不確かな拘束と倒錯の月の下で
あなたの大きな背中を眺めた後に、あなたの隣に並ぶ事が私の唯一の幸福であり束の間の優越だった。
彼、真山龍彦との出逢いは会社である。大卒の新入社員。年齢が一つしか変わらないのに、真新しいスーツに目眩がした二十三歳春のことだ。
社会人二年目。末端の仕事量などたかが知れていると思い込んでいる上層部と、新人教育も仕事の一環だという至極真っ当な理由で彼の教育係に任命された。
新入社員といえどお客様からすれば会社の顔。仕事柄、年齢性別問わず人慣れしてはいるが、歳が近い異性の新人教育をするという高難易度な仕事に四苦八苦していたのが遠い昔のように感じる。
「もう二年も経つんですね。小向さんに扱かれた日々が懐かしい……」
同じ過去に想いを馳せていた偶然よりも、語尾の誤解に肩を落とした。
「言い方が悪い。指導することも仕事の一環です。あれから二年か。忙しくて四年くらい前に感じる」
「小向さん、二十五ですもんね」
「今、全世界の女性を敵に回したわね。生意気な後輩から解放されて仕事もプライベートもこれからなのよ」
「そんなこと言ってますけど、終業後の貴重なプライベートを、まさに今、その生意気な後輩と過ごしてますけど、いいんですか? あっ、生二つくださーい」
私が反論する前に話しを中断されてしまった。
「勝手に頼むな」
「ずっと水と枝豆でいくきですか? 食欲が落ちる季節だからって、きちんと食べないと女子力下がる一方ですよ、って痛い!」」
「ごめん、ごめん、蚊がね。蚊が真山の頬にキスしようとしてたからついね。それから、今でも生意気だと思ってるし、今日の飲み会は残業おつかれーってことで仕事の延長線上です」
「相変わらず手厳しい……」
落ち込むふりをしている真山を無視して、再び水を飲もうとコップを持ち上げた瞬間。
「生二つおまちー!」
「ありがとうございます!」
「ありがとうございます」
「それでは半年ぶりの飲み会にかんぱーい」
「かんぱーい」
真山の音頭に合わせるようにグラスを鳴らすと、一気にビールを流し込んだ。食欲はなくとも残業後の一杯は堪らない。
私がビールを飲んでいる間に、真山が次々とつまみを注文していく。
気を遣える彼に関心するとともに、成長してますます頼もしくなっていく姿を見ていると心がざわついた。
身長は私よりも十㎝程高かったが、着やせするタイプだったようで華奢に見えたこと、人懐こい笑顔も相俟って入社当時の彼は弟に近い存在だった。年齢が一つしか変らないことも影響していたと思う。
「どうしてこうなったんだろう……」
残り半分になったビールを無理矢理流し込むと、ダンッと勢いよくテーブルに置いた。
「すみませーん。生一つ追加で」
「あいよ!」
「一気に飲んで大丈夫なんですか?」
「たった今追加したくせに何言ってるんだか」
可愛げのない自分に辟易する。私の心情など知らぬ真山は運ばれてきた料理を眺めながらとても楽しそうである。
「実は小向さんも半年ぶりで楽しみにしてくれていたとか? それとも寂しかったとか。なんて……」
メデューサよろしく睨み付けてやると、無邪気な子どもは石化したように沈黙した。
「つべこべ言わず、飲む! 私の分まで食べる!」
「分かりましたよ。でも、小向さんも野菜くらいは食べてくださいね」
相槌を打ちながら取り皿を手にした彼の左手に釘付けになった。
合流したときからずっと気になっていたこと。触れるのが怖くて見て見ぬふりをした現実が目の前を通過した。
