夢か現か
御者は自分の雇い主がぐったりとした小汚い娘を抱いて馬車に戻って来たことに驚いた。
見れば本人の衣服も何やら乱れている。
「旦那…厄介ごとはごめんですぜ」と眉を潜めながら彼は馬車の扉を開けた。
そんな御者に対してルシファーは行先として昨晩泊まった宿名を告げただけだった。
ルシファーはヒースの農園に6人乗りの馬車で乗りつけた。
昨日宿泊した街にあった運輸会社には四人乗りや二人乗りの馬車もあったのだが、それらはひどく質素だったので、彼は多少内装がマシなこの6人乗りの馬車を御者込みで借り入れのだ。
三人が座れる座席にカリイナを寝かせながら、この馬車を選んだのは正解だったなと思う。
足を伸ばすほどのスペースはないが少し丸まったカリイナの体は横向きに座席に収まっている。
カリイナを寝かせた向いの座席の右側に座り、ルシファーは安堵の溜息を漏らす。
激しく泣いたせいか、少し頭の奥がズキズキする。
その痛む頭で彼は考えごとを始めた。
こうしてカリイナを連れてきてしまった以上、知らせの一族の自然消滅の道は選べない。
能動的に知らせの制度を終わらせなければ。
その方法として選べる道の一つは…
それは前近代的な風習が多く残るこの国の改革。
その改革の一環としてなら知らせの制度も終わらせることができるのではないだろうか?
この国の上層部にも密かに改革を望んでいる者がいるはずだ。
この一年知らせをしてきて何となくその家の格や経済状態、どの勢力に属しているかなどをうっすらと認識しはじめているルシファーは国を大きく変える実力のある人物を探し始める。
まず最初に頭に浮かんだのは王の次男のクアハ王子と北部と西部に広大な領地を持つウォーレン卿だった。
いや、だめだ。
あの二人には進歩的な考えと共に邪な野心もある。
下手にその気にさせればその野心に火をつける可能性がある。
他にいないか?平和裡に事を進められる人物が。
改革の指揮を執る能力のある人物が。
ルシファーは眉間のあたりを指で揉む。
…焦せっては、ダメだ。
自分はまだ子供で、貴族のものの考え方や力学も完全には理解していない。
先ずはこの国の問題点を洗い出し、丹念な人間観察をしたのちに仲間を作って慎重に動き出さなければ。
仲間?
仲間…か。
果たして知らせの一族の自分にそんなものが作れるのだろうか?
そこが一番の難関だ…
そんなことを考えているうちに頭の痛みは益々ひどくなり、それに耐えられなくなったルシファーは少し眠ることにした。
彼は細く長く息を吐いた後、右のこめかみを窓に当て、静かに目を閉じた。
ルシファーが真剣な顔をしている…
なにか考えごとをしている風だ。
ルシファーが眠る少し前、カリイナの意識は戻っていた。
けれどまだ朦朧として現状が把握できていない。
彼女はただ目の前の座席に座っているルシファーをぼうっと眺めていた。
いったいどういうことだろう。
私は桃園でルシファーに殴りかかって…
それからのことがわからない。
ここは…どこ?
なんだか揺れてる。
馬車に…乗ってる…?
