雨の夜
年末。弟との約束通り生活費がなくなる前にリンカは家に戻ってきていた。
そして日雇いの行商などをしながら、ただひたすら雨が降る夜を待っていた。
彼女が待ち望んだ雨は年明け早々に降る。
好都合なことに豪雨。
リンカは弟がぐっすり寝ているのを見届けると、真夜中に家を抜け出し知らせの一族の屋敷に向かう。傘もささずに。
夜中、ルシファーは寝返りをした際少し眠りが浅くなった。
そしてその時微かな違和感を感じた。
なんだろう。雨の、雨の匂いがする…
そう思った次の瞬間、ルシファーは人の呼吸の音のようなものを聞き取った。
考えるより先に体が動き、暗闇の中雨の匂いと呼吸音のした方向に飛びかかる。
ルシファーの勘はあたり彼はベットの足元にいた濡れた物体を捕らえ、床に押さえつけることに成功した。
そして「賊かっ!」と小さく叫んだ直後ルシファーは気づく。
あ、こいつ女だと。
「お願い!大きい声を出さないで」とずぶ濡れの女はかすれた声で懇願してきた。
聞き覚えのある声のような気がしたが、誰の声か咄嗟には思い出せない。
「何が目的だ?!仲間はいるのか?一人で忍び込んだのか?」
「一人で来たわ。あなたに危害を加えようと思って来たわけじゃない。
渡したいものがあって来たの」
この声…
思い出した。
これは態度の悪いメイドだったリンカの声だ。
ルシファーは床に倒した彼女の腕をひねりあげていたのだが、少しその力を緩めた。
「本当に一人なのか?仲間を集って押し入ったんじゃないのか?」
「そんなことしない」
…
確かに。
彼女はひどく潔癖だった。
犯罪に加担できるような人間ではないな。
そう思い、ルシファーはリンカの上から退き、彼女を立ち上がらせる。
急いで枕元のランプに火を入れると、薄明かりの中濡れて惨めな格好をした女が浮かび上がる。
かつての生意気そうなリンカとは随分雰囲気が変わっていた。
一瞬、ルシファーは彼女に同情した。
と同時に服が体に張り付いた彼女を見てなにか危険を感じる。
これは…
自分を誘惑しに来たのではあるまいな…
ルシファーの心に警戒心が湧いた。
しかし、不法侵入者として追い返すには彼女の姿はあまりにも惨めでかわいそう過ぎた。
とりあえずこの場から抜け出そうとルシファーは考え、自分が寝ていたベットのシーツを剥ぎ取りリンカに投げつける。
「それで体を拭け」
そう言うと今度はクローゼットの中から一番質素なシャツとズボンを選び出し、それをベットの上に置いた。
「私は調理場で温かい飲み物を用意しておく。お前はこれに着替えてから来い。
そこで事情を聞く。
変な真似をするなよ?
その濡れた服も持って来るんだ、いいな?」
ルシファーの言葉にリンカは素直に頷く。
もう一つのランプに火を入れ、それを部屋に残し、ルシファーは最初に火を入れたランプを持って部屋を出ていった。
廊下を歩いている途中ひどく迷う。
父親や宿直の使用人を起こしてこのことを言うべきだろうか。
リンカは一体何の目的でこんな夜中に…
だいたいどうやって屋敷に入った?
私に渡したいものとは何だ?
色々考えた末、ルシファーは一人でリンカに対応することにした。
今日の宿直のビルドは厳しい男だし、父も息子の部屋に忍び込んできたリンカを許さないような気がしたので。
大丈夫だ。調理場はオープンなスペースだしドアを大きく開けておけば、もし誰かに見られても変な風にはとられないはずだ。
見つかったらその時はちゃんと事情を話せばいい。
ルシファーが調理場の壁際のいくつかのランプに火を灯し、暖炉に火を入れ、朝絞ったミルクの残りを鍋で温めているところにルシファーの服に着替えたリンカがやってきた。
シャツの胸元から見える鎖骨も、まとめ髪がほつれていく筋か首にはりついてる様も、何かこの屋敷を辞めてからの彼女の苦労や精神状態を表しているようだった。
ルシファーはマグカップにミルクを注ぎ砂糖を一杯入れて調理台の向かいに座ったリンカの前に置いた。
けれどそれをまたすぐ手元に引き戻し、そしてもう一杯砂糖を加えてから再びリンカの方へ差し出す。
リンカは礼も言わずそのカップを受け取とった。
両手でそれを包み込み暖を取っているようだったが、それでは間に合わず、冬の夜の雨で心底冷えた彼女の体は小刻みにガタガタとふるえていた。
それを眺め、ため息を漏らした後「立て」と命令して、ルシファーは彼女が座っていた調理用の椅子を暖炉の側に持って行く。
「不法侵入者、ここに座れ。ここで話を聞く」
そう言ってルシファーは自分の椅子も暖炉の前に移動させる。
「さ、先に言わせて。
私はここに一人で忍びこんだのよ。
誰の協力も得てない。
一階のダンスホールのはめ殺しの窓を窓枠ごと外して入ったの。
あそこの窓枠が、緩んでいたのを知っていたから」
それは本当だろうとルシファーは思う。
なるほど。彼女は屋敷の使用人が手引きしたと疑われると迷惑がかかると思ってるわけだ。
それなりに昔の仲間に対して仁義があるのだな。
特別皆と仲良くしていたようには見えなかったが…
「よし、それは信じてやろう。
リンカ、まずはそれを飲んで体を温めるんだ」
リンカは思う。
惨めさを演出するために雨の日を選んだことは間違いではなかったなと。
そしてこの人のこの優しさに、勤めていた頃に気づいていればこんなことをする羽目にはなっていなかっただろうにと。
ルシファーの優しさに触れリンカのカリイナと彼を引き離したいという思いは益々強くなった。