当の本人は私の視線を気にすることなくサラダを取り分けている。
「これくらいでいいですか?」
注視していたこと。動揺していることを気取られたくない私は、思わず「ありがとう!」と声を張り上げてしまった。
「声大きいですよ」
クスクスと笑う彼を心の中で一発叩いた。
気づいて貰えないということは、それはそれで寂しくて悲しいものなのだ。
「つい……サラダありがとう」
「はいよ! 生ひとつ!」
「ビールも来ましたよ」
追加のビールと彼が取り分けてくれた料理を食べながら、他愛もない会話を繰り広げた。
「俺、あの頃が懐かしいです。今はお互いに後輩や部下をもって、二人で飲みに行く機会も減りましたけど……」
真山は入社直後こそ礼儀正しく接してくれてはいたけれど、歓送迎会で同じ高校出身だということが判明して以来、二人のときだけは随分砕けた態度に早変わりしていた。
接点があったというだけですぐに打ち解けてしまう彼の変化の速さにも、いつしか彼に惹かれていた私の心の速度にも未だに置いついていない。
「二年とはいえ色んなことが変わりましたね」
俯いて、畳に投げ出している左手にでも触れているのだろうか。
決して知りたくないけれど知らなければならない〝机の下の秘密〟について、私も彼も一切口には出さない。久しぶりの憩いに弾んでいる反面、会社の出入口で合流した途端〝秘密〟に支配されてしまったのだ。
打ち砕かれるのならば告白前に。約束が反故されるのであれば人伝に。ジョッキを握る指に力が入る。唇はいらぬ言葉を吐かない為にガラスに口づけ状態。決して表に出すわけにはいかないのだ。
彼は私の気持ちを知らない。それが彼と私を結びつける唯一の方法なのだから仕方がない。
そうやって押し込めて、流し込んで、半年ぶりの酒を酌み交わす。
三杯目のグラスが空になった頃。再び現実が差し込んだ。
「すみません。ハイボール一つと……小向さんはどれにしますか?」
彼が店員を呼んだとき、左手の薬指が光った。
目映いまでの明りは人口の満月のようで、目にも心にも優しくはない。
「じ、じゃあ……これのロックで」
「そんな状態で大丈夫ですか?」
「大丈夫。これのロックでお願いします」
言葉に詰まってしまったが、真山にとっては酔いが回った故だと思ったのだろう。
現実を突き付けられた後の記憶は曖昧だ。運ばれてきた焼酎を飲みながら適当に相槌をうち、適当に笑う。恋人の有無も聞かれたような聞かれていないような。
最後の最後まで沈んだ気持ちが上昇することはなかったが、腕時計で時刻を確認した真山が「そろそろお開きにしましょうか」と言ったことだけは確かだ。
「ご馳走様でした」
声を合わせて行きつけの店を後にする。常ならば先を行く背中に追いついて並んで歩くのだが、今日からは当たり前になっていた習慣を変えざるを得なくなってしまった。
足取りが重い。遠ざかる彼がいつまで経っても追いつかない私に痺れを切らしたのだろうか。ゆっくりとこちらを振り返った。
「先輩? 駅こっちですよ? まさか本当に酔って歩けないとか?」
なんて事ないやり取りが〝ただの先輩〟だからと牽制されているようで悔しい。
「いつから?」
「えっ?」
「それ」
照明ではなく月明かりの下で眩く光る白銀を示した。
「あ、ああ……」
困った時に左手で後頭部を掻く癖は出逢った当初から変わらないのに、その手には幸福と愛の鎖が巻かれている。
「会社の子?」
俯き、後頭部をガシガシと鳴らす態度に察しがついた。