ルシファーが窓にもたれかかったのを見た時、ああ、こんな光景を前にも見た気がする…そうか、私は今ルシファーと一緒に屋敷に行くために馬車に乗っていた時の夢を見ているんだとカリイナは思った。
眠っているルシファーの着衣がひどく乱れていることに気づいたカリイナはそれを直してあげたくなり、起き上がろうとする。
けれど腕に力が入らず起き上がることができない。
頭も重く、体全体の自由がきかない。
彼女はルシファーに殴りかかる時、あまりに全身に力を入れ過ぎたため、その反動で体中が脱力しきってしまっていた。
今自分の意思で動かせるのはまぶたと唇だけだった。
夢の中で体が動かない経験を何度もしてきた彼女はやはりこれは夢だと確信する。
しばらくするとガタンと一回大きく馬車が揺れた。
どうやら農道の大きめの石に車輪が乗り上げたらしい。
馬車は少しの間スピードを落としたが、その後は何事もなかったように走り続けた。
ルシファーはその時の振動で目が覚める。
そしてカリイナが目を開けこちらをじっと見ていることに気づく。
「…カリイナ」
呼び掛けたが彼女は何も言わない。
微動だにしない。
ただ静かに横たわり瞳だけをこちらに向けている。
ルシファーもカリイナを黙って見つめた。
お互い見つめ合った後、ルシファーは座席から少し腰を浮かし、向かいの席に横たわるカリイナの頬を両手で包んだ。
そして横を向いていた彼女の顔を少し上向きにして自分の顔を近づける。
そんなルシファーに対してカリイナは「だめよ」と言った。
ルシファーは少し顔をしかめ、カリイナの頬から手を外し再び座席に腰を下ろす。
「相変わらず男女の阿吽がわからないんだな、君は」と不満げに呟きながら。
カリイナは彼に対して座席に横たわったまま説教をし始めた。
「あなたは…いい人だけど、女の子に対しては誠のない人ね。
結婚を決めた相手がいるのに…
他の女の子にそんなことをしてはダメ。
少しは誠実な男の人におなりなさい」
それを聞き、ルシファーは少しだけ神妙な顔をした。
言ってやった!
ルシファーに。
ずっと言いたかったことを。
そしたらルシファーはリンカと結婚すると言ったのは僕に黙って屋敷を出た君に復讐するためについた嘘だと言い出した。
思わず吹き出してしまった。
夢というのは都合がいいなぁと思って。
言いたいことが言えて、そう言って欲しいなと思う言葉が聞ける…
「カリイナ、僕は君にした意地悪を心から詫びるよ。
勝手にこうして君を連れ帰ろうとしていることも。
君が殴りかかってきたら今度はおとなしく殴られる。
だから、僕を許してくれ。
そして気づけ。
知らせの一族という存在が僕と君の運命を固くむすびつけてしまったことに。
僕の手を取ったあの日から、君はすでに知らせの一族の一員なのだ。
もう後戻りはできない。
君に僕と共に生きていく意外の選択肢はないよ」
ルシファーはそう言って少し顎を引くと、挑むような視線を向けてきた。
何を威張っているの。
それが人に謝る態度なの?
うん。でも…夢は、いい。
自分のついた嘘を告白したらカリイナはいきなり笑い出した。
そして僕の詫びを聞いたあと、気分良さそうにを歌をうたい始めた。
なんなんだ?いったい。
…寝ぼけているのか?
ん、それにしても音痴だ。
なんの歌をうたってるんだ?
…
ああ、なんだ、国で一番有名な唱歌じゃないか。
音を外しすきだ。
ふふ、全く別の歌になっている。
カリイナ、君は時々すごく面白いな?
いつもこんな風にリラックスして自分に接してくれればいいのにと思いながら、ルシファーは機嫌良く唱歌を口づさむカリイナの顔を眺めていた。
歌声が小さくなってきた。
カリイナはまぶたが重くなり意識が遠のいていくのを感じている。
彼女は馬車に揺られているうちに眠くなったのだ。
けれどこの現実を夢だと思うカリイナは夢の世界から現実に戻る時が来たのだと思った。
ああ、いやだな。
目が覚めてしまう…
歌うのを止めまぶたを閉じ、うとうとしていたカリイナが再び目を開き自分を見つめている。
なんでそんな悲しげな顔で…
さっきまであんなに楽しそうだったのに。
「カリイナ、どうした?」
「ルシファ…あなたと一緒に屋敷に帰りたいけど…
私、もう行かなきゃ」
「行くって…どこに?」
ルシファーの問いかけにカリイナは答えなかった。
さよならと言ってカリイナが目を閉じた瞬間ルシファーは慌てて彼女の腕を掴み自分の許に引き寄せた。
本当にこの場からカリイナが消えてしまいそうな気がしたので。
再びの頭痛と激しい動悸に襲われているルシファーに強く抱かれてカリイナは目が覚める。
夢と現実を取り違えている彼女は、あ、嬉しい、もう少しこの夢を見ていられると思った。




