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早朝

台所の壁のレンガに組み込まれたオーブンに炭火を入れ、それを奥に棒で押し込んでいる時、背後に人の気配がした。


振り向く前に「君に頼みたいことがあるんだ…」と声をかけられてシンシアは驚きヒイッと短い悲鳴を上げた。

そして体のバランスを失いドシリと尻餅をつく。


声をかけてきたのはルシファーだった。


「ぼ、ぼ、坊ちゃん、なんなんです、こんな朝早く」


まだ時間は6時前で、この日早番だったシンシアは朝のパンを焼くための準備をしているところだった。

もちろんランプは着けてあるもののあたりは薄暗い。


ルシファーは尻餅をついた彼女の腕を持ち助け立ち上がらせた。


「明後日、観劇に行くことになっているんだ。

ミセスグレイン指導の女性のエスコートの授業の一環で。

父が城の王妃様の侍女にパートナー役を頼んでくださっていたのだが、侍女は急に病気になり当分外出は無理らしい」


「ああ…」


シンシアは多分仮病だなと思って少し気の毒そうな顔をする。


「そこでだ。君に頼みたいんだ」


「はい?何をです?」


「私のパートナー役を」


ヒョエーーーと言うシンシアの悲鳴が調理場に響き渡る。


「頼むよ、シンシア」


「無理無理無理!無理です!」


激しく首を振る彼女に対してルシファーは不思議そうな顔をする。


「なぜ?」


「なぜ?っじゃありませんよっ!私は来年四十ですよ?おまけにこの体型だしっ、使用人だし、亭主いるしっ」


ひどくうろたえるシンシアを見てルシファーはふふっと笑った。


「何も彼女になってくれと頼んでるわけじゃないのだよ?」


そう言われシンシアは顔を真っ赤にする。


「そ、そりゃわかってますけど…

あっ!そうだ、そんなところに行くドレスも持ってないし」


「それは心配しなくて大丈夫だ。

城の仕立て職人を呼んである。

昼前に布を持ってくるから好きな布で好きなデザインを注文してくれ。

明後日に間に合うように1日で作らせる。

私はこれから出かけるが父上に立ち会って下さるよう頼んでおくから」


「いや、私じゃなくってもっと若い…

あっ、そうだ!リンカ!リンカがいるんだから彼女に頼みゃあいいじゃないですか」


「リンカはあの顔だ。

それに弟のことで、少々ノイローゼ気味だし。

それを別にしても彼女はいやだ」


ああ、そりゃそうだ…とシンシアはカリイナの顔を思い浮かべた。


「いやっ、だからといってなんで私なんですっ!」


ルシファーはこの言葉に、なんとなく、と答えた。

そして頼んだよと言って調理場を出ていった。


シンシアはしばらくその場で突っ立っていた。

ありゃあ、ずいぶんな人たらしだ…と去り際のルシファーの笑顔を思い出しながら。




9時頃、メイドがシンシアの許にやってきた。


「当主様がお呼びです。

談話室に行ってください、シンシアさん」


「え…」


シンシアは頭真っ白のまま談話室に向かう。

かつてルシファーがカリイナを引き込んで叱られた閉鎖された談話室ではなく、日常的に使っているもう一つの談話室に。


そこには当主と知らない男女がいた。


「シンシア、ルシファーのパートナー役を買って出てくれたらしいな」と当主に言われ、買って出てない!と叫びそうになる。


談話室に置いてあるビリヤード台の上には数種類の布が広げられている。

当主はそれらを指しシンシアに好みの布を選べと言った。


「い、いや、そんなことを言われましても…」


いったいなんの罰で私は今この場にいるのだとシンシアは泣き出したくなった。

すると驚いたことに当主自らシンシアの体に布を当て始めた。

緊張のシンシアは直立不動のままである。


全ての布を試した後、この臙脂のタフタはどうだろう、と当主は仕立て職人に意見を求める。

それに対して、よろしいかと思いますと職人は答えた。


シンシアは二十年近くこの屋敷に勤めているが、忌まわしい不吉な人と思って長い間当主を嫌ってきた。

それなのにこの方は私のドレスの布をこんなに真剣に選んで下さっている…と少々複雑な気持ちになった。


シンシアが女の職人にサイズを計られている間、当主と男の職人はデザインブックを見ながら何やら相談している。


「あらゆるサイズの中でウエストが一番太いです」と女の職人は報告する。


「それならばやはりエンパイア型のデザインがいいだろう。

後は君たちに任せる」と職人に言い残し当主は部屋を出て行った。


その後ろ姿を見送りシンシアは反省した。

焼き過ぎた肉をかつては彼に平気で供していたことを。

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