第七話
屋敷に戻った凛は、座敷牢に幽閉された。屋敷の中にこんな場所がある事を凛は知らなかった。でも、建てる時にこんな場所を造らせていたのなら、きっと母は最初から、いつかは自分をここに閉じ込めるつもりだったのだろう。そう思うと凛は遣る瀬無い気持ちになった。
母は言う。凛が一人で外に出て何かあってはいけないと。だからこれは言い付けを守らずに外に出た罰であると同時に、凛のためでもあるのだと。それが母の心からの言葉なのかどうか、凛には分からなかった。でも、本当に少しでも娘として気にかけて言ってくれているのなら、嬉しい事だと凛は思った。多分、それはない。流石にもうわかっていた。自分が母に愛されてはいないのだと。でも、娘と認めてもらえず拒絶されるよりかはずっと、今の方がいいと凛は思った。
そっと自分の首を撫でる。そして母に首を絞められたあの時のことを思い出す。母は途中でやめてくれた。自分を抱いて、自分の名を呼び、何度もごめんと謝ってくれた。もう愛されてはいなくても、ちゃんとまだ娘だと思われている。少しはまだ娘として大切に思われている。そう思うことで、凛は自分を慰めた。
何を思って母が自分を座敷牢に閉じ込めたのか、その本心をわからないままでいいと凛は思っていた。別に牢に閉じ込められる事に苦痛は感じなかった。自分の純潔を守り、淳太に操を立てるには誰とも関わることがない牢の中は好都合だった。客と話すときは牢の前に簾をかけて、互いの姿が見えることはない。変な気を起こす者が現れても、格子が自分を守ってくれる。だから凛は、一生ここから出れなくてもいいと思っていた。生涯を福をもたらす神として過ごすことを決心した凛にとって、牢の中は居心地よく、終の住処に相応しい場所だと思われた。だから、母の本心など知りたくなかった。知って、この心の平穏を乱したくないと凛は思っていた。
ただひたすらに、来る日も来る日も人の願いを叶え続け、凛は徐々に弱っていった。陽を浴びず狭い牢に閉じこもりきりの日々がいけなかったのか、人の域を超えた御業を繰り返す事に人の器が保たなかったのか、はたまたそれらとは全く別の理由なのかはわからない。でも、確実に凛は弱っていき、二十歳を迎える頃には、起き上がるのもままならない状態になっていた。
凛を回復させようと、精のつくものを用意しては食べさせて、身体を清潔に保たせて。そう母が親身に世話をしてくれる事に、凛は幸福感を覚えていた。自分に献身的に尽くしてくれる母をみて、凛は母が自分を愛してくれていないなどと思ってしまった自分を恥じた。お母さんはやはり自分の事を想ってくれていたんだ。ずっと大切に想ってくれていたんだ。そう感じられた事で、凛は全てが救われた気がした。もうこの世に未練はなかった。自分達の世界に手招く異形の者達の誘いがもう恐ろしくはなかった。もう、いつ息を引き取っても構わない。凛はすっかり、人としての生を終わりを受け入れていた。
「凛。お前の嫁入りが決まったよ。」
母のそんな言葉に、凛はまどろんでいた意識が一気に引き戻された。
「お母さん。何で・・・。」
今更何で。もうどう考えてもそれほど先は長くないというのに。こんな状態になって縁談なんて。そんなの嫌だ。このまま、どうかこのまま逝きたい。その思いが力を与え、凛は身体を起こし、母に縋った。
「お願い。お母さん。わたしは誰の所にも嫁ぎたくない。お願いだから断って。お願い。お願い。わたしはこのまま、誰のものにもならないままで死にたいの。お願いだから。その縁談は断って。」
そんな凛の嘆願は母には聞き入れられなかった。
