが特別、です」
その答えに満足したのか、あでやかに微笑んだ悪魔はこちらの頭を撫で、愛おし気に唇をこめかみに寄せる。
「よく言えました」
「……」
こちらが彼に人の心を教えるのと同様に、自分も彼から何かを教え込まれているような気がしてならない。気づいた時には抜け出せなくなっているのでは……。そんな一抹の不安に駆られながらも、ネリネは悪魔の溺愛を自制心で何とかグググと押しとどめようとした。
「調子に、乗りすぎですっ」
「懐かない猫だ……」
***
翌日、朝早くやって来たエルマは昨日と同じ聖堂の最後列に座り、ネリネとクラウスの仕事ぶりをニコニコと見守っていた。とはいえ、日曜でもない教会の仕事といえば掃除や雑務ばかりで、早い段階で今日の予定は片付いてしまった。そんなわけで、今日はもう休みにしていいから村でも案内してこいとクラウスを送り出したのが2時間前。そろそろ昼の用意をしようかと思った頃、店売りのサンドを買って母と息子が帰ってきた。
「ただいま、お昼を買ってきたからみんなで食べよう」
「お留守番ありがとねぇ、ネリネちゃん。おかげでいっぱい話せたわ」
今日は天気もいいので庭で食べることにした。色とりどりの花の前に布を敷き、お茶や作り置きの総菜なども広げればちょっとしたピクニックのような光景に早変わりする。エルマが持ってきた自家製ピクルスは、とても美味しかった。
「神父、そちらのナプキンを取って頂けますか?」
「これかい?」
「ありがとうございます」
そんな何気ない二人のやり取りを見ていたエルマは、パンくずのついた手を払ってのんびりと問いかけた。
「勘違いだったらごめんなさいねぇ、二人はお付き合いしてるの?」
「っ!?」
「……へぇ」
予想外の問いかけにネリネは飛び上がり、クラウスはどこか感心したような声を漏らす。それが答えになっていたのか、エルマは心底嬉しそうにしわくちゃの顔を歪ませた。
「そうかいそうかい、嬉しいねぇ。こんなしっかりしたお嬢さんがお嫁に来てくれるなら、母さんも安心だよ。式には呼んで頂戴ねぇ」
「そんな……その……えっと」
真っ赤になって泡を食うネリネを、エルマどころかクラウスまで揃ってニコニコと見つめている。ついいつものように意地を張った言葉が出かけたが、エルマの手前グッと呑み込んだ。こうしてみると、確かに二人は笑い顔が似ている。
各サイトにてコミカライズの配信が本日よりスタートしました。
期間限定で無料で読めますので、活動日報にリンクを貼っておきます。
素敵なコミカライズにして頂きましたので、ぜひご覧ください!




