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ゆらゆらと

70ヘクタールほどの桃畑の中、木々の間を全速力でヒースを探して姐さんは走った。


「ヒースさーん!ヒースさーん!」と叫びながら走る姐さんに一人の女が声をかける。


「ヒースさんならうちらと一緒にじゃがいも食べていたけど、何を思ったのかいきなり家に帰るって言ってあっちに向かって歩いていったよ」


姐さんは教えてくれた女にお礼を言うことなく果樹園の出入り口に向かって再びドタドタと走り出す。

「なんだい、ありゃ?」とその場にいた女たちは首を傾げその後ろ姿を見送った。


とにかくカリイナの危機を救わなければと思い、姐さんは必死だった。

姐さんがヒースを捕まえたのはちょうど農園と農道の境。

後ろからヒースのサスペンダーを引っ張った後彼女はその場に倒れ込む。


「姐さん!どうした?!」


ヒースはびっくりしてひっくり返った彼女に尋ねる。


「…っ、カリイナ…男…」


荒い息の合間合間に発せられる言葉でヒースが聞き取れたのはそれだけだだったが、彼は一瞬で事態を理解した。


あの男!


実はヒースはルシファーを都からの偵察者だと思い果樹園を見て回ることを許したのだが、ふと一人で来ていることに違和感を感じ、父親に報告した方がよい事案だろうと思い家に戻ろうとしていたところだった。


