やわらかな抱擁
本性を現した悪魔は妖艶な微笑みを口の端に浮かべる。なぜ今まで気づかなかったのかと思うほどクラウスは恐ろしく整った顔立ちをしていた。魅入られて動けないシスターを、彼は文字通り悪魔の囁きで包み込む。
「お前が望むなら、あの宴会場を一瞬で消し炭にしてやろう」
自分の喉がゴクリと鳴ったのが分かった。やはりこれが、この男の目的だったのだ。弱っているところに付け込んで契約させる。絵に描いたような悪魔の常套手段ではないか。この手を取れば間違いなく破滅が待ち構えている。この村だけではない、ネリネ自身にもだ。
(あぁ、だけど……)
彼はネリネを幸せにするためやってきたと言った。ならばこの提案は、これ以上ないほど『幸せ』では無いだろうか。
あの聖女が苦しみながら焼け死ぬところを想像する。自分を切り捨てたジーク王子も、あっさりと手のひらを反した村人たちも、全部まとめて黒焦げになる様を。
自然と口の端が吊り上がり、嫌な喜びが胸を満たした。甘い甘い、喉が焼け落ちそうな誘惑がすぐそこで手を差し伸べている。震える手が持ち上がり、のろのろと動いていく。
「悪魔に魂を売り渡すのも悪くない……ですね」
「ああ、君が望むならいくらでもチカラを貸そう」
契約成立まであと数センチ。楽しそうなさざめき声が風に乗って遠く聞こえる。
「……」
手が止まった。怪訝そうに目をすがめた悪魔は目の前の女を見下ろす。
どちらも動かなかった。静かに降る赤い灰が二人を取り囲む。やがてゆっくりと顔を上げたシスターは悲痛な笑みを浮かべていた。
「結果的に村が助かったなら、それでいいじゃないですか」
ぎこちなく、顔が引き攣れそうな笑顔だった。背筋をシャンと伸ばした彼女は笑う寸前か泣き出す寸前のどちらともつかない声で続けた。
「状況を見て下さいよ。聖女様がやってきて、大勢の人を助けて下さった。これ以上のハッピーエンドがあります?」
「……」
笑顔につられることなく、クラウスはそれを黙って見下ろす。
凍えてしまいそうなほど冷たい目ではあったが、死すら厭わなくなったネリネは怯まなかった。彼女は敬虔な祈りの形に手を組み、目を閉ざす。
「あぁ、やっとわかりました。きっとわたしはヒナコさんの引き立て役となる使命を神様から与えられたのです。そうに違いありません。どうしてその運命に抗おうとしたのでしょう、こんな愚かなわたしでも神様は許して下さるでしょうか、ねぇ神父様」
不思議なことに、ネリネは荒れ狂うようだった自分の心がスッと凪いでいくのを感じた。今までの彼女からは信じられないほど饒舌に語り、まるで女神のように慈悲深い微笑みを浮かべる。
そう、彼女はようやく笑顔の『作り方』が分かったのだ。
それを見た悪魔はこの世で最も不快な物を見たように顔を歪める。それまで余裕を保っていたはずの声に初めて苛立ちが滲んだ。
「……そうやってまた、自分の心を犠牲にするつもりか」
「きっとこれが一番いい、みんな幸せになれるんです」
「ネリネ!」
声を荒げたクラウスは、彼女の襟元をグッと掴む。それでもネリネはしあわせの仮面をかぶり続けた。きょとんとした顔で何を怒っているのかと不思議そうに見上げる。
それを見た悪魔は哀しそうな顔で眉を寄せた。感情を無理やり押し込めたような声で静かに問う。
「その『みんな』の中に、君自身は含まれないのか?」
ぴくっと、ネリネの肩がわずかに跳ねた。答えはなく、クラウスを見つめるまなざしは不自然に明るくて遠い。
掴んでいた襟元から手を離したクラウスは、今度は両肩に手を置く。真剣な顔をして覗き込む彼は努めて冷静になろうとしているような声で言った。
「私は君を幸せにしたいんだ。君が壊れてしまっては私も幸せにはなれない。絶対に」
「それは、どういう……」
「自覚してくれ、君の心は壊れかけている。自分を殺さないでくれ、それこそ神への冒涜だ」
透き通るようだったネリネのコバルトグリーンの瞳に、少しだけ陰りが差す。クラウスはこの、おそらくは一度だけのチャンスを逃すまいと必死に呼びかけた。
「戻って来てくれ、君は誰かの引き立て役なんかじゃない」
「言っていることが……よく」
「それで君は満足なのか! 自ら悪役になると!」
「聖女が称賛を集めるように、憎悪を集める標的も必要なんですよ。たぶん」
平然という彼女に苛立ちが募った。どうにもならない強情さにクラウスは声を荒げる。
「私はそんな取り繕った言葉が聞きたいんじゃない、君の本音が知りたいんだ!」
もう聞きたくないとばかりに、ネリネはきつく目を閉じ耳を塞いだ。はぁっと息継ぎをしたクラウスは、それまでとは打って変わって静かに問いかける。
