謝罪
ルシファーは父親の寝室の前の廊下に無言で立って父親が起きてくるのを待っていた。
知らせを行う時に必ず着用する黒の天鵞絨に銀のブレードの飾りが付いた上着を着て。
「ルシファー、なんだ?」と寝室から出てきた父親は彼に声を掛ける。
「父上に謝りたくてここで待っていました」
その言葉に父親は居住まいを正してから「…謝罪を受けよう」と言った。
「昨日私はひどく取り乱しました。
父上に失礼なことも言いました。
そのことを謝ります。
申し訳ありませんでした」
「うむ」
「考えてみれば全て父上のおっしゃる通りだと思います」
「…ルシファー、リンカのことはどうする?
君に仇なすことを目的とした屋敷への不法侵入は罰を受けるべきことではないのか?
警備所に突き出すか?」
「父上にお任せします。
私も彼女を憎みます。
けれどカリイナが出て行った責任を全部彼女に負わせるわけにはいかない。
私はカリイナと信頼関係を築けていなかった。それが根本的な原因だったのではないかと思います。
父上が感じ取っていた彼女の不安や苦しみに私は気づいてやれなかった。
…多分カリイナは私にそれを気づかせないように振舞っていたのでしょうが…
彼女ともっと良く話し合っておけばよかった。
自分の気持ちの変化を言葉にして伝えておけばよかった。
そうすればこんなアクシデントで私を嫌って出ていくことにはならなかったでしょう。
私は思い上がっていました。
社交を好まないカリイナにとってこの屋敷で私だけを相手に暮らしていくことはむしろ彼女の幸せだろうと。
この屋敷で暮らす以外の生き方は彼女にはできないだろうと。
カリイナはどんなことがあっても自分の側を離れることはないと信じきっていたことを…今は悔やみます」
「ルシファー…」
「今日は遠方への知らせがありますので今から行ってまいります」
そう言って玄関に向かうルシファーを父親は黙って見送った。
かける言葉が見つからなかったので。
ルシファーとカリイナの別れの原因を作ったリンカは雨の日以降熱を出して自宅で寝込んでいた。
体の節々が痛い。寒くなったり暑くなったりする。
不調に苦しみながらも彼女は繰り返し妄想していた。
セシルの元に走るルシファーをカリイナが泣きながら追いかける姿を。
それは妄想という名の願いだった。
そんなリンカの枕元で弟のライアは不安を感じながら彼女を見守っている。
最近のリンカはおかしい。なんだか変わった。粗悪な商品を平気で売るような日雇い販売の仕事なんかをして…
知らせの屋敷で働いていたかちゃんとした仕事に就けないので仕方ないといえば仕方ないのだろうけど。
前はその手の仕事をひどく軽蔑していたのに。
それに洗い場にあったあの男物の服はいったいなんだ?
リンカは家を空けていた期間どこで何をしていたんだろう。
近所の人たちはあんたの姉さんも少し愛想が出てきたね、いい傾向だと言うけれど、ライアは前のツンとした融通のきかない姉が好きだった。
好き嫌いを別にしても、姉の変化は良くないことのように感じている。
けれど自分は世間に迎合して行く姉さんを責めることはできない。
自分や母はリンカに多大な苦労をかけてきた。
多分その苦労がリンカの性格を変えたのだろから。
重荷になっている。
そしてこれからも僕はリンカの重荷であり続ける。
一緒にいる限り…
「ライア…ライア…」
「何、姉さん、水?」
「ライア…姉さんの風邪が治ったら都を出ようね。
誰も私が知らせの一族の屋敷に勤めていたって知らない土地に行って…
私、うんと働いて必ず母さんを呼び寄せるから…」
ライアは「今はそんなこと考えないでゆっくり寝なよ」と言って自分に向かって差し出されたリンカの手を布団にしまった。
屋敷の執事のビルドはリンカのしでかしたことを当主から聞いて、気を失いそうになるくらいの怒りを覚えた。
どこまで私の顔に泥を塗るつもりだと。
もちろんそんな感情は表には出さず、淡々と雑務係にダンスホールの窓の修理を命じただけだったが。
数日後、ビルドはメイドからルシファーが朝食を取らなくなくなったという報告を受ける。
朝食だけではなく夕食の量も減ったと。
少食の当主とは違い、ルシファーは量を食べていた。
料理人は彼が来てから作り甲斐が出てきた調理も、多く残されるようになったのでなんだかつまらないと愚痴をこぼしてくる。
元々一人を好む性質の当主様と違ってご子息は人恋しい人間なのだ。
誰かと一緒に食事を取りたい方なのだ。
朝食を取らなくなったのは今まで食卓を共にしていたカリイナ嬢を思い出したくないからに違いない。
目に見えて痩せてきたルシファーを見てビルドはかつてリンカの雇用を当主に勧めた自分の業務上のミスを痛感するのだった。
王室の広報係もルシファーの変化に気づいていた。
初めて会った時は野生の馬のような印象を受けた。
けれどあっという間に彼は礼儀作法を身につけて、すぐにいっぱしの貴族の子弟の風になった。
そしてここ最近はさらに洗練されてきた。痩せたせいかもしれない。
以前は連絡事項を伝えた後もなにか名残惜しそうに、話したそうにしていたが今はそれもない。
我々に対しても事務的になってきている。
まるで彼の父親のように。
短期間の間に自分の立場を学び、なにを諦めたのだろう。
惜しい。
普通の貴族の子弟として生まれていれば、彼は十分国家の中枢で力を発揮できる男であろうに…と広報係は彼の家系を残念に思っていた。
城から戻ったルシファーは部屋で着替えをしながら自分でも痩せたことを自覚する。
とくに腕の筋肉と脚の筋肉が落ちた。食事の量のせいだけではなく、ここに来てから運動量が減っているのも原因だろう。
クローゼットに付いている鏡で自分の姿を確認する。
少し面立ちも変わったか?
それにしても…
痩せても父親には似ていないな、私は。
不意にチクリと胸が痛みルシファーは妙な不安に襲われる。
「馬鹿なことを考えるな…」
そう呟いた後彼はもう一度鏡の中の自分を見つめなおした。
「ふ、それにしてもずいぶん悲しげな顔をしている…」
…それはそうだろう。
今の私にはこの理不尽な失恋を慰めてくれる友もいない。
せめてこの苦しい胸の内を吐露できる相手がいれば…
そんなことを考えた時、ルシファーの脳裏にある人物の顔が浮かんだ。
あ…
いや、でも…
それは…
ルシファーは自分の考えに首を振る。
けれど今、私が助けを求められるのは、彼女しかいない…
そう思ったルシファーはおもむろに机に向かい、引き出しから便箋を取り出しペンを走らせた。