「そう……何となく分かる。あの子、ずっとあんたの背中追っかけてたもんね。それはもう懸命にさ。必死で、必死に……」
小柄で愛らしい後輩の姿を掻き消すように、後に続く言葉が零れ落ちる前に背を向けた。
「結婚とかするの?」
革靴の音で、彼との距離が縮まったことを知る。
半歩。彼から離れた。
「どうしてそんなこと聞くんですか?」
「どうしてって……男女二人だけで飲みに行くのが嫌な人もいるから気をつけようって言ったよね」
「そうですね……でも、小向さんだって実信田とご飯行ったんでしょう? あいつ言ってましたよ。お前達付き合ってないんだよなって。小向さん彼氏いるのかなって。訊かれたときの俺の気持ちなんて分からないでしょう」
また半歩。距離を取る私。
地面での攻防と気持ちの葛藤は続く。
「ただのランチでしょう? 告白された訳でもないし、事実、私と真山は恋人でも何でもない。ただの先輩と後輩なんだし。それよりも彼女が出来たなら教えなさいよ。彼女に申し訳ないでしょう……」
「……小向さん」
「――結果は違ったのかな」
「それ、どういう意味ですか?」
近くで聞こえた声に吃驚して声も出なかった。
左を向けば真山の顔。同じ高さで視線が合って思わず後退りした。
「さっきの言葉、どういう意味ですか?」
「何も言ってない! えっと、そう! 彼女とお幸せに! 今日はありがとう! それじゃあ!」
にじり寄る彼と現実から逃げ出した。
と、思ったときにはバランスを崩して視界が傾いた。
「あっぶないな、もう。怪我したらどうするんですか……気をつけてくださいよ……」
「へっ?」
視線の先には笑顔の彼がいて。腰から背中にかけてじわじわと他人の体温を感じ始めたところで状況を把握した。
「ご、ごめん!」
慌てて真山から離れる。消えた温度に体が震えた。
「足、痛みませんか?」
不審な態度を取ったにも関わらず気遣ってくれる彼。今は優しさが痛い。
「平気! ありがとう! それじゃ!」
再び逃亡を試みた。が、先手を打っていた彼に左腕を掴まれた。
「教えてくれませんか?」
「えっと……帰るから離して欲しいんだけど……」
「答えてくれるまで離しません」
「聞き間違い? 気のせいじゃない? 私何も言ってないし、空耳ってやつ。お酒入ってるから、さ」
「……はあ……分かりました」
溜め息交じりに拘束が緩んだ。
「じゃあ、かえ――」
「俺が悪かったです。確証がなくて怖くて、でも、今の関係が壊れるのも怖くて。そうやって甘え続けるしかないって諦めてたときに実信田の奴があんなこと言うから……焦ったというか……いや、何も言わなかった俺が全部悪い。そう。俺が悪い」
後頭部を掻きながら独白している彼と、月明かりに映えるシルバーの指輪が視界の端で明滅している奇怪な光景に、私の意識は惹き付けられていた。
「訊いてますか?」
いつの間にか拘束は解かれていたが、彼の掌が私の視界を行ったり来たりしていた。
「ご、ごめん……えっと……聞こえてなかったです……」
「いや、いいんですけどね。でも、今から言うことはちゃんと聞いて下さい」
「は、はい」
真剣な眼差しに背筋が伸びた。
「この指輪は俺の物です。当然、彼女もいません。でも、好きな人はいます。その人の気持ちを試したくて、確証が欲しくてこんな小細工をしました。本当にすみません」
「好きな人……」
「小向さん」
「はい」
「違う……違う。だから……俺の好きな人は小向美春さん、貴女です」
「ん?」
好きな人はコムカイミハルサン?