「もう一度だけ聞く。これが最後だ、二度は聞かない」
どんなに耳を塞いでも聞こえているはずだった。苦し気な表情が何よりの証拠だ。
静寂が降りる教会でクラウスは最後の賭けをする。これが届かなければ、もう、
「本当にこれでいいのか、ネリネ」
……どれだけの時間が過ぎたのだろう。うっすらと目を開いたネリネのまなざしから涙がひと筋こぼれ落ちた。すぅっと頬を伝った雫はポタリと彼女の襟元に落ちてにじんでいく。反対の目からも流れ落ちた瞬間、ようやく自分が泣いていることに気づいたのだろう。その表情が見る間に瓦解していく。
「……だって、そうとでも思わなければ」
顔を覆ったネリネは滂沱した。ようやく造り上げたはずのしあわせの仮面にピシリと亀裂が入る音を彼女は聞く。胸の内でぐちゃぐちゃになってしまった気持ちを、言葉の端々で何とか理解して貰おうと試みる。
「いつも、こうして来たんです。押し込めてしまえばくだらない感情なんか消えてなくなるから。いつだって上手くいったのに、どうして……」
堰を切った涙は止まらず、ネリネはひたすら拭い続けた。
「置かれた状況が憎い。だけど悪魔の手を取る事もできない」
「……」
「お願いします、もうこれ以上わたしの心をかき乱さないで下さい……」
言い切った言葉が、もうすっかり日の落ちた暗闇の向こうに消えていく。
もうここまで言ってしまえばさすがの悪魔も見放すだろう。契約の見込みがない人間をどうするのか、赤子の手をひねるより容易く殺されてしまうのではないだろうか。
ところがそんな彼女に与えられたのは、焼き殺す為の炎でも、ましてや死に至る一撃でもなく、まるで人間のように柔らかな抱擁だった。ふわっと頭を引き寄せられたネリネは、目の前の胸に額を突く。
「っ、」
「それで出した結論が自己犠牲なのは、感心しないな」
穏やかな声が間近で響き、少しだけ心が安らぐ。だがその事にハッとしたネリネは慌てて逃れようとした。
「は、離して! これ以上絆さないで。悪魔の誘惑になんて応じない。わたしは、わたしは……っ」
「そうじゃない。君の心が揺らがないのは先ほど確認したよ。今は悪魔としてではなく、ただ一人の神父として君の気持ちに寄り添いたい」
驚いて顔を上げると、クラウスは困ったように微笑みながらこちらを見降ろしていた。そっとこちらの頬に手を当てた神父は、涙の跡をぬぐいながら続ける。
「どうしてそんなに自己犠牲が過ぎるんだ。君だって幸せになっていいんだよ、嫌な物は嫌と声をあげていいんだ」
「だって、怒られる、わたしの意見なんて誰も……」
聞いてくれない。と、言いかけたネリネは、目の前の男に見つめられ声を失くした。
――大丈夫、真っ当に生きていればいつかちゃんと報われる。見る人はちゃんと見ているのだから
思えば、この悪魔が自分を疑ったことなど一度でもあっただろうか? 偏見も、先入観もない。出会った当初から色眼鏡を掛ける事なく、ただのネリネとして自分を見てくれた。他愛もないやりとりが、どれだけ自分の心を慰めてくれたか。氷のように冷たかった心はいつの間にか溶けかけていた。
「泣いていいんだ、ネリネ」
頭に乗せられた手が優しく動く。大きな手の感触は子供の頃、暖炉の側で母親に撫でられた感触とよく似ていた。不安も、哀しみも拭い去ってくれるような、そんな――。
ふいに頭の手が離れる。両手を広げたクラウスは、目元に皺を寄せるひどく優しい笑顔を浮かべた。
「おいで」
ぬくもりが欲しかった。ずっと誰かの手が恋しかった。
これも悪魔の戦略なのかもしれない。だけどもう、どうでもよかった。言葉にならない声が喉元を通過して奇妙な音を立てる。気づけば考える前にその胸の中に飛び込んでいた。
クラウスの胸元にしがみついたネリネは、大声をあげて泣いた。声の続く限り感情を吐露する。
「いっ、いつか報われるって、いつです、かぁっ!」
クラウスは口を挟まず、黙って頭を撫で続けてくれた。いままで溜め込んできた感情を全て吐き出すがごとく、ネリネは叫んだ。
「真っ当に生きてきたつもり、なのにっ、頑張ってる、のに、なんで、なんで!! うああぁあぁ!!」
後はもう不明瞭に泣き喚く。泣く。鳴く。ひたすらに声を張り上げ続けた。やがて肺の中の酸素を全て使い果たし、ひっくひっくとしゃくり上げる。
「誓おう。私は君の味方だよ」
しがみついた身体から響く声は低く落ち着いていて、心臓を震わせるようだった。
返事はしなかった。しない代わりに、背中に回した腕に少しだけ力を込めた。




