恋
両親に隣村の村会議員の娘とのお見合いを打診されたあと、なぜかヒースは3日続けてカリイナの夢を見た。
3日目、夢から覚めてやっとヒース気づく。
これは恋だと。
今まで彼女のことがやたら気にかかるのは、拾ってきた猫や傷ついたキジなどを保護し、再び野に放したその後を気にかけていたのと同じようなものだと思っていた。
けど違う。
助けた動物たちの夢をこんなに続けて見たことはない。
自分はほんの数時間一緒にいただけのあの日、あの娘のことが好きになっていたのかもしれない…
それに気づいたヒースの気持ちはひどく沈んでいった。
すでにお見合いの了承を両親に伝え、日程も決まっている。
彼は珍しくその日体調の不調を訴え、農作業を休んだ。
カリイナは農園で働く農婦たちの興味を引く存在だった。どことなく自分たちとは種類の違う人間だと皆感じていた。
いくら素性を尋ねても彼女は一切喋らない。
そうなると益々興味が湧く。
いつのまにかカリイナの過去の詮索は農婦たちの娯楽になっていた。
なかには聞くに耐えないようなひどい想像もあったが、お屋敷勤めをしていて、そこの坊ちゃんと恋仲になって、それを主人に知られ屋敷を追い出された子じゃないかという説が皆を納得させたた。
カリイナも特にそれを否定しなかったのでそれが本当のことのように思われていた。
ミコ婆さんの下宿小屋のベッドは春に出稼ぎのため近隣の村からやってきた女たちで全て埋まっていた。
カリイナには今三人の下宿仲間がいる。
その中の一人、空想好きな農家の若い嫁は特にカリイナの過去に興味津々で、彼女を主人公に脳内で物語を仕立てることを楽しみとしている。
今日も夕食時、カリイナにこんなことを言う。
「あんたはさぁ、勤めていた大きいお屋敷のおぼっちゃまと恋に落ちたんだけど、それが坊ちゃんの親にバレて屋敷を追い出されてしまったんだよねぇ…
いや、あんた自らが相手のことを思って身をひいたのかもね?遠慮がちな感じがするもの。
でも…いいよねぇ、べっぴんさんはロマンチックな恋ができて…」
それに対してカリイナは肯定も否定もしない。
「きっと、王子様みたいなその坊ちゃんはあんたのことが忘れられずにあんたを探してるよ」
これにはそんなことは絶対にないと言いたくなったが、カリイナはやはり黙っていた。
その場で一緒に夕飯を食べていた中年の農婦が若い嫁の空想を馬鹿にするように笑った。
四人部屋の住人の中で最年長だったので皆に姐さんと呼ばれている女が。
ここにはもうひとり三十前くらいの女がいるのだが、彼女はカリイナに負けず劣らず大人しく、影が薄い。
この下宿小屋のリーダー格の姐さんは若い頃不良をしていたことのある人生経験の豊富な女である。
若い女たちへの説教癖のある姐さんは若い農婦の空想に水を差すようなことを言う。
「人生の早いうちに激しい恋をしてしまうと人生を棒に振ってしまうことがあるからね。
その恋が全てだと思ってしまって。
女は一度道を踏み外してしまうとなかなかもとの道に戻れない。
カリイナはまだ分別がつかない子供のうちに自分を不幸にする男を好きになってしまったからこうして苦労しているのさ。
親にもらった器量を生かすことなく何かから逃げるようにこんな田舎で貧乏暮らし。
貧乏人に囲まれて。
カリイナが好きだった坊ちゃんは今頃違う娘を好きになって楽しくやってるよ。
女が夢見る誠実で優しい王子様みたいな男なんてこの世にいないってことに早く気づきな。そうじゃなきゃ益々不幸になる」
「やなこと言うわねぇ」と農家の若い嫁はカリイナに顔を寄せて言った。
それに対してカリイナは曖昧に微笑んだ。
けれど、姐さんの言う通りかもしれないと彼女は思う。
もしルシファーを好きにならなかったら、私はきっとN村を一歩も出ずあそこで生涯を過ごしたはずだ。
孤児院近くで仕事を見つけ、孤児院の卒院生たちや村の顔馴染みの人たちに混じって。
それは私に一番ふさわしい生き方だったような気がする…
カリイナはすいとんをすくう匙を持つ自分の手を何気なく見た。
この前毛虫に刺され手の甲から肘にまでかぶれが広がる腕と、どんなに洗っても爪の間に入った土が取れない指先を。
そしてそのあと匙を持っていない方の手でそっと髪に触れた。
洗える機会が少ないので、少し伸びてきた度に切っている短い髪に。
今さらながら、自分がどんな惨めな立場であるかをカリイナは認識する。
私がルシファーを好きになってしまったのは間違いだったのだろうか。
あの人と出会ってしまったのは私の不幸なのだろうか?
あの時、ルシファーの手をとってしまったがために私には一生背負わなければならない暗い過去ができた。
知らせの一族の嫡子の婚約者だったと言う。
そのことを隠してこれからの長い人生を歩んでいかなければならない。
それは私が想像しているよりずっと大変なことなのかもしれない…
段々萎れていくカリイナを見て若い農家の嫁は話題を変えた。
「ああ、そう言えばヒースさん、お見合いしたらしいね。
うちの村の議員さんの娘と」
え?ヒースがお見合い?
カリイナは少し驚いた。
「ここら辺の金持ちの婚礼は派手だからね。
もしヒースさんが結婚することになったらあたしらにも砂糖菓子の振る舞いがあるよ」
「砂糖菓子…」と呟いてカリイナはハッとする。
甘いものが食べられるなんて嬉しい、と思ってしまった自分に気づいて。
違う…
なんとなく私はヒースに好意を持ってるんじゃないかと思っていたけど違う!
そうだったら彼の縁談を聞いて婚礼に配られるお菓子を楽しみにするなんてことはありえない。
カリイナは気づいた。
ヒースを見かけるたびにどこか心が温まる気持ちがして、私はもしかしてこの人のことが好きなのかしら?と思っていたけれど、その好きは恋ではなかったと。




