中庭にて
知らせの一族の屋敷のある都までは孤児院のある村から馬車で三日ほどかかった。
ルシファーが父に連れられて行った屋敷は王の住む宮殿からほど近い丘の上にあった。
それは古いが広く重厚な2階建ての建物だった。
完全な左右対称で中央にとてつもなく大きな扉がついている。
その扉を開けると広い玄関ホール、その正面奥には二階のまわり廊下につながる階段があった。
まるで舞踏会でも開けそうな玄関ホールである。
が、この屋敷で舞踏会が開かれることはない。
この屋敷を私用で訪ねてくるものは皆無なのだから。
ルシファーは父の後をついて屋敷に入ったとき背筋が凍りつくような感覚を覚えた。
夏なのにこの屋敷の中はひどく寒い。
父はこの広い屋敷に一人で住んでいたのか…
そしてこれからは自分もここで暮らすのか…
知らせの一族の屋敷で暮らし始めて一ヶ月も経つとルシファーにもわかってきた。
知らせの一族の立場や父が自分を孤児院に入れた理由が。
最初は使用人の態度からだった。
この屋敷の使用人たちはそれは嫌そうに主に接する。
料理人も給仕の者も清掃係も。
ひどく事務的ではあるが礼儀正しいのは執事だけだった。
ルシファーは自分のベッドのシーツを変えにくるメイドが、自分と同じ部屋に入ってくるとき息を止めているのに気づいた。
ルシファーには家庭教師がついたが、その家庭教師も一切私語はなくただ淡々と勉強を教え、それが終わると逃げるように帰ってゆく。
皆、まるで汚物に接するように自分に接している…
ルシファーは辛いと思っていた孤児院での暮らしを思い出す。
生活指導のシスターに尻をたたかれながらも掃除を仕込まれたこと。
宿題を忘れようものなら鞭で手の甲を遠慮なく打った教師。
パンと野菜のクズが入ったスープだけの質素の食事。
いやだいやだと思っていたあの暮らしが懐かしくすら感じる。
シスターは機嫌のいい時は頭を撫でてくれたし、教師は授業内容を脱線して若い頃の旅の話を面白おかしくしてくれた。
そしてたまたにスープに肉が入っていたときのうれしさ。
何よりあそこには仲間がいた。
親のいない寂しさを共に乗り越えようとする仲間が。
この屋敷に来てから、自分が何者であるかがわかってから、父の言っていた言葉は正しかったかもしれないとルシファーは思い始めていた。
「君を孤児院に預けた私に感謝するだろう」と言った父の言葉が。
それをさらに痛感することになるのは知らせの一族の跡継ぎとして城で紹介されてからだった。
「私の息子のルシファーです。
これからは彼も私と共に知らせを行うことになります」と紹介されたときの美しく着飾った人々のあの忌々しそうに自分を見る目。
その後何回か城の集まりに参加したが誰とも話をすることなく帰ってきた。
とうり一辺の挨拶はされるが、その後はまるでいないように扱われる。
常に人の輪の中心にいて人気者だった彼にとってはそれはひどく戸惑う状況だった。
ルシファーに始めて与えられた知らせの仕事は伯爵家の子息の留学先での落馬による死亡の報告だった。
その知らせを告げたときよりも、顔を合わせ知らせの一族の嫡子だと自己紹介をした時の母親の凍りつくような目が忘れられない。
何回か知らせを行ううちにルシファーは自分の心の深部がどんどん冷えて行くような気がした。
ただの孤児だった頃の自分に戻りたい…
それが無理ならセシルに会いたい…
そうだ、自分にはセシルがいるではないか!
明るく美しいセシルを迎え入れればこの屋敷の温度も少しは上がるのではないだろうか?
もう我慢できない。
セシルの誕生日も近い。
誕生日が来ればセシルも孤児院を出てしまう。
その前に迎えに行こう!
ある朝ルシファーは父親に告げた。
「父上、私には結婚を約束した娘がおります。
父上のお許しがあれば彼女を孤児院に迎えに行きたいのですが」
ルシファーのこの言葉を聞いて、父親の目が少し曇る。
彼の広い書斎には夥しい数の本が蔵書されていた。
長年人に忌み嫌われて人との交流のないこの一族にとっては本だけが友なのだ。
その書斎の重厚な机に肘をつき父親は少し考え込んだが、結果的にはルシファーの申し出に許可を与えた。
彼が傷つくことにならなければいいが、と思いながら。
ルシファーは父親が自分の申し出にひどく考え込んだことを気にしたが、それは多分貴族階級の知らせの一族の嫁にに孤児を迎え入れることに対して抵抗があるのだろうと理解した。
それでも父はセシルを連れてくることを許可してくれた…
ルシファーの心は久々に弾んでいた。
孤児院に向かう馬車の中で。
早く、早くセシルに会いたい!
立派な馬車に乗り仕立ての良い服を着たルシファーは片田舎の孤児院に着いた途端走り出した。
この時間、セシルがどこにいるかわかっている。
小さい子供たちを遊ばせるために4つの建物に囲われた中庭にいるはずだ。
案の定、セシルは中庭で大きな縄を回していた。
子どもたちに縄跳びをさせるために。
「セシル!」
と中庭に入りルシファーは叫ぶ。
思わず縄を回すセシルの手が止まる。
次の瞬間、彼女は自分の胸に飛び込んで来てくれるとルシファーは思った。
だがセシルは動かなかった。
ルシファーはゆっくりセシルに歩み寄る。
そして何かすがるような気持ちでセシルに手を差し出した。
セシルはその手をとらなかった。
少し困ったような顔でその手を見ているだけだった。
ルシファーは全てを察した。
セシルは、知らせの一族のルシファーと結婚の約束をしたわけではないのだ。
彼女はどこの誰の子ともわからない孤児のルシファーと結婚の約束をしたのだと。
ふと周りを見渡すと、かつての仲間が今までとは全く違う目で自分を見ている。
ここにいた頃はしつこいくらいに自分にまとわりついてきていた子供たちも遠巻きに自分を眺めているだけだ。
ルシファーは現実を知った。
セシルに差し出した手を引っ込めこの場を去るために歩き出したその時、視界の端にカリイナの姿が映った。
カリイナはセシルと一緒に大きな縄を回していた。
そこにいきなりルシファーがセシルの名を呼びながら飛び込んできた。
ああ!ここを送り出してから会いたい会いたいと思い続けてきたルシファー!
彼の姿を見て喜ぶ暇がカリイには無かった。
ルシファーがセシルに駆け寄り差し出した手を見て感じた胸の痛みの方が大きかったので。
けれど今この中庭を去って行こうとするルシファーの姿にはもっともっと心が痛む。
今ルシファーが感じている落胆にカリイナは同情する。
けれど私には何もしてあげられない…
カリイナはもう二度とルシファーには会えないかもしれないと思いながら彼の後姿を見ていた。
すると急にルシファーが踵を返してカリイナに近づいて来た。
そして…
「カリイナ、来るか?」と言って手を差し出してきた。