メイド
以前、ルシファーの部屋で失礼な態度を取りカリイナを怒らせたメイドの名はリンカと言う。
元を正せば由緒ある家柄の出の両親を持つ彼女だが、父親が彼女が幼い頃商売を失敗をし、大きな負債を背負ってしまった為貧しい暮らしを強いられてきた。
その後父親は行方知れずになり、それからは母親と体の弱い弟と三人でさらにつましい暮らしをすることになる。
ある日、母親は行商中ひったくりに会い転倒した際、腰の骨を折ってそれ以降寝たきりの状態になってしまう。
賢いが身体の弱い弟と母を支え、リンカは知らせの一族の屋敷で働いていた。
幸せとは言えない生い立ちの18歳の娘、リンカ。
彼女は他の使用人と同じようにこの屋敷の当主を嫌っていた。
どんなに紳士的な態度を取っていても犯罪者の血を色濃く持つ男である。
いつその牙を剥いてくるかわからない。
リンカは犯罪者という括りで借金を返さず逃げた父も、母親に怪我を負わせたひったくりも、この屋敷の当主も同じように憎んでいた。
そしてこの屋敷の当主の細面の白い顔を縁取る黒髪や、女のように細く長い指も何か人に不幸を運ぶ禍々しいものの象徴のように感じていた。
いつも彼のベットをしつらえるとき、どうしてこの男がこんなに上等な絹のシーツや、最上級の羽根ぶとんで寝ることが許されるのだとリンカは腹立たしく感じていた。
だが、彼女はさらに腹立たしい存在に出会うことになる。
それは当主がある日突然連れてきたルシファーだ。
彼は陰のある当主とは正反対の健全な見た目をしていた。
焼けた肌、賢そうな瞳、すでに一人前の男を思わせる顎のライン。
美男ではないけれど誰もが好ましく思うであろう顔つき。
人々が知らせの一族と聞いて思い浮かべる容姿とはまるで逆な印象。
リンカにはそれがルシファーが何かひどいズルをしているように思えた。
騙されてはいけない。
善良そうな顔をしていても、この男は犯罪者の血を色濃くひく知らせの一族の嫡子なのだから。
そう思い、ルシファーの前ではさらに気を引き締めて業務にあたっていたリンカだった。
リンカはカリイナのことも心底嫌っていた。
突然孤児院からやってきてまだ一ヶ月しか経っていないのにこの大きな屋敷の女主人を気取るあの偉そうな態度。
ドレスに合わせる髪飾りを上手に選ぶセンスすらないくせに。
悔しい。
この屋敷の使用人を辞め、この一族から精神的にも肉体的にも開放されたい。
けれどそれは私を主とした家族を露頭に迷わせることになる。
惨めだけれど、再雇用を求めに行かなければならない。
忌まわしい、知らせの一族に。
リンカは屈辱を感じながらあの日当主の部屋に向かったのだった。
知らせの一族に仕える者の中には、一人だけこの屋敷に勤めることを良しとしていた者がいる。
それは、執事のビルド。
彼は人を差配することに喜びを感じるタイプの人間であった。
どんなに忌まわしい一族に仕えているとしても、自分の仕事にはやりがいを感じている。
そして三十人ほどの使用人のトップの地位に立っていることにも満足していた。
だからこの屋敷の使用人が減ることに彼は失望を覚えた。
大量解雇の引き金となったのはメイドのリンカの子息への失礼な態度だと言う噂がある。
リンカはビルドが近所の年寄りに頼まれ、この屋敷への就職を取り持ってやった娘だ。
メイドの数は充分すぎるほど足りていたが、自分に頭を下げてきたリンカの黒い髪に黒い瞳は、知らせの一族の屋敷に勤めるのが相応しいように思えたので、ビルドは当主にかけあい雇用を談判したのだった。
自分の支配下における人間は一人でも多いほうが良いとも思い。
今思えばあの時の判断は間違いだったなとビルドは思う。
だから、当主に再就職の希望者のリストを渡され、雇用するべき使用人の取捨選択を任されたとき、真っ先にリンカを不採用とした。
ビルドは他のメイドは全員残すことにした。
メイドとしては二名、後は雑務係として雇うように当主に談判した。
メイドは年齢にバラツキはあるが皆独身者である。
知らせの一族の屋敷に勤めていたのが知れたら結婚は難しい。
それを覚悟して、事情のある女たちが今までここに勤めていたのである。
そこらへんに対する温情は必要ではないかと提言した。
彼の主張は当主に受け入れられリンカ以外のメイドは皆屋敷に残ることになった。
当主は一人解雇されるリンカにも何かしらの温情は必要だろうと思い、都から離れて新しい人生を歩めるよう、多少の支度金を与えるようにとビルドに指示した。
仲間内で一人職を失うのは可哀想な気もするが、カリイナがひどく彼女を嫌っているのでこのまま屋敷に置くよう都合をつけてやるわけにはいかない。
カリイナが彼女を嫌うのはリンカがルシファーに対して失礼な態度をとったからだけではないだろうし…と、当主は思う。
リンカは愛想はないが、どこか色香を感じさせる美しい娘だった。