夕闇
ルシファーは父親の書斎を出てからカリイナの部屋に向かった。
ドアを開けしばし入り口に佇み部屋を見渡す。
二人で朝食を食べた丸いテーブル。
カリイナがこの部屋で一番気に入っていた白地に金の金具が付けられた上品なクローゼット。
ルシファーがそこに寝転ぶことを許されなかった猫足のベッド。
夕闇の中、主人を失ったそれらの家具がこの上なく寂しく目に映る。
本当に、出て行ったのか…
リンカと二人でいたところを見たのならなぜあの場に乗り込んで来なかった。
浮気を疑ったのなら君にはそのことを怒る権利があったのに…
そんなことを思いながらルシファーはもう一度部屋を見渡した。
カリイナが学習時に使っていた机の上には彼女がコツコツ食べていたお菓子の箱と、ルシファーが見たことのない鹿の皮で作った小さな巾着袋が置いてあった。
その中身を机の上に開けてみる。
コロコロと金貨が転がる。
四枚…
カリイナ、一枚だけ持って行ったのか。
馬鹿。全部持っていけばいいのに。
ルシファーはカリイナのベッドに腰掛けてみる。
ベッドの上には畳まれた彼女の夜着が置かれていた。
彼女の畳んだものを何気なく撫でてるうちに昔のことを思い出した。
12.、3歳くらいの時だったろうか。
上級生と喧嘩して大勢に追いかけ回されて逃げ場を失った自分は女の子数人がいる部屋に逃げ込んだ。
そして追っ手が部屋に入って来る前にカリイナのスカートの中に隠れた。
そのおかげで追っ手をうまく巻くことはできたけれどその後その場にいた女の子たちからなんて失礼なことするんだと袋叩きにあった。
当のカリイナは死ぬほど恥ずかしがっていたけれど怒らなかった。
…彼女が怒らないことはわかっていた。
だから何人かいる女の子の中、カリイナのスカートを選んだんだ、無意識に。
ああ、確かに君は僕を守っていたな、昔から。
「けれどカリイナ、君は…君も結局僕を捨てたな…」
いつのまにかカリイナのベッドで眠ってしまったルシファーは夢を見た。
とても嫌な夢。
カリイナがさらわれて赤いドレスを着せられ、異国に売り飛ばされる夢。
船に乗せられる間際に助け出そうと思ったのだがどうしても足が動かず、彼女を乗せた船は出航してしまう。
目覚めてからルシファーはつぶやく。
そんな目に会う前に野垂れ死んでしまえ…と。
カリイナは今、夕闇の中ひとり途方に暮れている。
彼女がいるのは都に隣接する中堅都市。
そこで宿を取ろうと思ったのだが、どの宿屋の受付の人間もちらりカリイナを見ると、悪いね今日は満室で部屋はないんだよ、と剣もほろろに言う。
困ったなぁと思いながらカリイナは繁華街を外れた一軒の宿屋の門をくぐった。
帳場にいた宿屋のおかみさんが怪訝そうにカリイナを見た。
あ、ここも多分ダメだわ…
と思ったカリイナは「あんた、何軒断られてここに来たんだい?」と声をかけられビックリする。
するとおかみさんは彼女に言う。
「そんな驚くことはないよ。あんたの姿を見りゃあ、訳ありだってわかるよ。そんないい身なりで小さなバックしか持たず若い娘が宿を取るだなんて…
みんな厄介ごとには関わりたくないものだからね。
あっちで断られ、こっちで断られ、このボロ宿にたどり着いたんだろ?」
「はい」と答えたカリイナはやっぱり荷物を持ってないのがいけなかったのねと思う。
でもあの屋敷から何も持ち出したくはなかったから…
「金はもってるんだろうね?」とおかみさんはカリイナに尋ねる。
「はい。持っています。
前金で払います」
そう言ったカリイナを見ておかみさんは少し考え込んだ後大声で帳場の奥にいる主人を呼んだ。
「なんだい、大声を出して」と面倒くさそうに出てきた主人はカリイナを見てウヒョッと変な声を出す。
「このかわい子ちゃん客かい?」
「泊めてほしいって言うんだけどどう思う?
なんか訳ありっぽいんだよね」
「泊めてやりゃいいじゃねぇか。金払ってくれるなら」
「あんたならそう言うと思ったよ。
お嬢ちゃん、泊めてあげてもいいけど、その前にあんたが一人で宿を取る理由を聞かせてくれないかね?」
おかみさんにそう言われてカリイナはぽそぽそと話し始める。
実は私は孤児で、孤児院を出てから大きいお屋敷に勤めていたのだけれど、そこの息子に迫られて、すっかりお屋敷勤めが嫌になり逃げ出してきたのだと。
屋敷の主人は息子の不埒な行為のお詫びにと退職金をくれた。
だからお金は持っているのだと。
多少のアレンジはあるけれど、大きな嘘はついていない。
カリイナが金貨を差し出すと、「やだ、うちにはおつりがないよ!」とおかみさんは叫んだ。
結局カリイナは身の上を同情してくれた主人たちの好意によって明日の朝食の準備を手伝うことを条件に、タダで宿泊させてもらえることになった。
狭い小さな部屋に通されたカリイナは簡素なベッドを見てホッとする。
良かった。今日寝るところを確保できて。
明日は乗り合い馬車に乗る前に小さなトランクを一つ買おう。
その方がこれからの宿探しが楽になる。
少しでも遠くに行きたい。
ルシファーから遠くはなれたところで生きていきたい。
髪をほどき小さなバックから取り出した櫛で髪をとかしてからドレスを脱ぎ下着姿でベッドに入る。
カリイナはベッドの中で罪悪感から解放されてほっとしている自分を感じていた。
もちろんルシファーとの別れは悲しかったけれど。
ルシファーと過ごす日々が楽しければ楽しいほど、カリイナは苛まれていた。セシルに対しての罪悪感に。
そしていつかルシファーが自分に物足りなさを感じセシルの元に行ってしまうのではないかと常に怯えていた。
常に。
カリイナはルシファーの父親にはセシルからの手紙のことについては話さなかった。
あくまでもルシファーとリンカとの密会に怒って自分は屋敷を出たのだと思わせたかったので。
だってそうすればセシルは私に対する罪悪感なくルシファーとよりを戻せる。
セシルはいつも私にやさしかった。
大好きなセシル。
あの時はごめんね。
それにしても…幸せだったな。
孤児院にいた頃はいつもルシファーの周りには人がいて、私は話すこともままならなかった。
ルシファーは時々女の子に意地悪をしていたけど、そういうときでさえ私は彼女たちを羨ましく眺めていただけだった。
だけど屋敷に行ってからはあの人を独り占めできた。
一緒に朝食を取ったり、カードゲームをしたり、襲われたり。
…念願の意地悪もされたし。
ふふっ…
カリイナはルシファーと別れたことで初めて一緒に過ごした日々の幸福を心から満喫することができるようになった。
この数ヶ月の思い出だけで十分幸せに生きていける気がしている。
けれど、私に恋人ができたり、家族を作ったりした方がルシファーはきっと安心する…
私のことを心配する必要がなくなるもの。
頑張ろう…
難しいだろうけど、頑張ってルシファーのことを忘れよう。
ルシファー、セシル、知らせの一族への風当たりに負けず幸せになってね…
孤児院の中庭でルシファーの手を取ったあの日から背負い続けてきた重い荷物を降ろしたカリイナは、同時に大切なものを失ったにもかかわらず安らかな顔で眠りに就いた。




