悪夢の再来
朝の光が射し込み、手のひらの中の希望をキラキラと輝かせている。例の毒花を保管したガラス管に飛びついたネリネは、そっとその蓋を持ち上げる。すぐさま刺すような激痛が頭を襲った。
「っ!」
すかさず調合したばかりの薬を、一瞬ためらったが覚悟を決めて一口煽る。倒れ込むように椅子の背にもたれかかり数分――顔を上げた彼女は瞳を輝かせていた。
「効果が、ある、成功したんだ……っ」
治験は成功した。震える手で釜から使用した分を補充したネリネは、実験場を飛び出す。小瓶を握りしめたその胸は、嬉しさではち切れんばかりに膨らんでいた。
(ああ、やっと、やっとこれで、わたしも認めて貰える、仲間に入れてくれる。この村に居てもいいんだって……!)
もうあの時のような思いはしない。あなたが居てくれて良かったと、きっと言って貰えるはずだ。
「皆さん! やりました! 薬が――」
ところが、祭壇脇の扉を勢いよく開け放ったネリネは、目の前に広がる予想外の光景に言葉を失った。
なぜなら、所狭しと床に転がされていたはずの患者たちが、みな最後の力を振り絞ってヨロヨロと出口向かって歩き始めている。耳を澄ますと外からは賑やかなざわめき声が聞こえてきた。
「ど、どうしたんですか、これはいったい……」
戸惑うネリネに、近くを通りかかった男性が足を止める。彼は明るい表情で、忘れかけていたその名を高らかに呼んだのである。
「聖女が……ヒナコ様がこの村を救いにやってきて下さったんだ!」
外に飛び出たネリネは異様な光景を目にした。村人たちが門の付近めがけて我先にと集結しているのだ。彼らは足元など見ていないのか、アプローチ脇に植えられていた花たちは無残にも踏みにじられていた。
その憐れな姿を悲しそうに見下ろしていたクラウスを見つけ、ネリネはそちらに駆けよる。
「いったい何事ですか?」
声をかけると、神父は困ったように眉根を寄せた。
「まさかこのタイミングで来るとはね……」
その瞬間、人だかりの中心から大声が上がった。人垣が揺れて騒ぎの原因が見えてくる。
「ええい、寄るな! この方をどなたと心得ているのだ!」
制服を着た護衛兵たちが村人を必死で遠ざけている。その向こうに見えたのは、白馬に乗ったジーク王子と聖女ヒナコだった。まるで美しい一枚の絵のように堂々とした佇まいで、周囲の様子を見回している。
「汚い手で触るな!」
「あっ!」
その時、前列に居た老人が護衛に突き飛ばされた。ざわっと民衆がどよめく中、ヒナコが高らかな声を上げた。
「乱暴は止めて下さい!」
タッと馬から降りた彼女はクリーム色を基調としたドレスを着ていた。だが、その美しい生地に汚れが付くのも構わず、突き飛ばされた老人の前に膝を着く。眉根を寄せた彼女は辛そうに老人に向かって話しかけた。
「遅くなってしまってごめんなさい。苦しい中、本当によく耐えて下さいました」
身分の高い聖女が下々の者に膝を着き、誠心誠意謝っている。その驚きの光景に村人たちはざわめいた。老人の頬に手を伸ばしたヒナコは瞳を潤ませる。
「まぁ、こんなに痩せ細って……でももう大丈夫ですよ、とびっきりのおくすりを持ってきましたからね」
すっくと立ちあがった彼女は、腰につけたポーチから丸いフラスコを取り出した。爽やかなライトグリーンの液体がちゃぷんと揺れる。
「私、自分に何ができるかずっとずっと考えてたんです。自分なんかに聖女なんて本当に務まるのかなって……でもここで諦めたらダメだ、頑張れば奇跡は必ず起こせるんだって、つらい時こそ笑顔でいなきゃって自分自身を励ましたんです!」