「ああ! もう! 鈍すぎるでしょ!」
ああでもない、こうでもないと一人劇場を始めそうな真山を見て冷静さを取り戻した私は、彼の言葉の意味を理解した。
「私も好きです」
「えっ?」
「えっ?」
告白に二人の声が重なる。
次は私の番だなと覚悟を決めた。
「私も真山が好き。でも、今の関係が居心地良くて……真山にとって私はたまに飲みに行く職場の先輩くらいの存在だろうって思ってたから必死に気持ちを隠してたのに、その指輪を見て混乱して。でも、告白する勇気もなくて……だから、その、あの……」
「良かった……じゃなくて、しょうもない嘘吐いてすみませんでした……」
脱力して膝に置かれた薬指が揺れた。
「それ、私物なんでしょう?」
「そうですよ。彼女がいるって知ったらどういう反応するんだろうって。もし焦っているようだったら脈有りかなって……」
顔を上げた彼が左手の薬指から指輪を外して手のひらに転がした。
「どうしてそんなことしたの?」
「えっ、だから……ああ……出勤前に財布探してたら見つけたんです。昔買ったこれが。一回嵌めてそれっきりで存在も忘れてたんですけどね。今日飲みに行く予定だったのと、あの約束が〝お前と私はこれから先もただの飲み仲間〟だって釘刺されたみたいだなと、こう、怒り? 悲しみ? って告白した後にこれはないでしょう?」
「こく、はく」
「そうですよ。小向さん、好きです。俺と付き合って下さい」
想い人に強い眼差しで見つめられて誰が拒否できようか。
はい。と答えて俯いた。
絶対に叶わない恋だと知っていたからと喜びに浸っていたのも束の間。
彼の子どもじみた行動のおかで、せっかくの飲み会が台無しになったのだ。
結果オーライとなったものの、怒りが沸々と込み上げてきた。
「真山。私、今日、めちゃくちゃ楽しみにしてたの。でも、合流直後に指輪を嵌めてることに気づいたときの私の気持ちわかる? 逃げの口実みたいな、ただの飲み仲間なんだからお互い恋人出来たら報告し合おう。それで、こういうのも考え直そう。とは言ったし、告白しなかった私も悪いけど、でも――」
続きの文句が彼によって遮られたと気づいたのは、耳元の切羽詰まった声と、全身に響く力強い腕の温もりだった。
「自分勝手でごめん。傷つけるなんて想像もしてなかった。嫌な思いをさせて本当にごめん」
彼には申し訳ないが、抱き締められているという現状の衝撃が強すぎて、謝罪の言葉が右から左へと抜けていく。行き場のない両手をどうしようなどと場違いなことまで考え始めた。
「小向さん……」
「はい」
彼の腕から解放されたかと思った矢先。真山の左手が頭、耳、頬と順番に下りてくる。静寂な空気に鼓動が鳴り響くのではないかと錯覚してしまうくらいに胸が痛い。
ゆっくりとした動作に動けなくなる。
鼻先が触れる。
彼が目を閉じ、私も目を閉じた。
「待って!」
甘いムードを壊したのは私だ。
「えっ?」
眼前で停止した真山から少し離れる。
「小向さん?」
「……私、指輪の件許してない」
立て続けの出来事に体と心がバラバラなのだ。年上だから。緊張していることを悟られたくない。渦巻く感情を隠す為の発言は彼以上に幼稚なものだった。
「それ、さ、ポケットにしまって欲しいか、な?」
駄目な大人の駆け引き道具よりも、駄目で幼い自分の言動に溜め息が出そうになる。頓珍漢な発言にも拘わらず、慌てて指輪をポケットに入れている真山も緊張しているのだろうか。同じだな、なんて暖かな気持ちになった。
「では、気を取り直して続きを……」
「……ぶち壊した私が言うのもおかしな話だけどさ……ムードってもの――」
時既に遅し。リップ音に気づいたときには奪われていた。
「先に壊したのは小向さんですよー」
イタズラが成功した子どものように笑う彼。
見慣れた笑顔に怒る気力さえも奪われた。
「もう一回してもいいですか?」
なんて子犬のような瞳で訴えてきても無駄であると背を向けた。
「男の前で簡単に隙を見せたら駄目ですよ。小向さんは気の置けない相手にはあまりに警戒心を持たないところが心配です」
「誰が抱き締めていいって言った?」
「俺がこうしたいからいいんです」
「今更なんだけど、人が通るかもしれないから離れてください」
「この時間のこの通りなら大丈夫です」
頑固で子どもっぽくて、年下で後輩の彼は、実はとてつもなく計算高い肉食獣なのかもしれないと、背中から伝わる熱に甘えながら人が来ないことを願い続けた。
〈了〉