「Dの…3…D…の…」


息も絶え絶えに姐さんが伝えたのはカリイナがいるブロック。


ヒースは倒れている姐さんをそのままにカリイナのいる場所に向かって走り出した。




「カリイナ…カリイナ」とルシファーは彼女の体を揺らしながら声をかけるがカリイナの意識は戻らない。


これからどうしたらいいんだ…


ルシファーは途方に暮れながら、上半身だけ横向きにさせたカリイナを眺めていた。


彼女の肌はひどく荒れていた。

夏なのに唇の皮も剥け頬にはいくつもの虫刺されの跡がある。

それに髪もべったりと地肌に張り付きすえた臭いを放っている。


これらのことは遠目ではわからなかった…

屋敷にいた頃の彼女はいつもバラの匂いがした。

女性の肌が荒れることを嫌った父が外国から最高級のバラの精製水を取り寄せ使わせていたから。


…あの頃のカリイナとはまるで別人だ。


カリイナの背中で泣いたルシファーが感じ取ったのは髪の臭いだけではなかった。

古くなった綿の放つ人の脂が酸化した独特の臭いに土の匂い、汗の臭い、それらが複雑に混じり合ったなんとも言えないニオイ。

それは屋敷を出てからカリイナが過ごした日々の履歴だとルシファーは思う。


「僕は…本当に単純だ。

君がなんの苦労もなく今の居場所を手に入れたと思ったりして。

カリイナ…

今やっと君のこの半年の苦労がわかった」


そう言ってルシファーはカリイナの髪を撫でた。

そしてさっきまで泣いていたとは思えないほど明るい声を出す。


「連れ帰る。

大丈夫だ、君は強いから僕一人くらい背負って生きていける」




ルシファーはぐったりしたままの彼女を抱き上げ、歩き出した。


その後をやきもきしながらクミとアシャがつかず離れず歩いていく。

ほんとは大声で怒鳴りたい。

カリイナを離しなっ!と。

けれどルシファーの身分の高さや覚悟を感じ取ってしまった二人は抗議ができない。


クミとアシャができることといえば姐さん、早くヒースさんを連れて来て!と祈りながら彼らの跡をつけることだけだった。




ヒースは少し前まで走っていたのだが、木々の間に女を抱いて歩く男の姿を見つけて、立ち止まった。

男の方もヒースに気づいたらしく歩みを止めた。


しばらくの間二人は黙ってその距離を保っていた。


最初に動いたのはヒースだった。

ゆっくりとカリイナを抱いたルシファーの方に歩み寄る。


先に声をかけたのはルシファー。


「君はここの経営者か?」


再び足を止め「…そうです」とヒースが答える。


「君と二人で話がしたい。

人払いを頼む」


そう言ってルシファーはチラリ後ろを見る。


そこにはジリジリとにじり寄ってきたクミとアシャがいた。


ヒースはうなずいてからクミとアシャに持ち場に戻るように命令した。


クミは不満だった。

カリイナが心配でたまらない彼女はヒースの命令への抗議の意味を込めてわざとノロノロと歩いた。

そして少し離れた場所で立ち止まりアシャと共にヒースがどんな対応をするかを見張っていた。


ルシファーは後ろを振り返りこの距離なら会話が聞かれることはないだろうと思い、ヒースに語りかける。


「何も言わずこのまま彼女を連れ帰らせてくれ。

私はカリイナと深い縁のある者だ」


これに対してヒースはきっぱりと言う。


「そういうわけにはいかない。

私は彼女の雇用主で、ここは私の農園だ。

ここで起きるとに対して全ての責任がある。

なぜ彼女は意識を失っている?

彼女に何をした?」


ヒースもこんな顔をするのかと思うほど、彼はルシファーに厳しい顔を見せた。


「彼女と私は…多分…喧嘩をした」


「殴ったのか!」


冷静に対応しようとしていたヒースが堪えきれず怒鳴った。


「殴った?…のかも…知れない…」


ルシファーがそう言うと、ヒースは一気にルシファーに詰め寄り抱いているカリイナ越しに彼の胸ぐらをつかんだ。

その拍子にルシファーは少し前につんのめり、カリイナを落としそうになる。


体格差がありすぎる。

力では負ける。

このままではカリイナを奪い取られてしまいそうだ。

そう思ったルシファーは務めて冷静に農園主に語りかけた。


「聞いてくれ。

私がカリイナを連れ帰るのは君のためでも、この農園のためでもあるんだ」


この言葉にルシファーのブラウスを引っ張っていたヒースの動きが止まる。


「…なぜ貴方がカリイナを連れ帰ることがこの農園のためになるんだ?」


腕に抱いているカリイナがひどく重く感じていたルシファーはとにかく早く馬車に彼女を運び込みたい一心で、正直に自分の素性を告げる。


「私は知らせの一族当主アドルファスの嫡子ルシファーで、カリイナはその婚約者だ」


「!!」


あまりにも意外なことを聞かされてヒースは言葉を失う。


カリイナが何か暗い過去を抱えている娘であることは察していたけれど、まさか知らせの一族に縁ある者だったとは!


「このまま私がカリイナを連れ帰ることを見逃してくれ…」


この懇願にヒースは困惑する。

ここで大騒ぎして、もし世間にこの農園の農婦に知らせの一族に関わりのある者が紛れ込んいたことが知られたら、ここの桃は売り物になら無くなってしまう。

そんなことになったら農園は破産する。


ヒースは迷いに迷った末にルシファーがカリイナを連れ帰ることを許した。




「ありがとう。

カリイナが世話になった。

彼女を心配してくれている友人たちには、都に住む身分の高い恋人がやっと親に結婚の承諾を得てカリイナを迎えに来たのだとでも言ってくれ」


ルシファーの言葉にヒースは力なく頷く。


ルシファーがその場から離れると、クミとアシャはヒースに駆け寄った。


「ヒースさん!

なんであの男からカリイナを取り返さなかったんですかっ!

あの男、絶対悪い男ですよ!」


「…そうかも、知れないな…

けれど、クミ、アシャ。

君たちもわかっているんだろ?

あの男を…カリイナがずっと想い続けていたことを」


そう静かに諭され、クミとアシャは黙った。

そして苦しげなヒース表情をを見て、この人はカリイナのことが好きだったのか…と今気づいた。




男に抱かれたカリイナがだらり右手を垂らしているのが男の背中越しに見える。


男が歩くたびにゆらゆらと揺れるその右手を、ヒースやクミ、アシャは何か祈るような気持ちで見送った。

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