まるでお芝居のようなセリフ回しだったが、村人たちはすっかり彼女の虜になっていた。両手を顔の横でグッと握りしめたヒナコは、華やかに微笑む。
「そうしたら自然と勇気が湧いてきたんです。一生懸命神様に祈りを捧げたら、ほら!」
フラスコを目の前に差し出された老人は、震える手でそれを受け取った。コルク栓をキュポンッと開ける間、ヒナコは胸に手を当てて目を閉じる。
「一生懸命心を込めた聖水です。おくすりって治してあげたいって気持ちが一番の材料なんですよ?」
喉を鳴らすほどの勢いで聖水とやらを飲みほした老人は、しばらく立ち尽くしていた。誰もがその様子を見守る中、彼はブルブルと震え出す。
「すごい……すごいぞ! ダルさが消えていく、吐き気も、割れるように痛かった頭も、全部元通りだ!!」
年不相応に飛び跳ね始めた老人に、一拍置いて村人たちは大歓声を上げた。聖女がもたらした奇跡に、教会全体がビリビリと震え出す。
「聖女様! 聖女様!」
「奇跡だわ!」
「本物の聖女様だ!!」
「信じられない!」
後ろでぽつんと取り残されたネリネは立ち尽くすしかなかった。何も言えずその光景を見つめているとヒナコと目が合う。あ、と口を開いた彼女は嬉しそうにパタパタと駆けよってきた。
「コルネリアちゃん! こんなところに居たですねっ」
ひくっと顔が強ばるのを感じる。だが、まさか逃げ出すわけにもいかない。どうしようかと迷っていると、庇うように割り込む影があった。
「ようこそホーセン村へ、まさか聖女殿自らが来て下さるとは思いませんでしたよ」
ネリネを背中に回したクラウスは、表面上は穏やかに歓迎の意を見せる。するとヒナコは目の前で止まり、しばし考えるような仕草を見せた。
「んーっと? あっ、ここの神父様ですね。こんにちはです~」
「貴殿がクラウス神父だな? この状況でよくぞここまで耐えてくれた、大切な民の命を繋いでもらって礼を言うのはこちらの方だ」
ヒナコを追いかけてきたジーク王子の登場に、ネリネは縮みあがった。元婚約者はあの断罪の場で見せた苛烈さはどこへやら、穏やかにこちらを見て話しかける。
「やぁコルネリア。君もこちらで頑張っているようだね」
誰もが見惚れる笑みを浮かべた王子は、周囲の人たちに聞こえるよう、よく通る声でこう続けた。
「うわさで聞いてるよ、君も薬を調合しようとしていたらしいじゃないか。成果はあったのか?」
その言葉に、ネリネは持っていたガラス管を隠すように握りしめる。それを見た村人たちの間で微妙な空気が流れ始めた。
また効きもしない薬を……
特効薬を作ると言っておきながら……
結局は聖女様のおかげ……
とっくに諦めたのかと……
裏で引っ込んで何をしてたんだか……
あたしらが大変な思いをしてたっていうのに……
ヒソヒソと聞こえてくる言葉にカァァと頬が熱くなる。自分が村人たちから今どう見えているのかを意識した瞬間、突き刺さる視線がとてつもなく冷たいものに感じられた。
「こ、今度のは本当に効果があるんです、誰か――」
飲んでみて、と訴えようとしたその時、ヒナコが言葉をさえぎってはしゃいだ声を上げた。
「頑張って薬を作ろうとしたんだよね。すごいすごいっ、その意気ですよコルネリアちゃん!」
「えっ……」
「たとえ『失敗しても』頑張った事が大事なんです。努力していればきっと罪は償えるですよっ、神様は見てるですっ」
ウィンクをした聖女は、グッとガッツポーズをするおなじみの仕草を見せる。話を妙な方向に持って行かれるのを感じたネリネは慌てて口を挟もうとした。だが
「あぁ、なんてお優しいのだ!」
「あたしだったらあんな事、とてもじゃないけど言えないわ!」