「凛。そんなことは言わないでおくれ。かわいい娘の晴れ姿を見れないまま、自分より先に逝かれてしまう。それがどんなに辛いことか、お前にはわかるのかい?後生だから、母の願いを聞いて、どうかお前が逝く前に、お前の嫁入りを見届けさせておくれ。」
そんな母の願いを凛は拒んだ。嫌だ。嫌だ。それだけは絶対に嫌だ。初めて母の願いを拒絶した。初めて母に懇願した。どんなに頼み込んでも、どんなにすがりついても、母は凛の願いを受け入れなかった。もう決まったことだから諦めなさい。そう告げられ、取り乱し泣き喚く凛を見て、母は嗤っていた。酷く醜い顔で嗤っていた。
夜になり、一人布団に横になりながら、凛はまだ泣き続けていた。知らない誰かのもとに嫁がなくてはいけない。知らない誰かのものにならなくてはいけない。そう思うと涙が溢れ止まらなかった。
淳太を想う。ずっと考えないようにしてきた。自分が彼を想う心が彼に祝福を与え、それが彼を苦しめるのだと凛は知っていたから。でも、今は淳太を想わずにはいられなかった。淳太と一緒になりたかった。淳太のお嫁さんになりたかった。それが叶わないから、誰のものにもなりたくなかった。誰のものにもならないまま、このまま逝けると思っていたのに。もう待たないと宣言した。淳太が迎えに来てくれるのをもう望んだりはしないと決めていた。でも今は、迎えに来て欲しいと思ってしまう。それが叶わないなら、今すぐ死にたい。誰かのものになる前に、今すぐ死んでしまいたい。でも今の凛には、自分で死ぬ事ができるほどの力はありはしなかった。
ガチャリと錠が開く音がする。
ガチャンと錠が落ちる音がする。
誰かが牢の中に入ってきて、凛の側に腰を落とす。
「凛。迎えにきたぞ。」
聞き覚えのあるその声に、凛はまた涙が溢れた。
「言っただろ。お前がここで幸せじゃないなら、お前に少しでも俺への気が残ってるなら、俺は諦めないって。さあ、いくぞ、凛。ここから出よう。」
そう言う淳太に抱き起こされて、抱きしめられて、凛は彼に縋り付いて泣いた。子供の頃のようにわんわん泣いた。
「まったく凛は。本当に泣き虫なんだからな。」
呆れたような淳太の声が響く。間違いない。これは淳太だ。淳太が迎えに来てくれた。嬉しくて、嬉しくて、それが信じられなくて、凛は今自分が夢の中にいるような気がした。
「淳太。ありがとう。でも、わたし。すっかり身体が弱ってしまって、もうろくに動けないの。一緒に行けない。一緒に行けないよ。」
「バカだな凛は。そんなの俺が担いでいってやるよ。お前一人くらい楽なもんだ。何処へだって運んでやる。ほらいくぞ。夜が明ける前に。」
そう言う淳太に背負われて、凛は牢を後にした。
「大丈夫だ。外に出て少しずつ身体を動かしてけば、きっとまた動けるようになる。もとのように動けなくても、俺が必死に働いて、働いて、ちゃんと面倒見てやるから。ずっと一緒だ。これからは。ずっと一緒だから。だから凛。もう泣くなよ。もう泣かないでいい。」
自分の背中で泣き続けている凛に、淳太はひたすら声をかけていた。村を出て、山を登り、淳太は凛を背負って歩き続けた。歩き続け、歩き続け、それでも山を抜けることが出来ず、どこにも辿り着くことが出来なくて。だんだん疲弊の色が濃くなる淳太に、凛は声をかけた。
「淳太。下ろして。もうここでいい。」
そんな凛の言葉を淳太は嫌だと拒絶した。
「今度こそ、絶対。絶対にお前を連れていく。お前を他の誰かのものになんかさせない。お前は俺が連れていくんだ。」
「うん。ありがとう。わたしも、淳太と行きたい。淳太以外の人のものにはなりたくない。でもね。もうすぐ夜が明ける。このままじゃ、夜が明けたらまた見つかって、そうしたら一緒にはなれないよ。だからね。ここまででいい、ここにわたしを置いていって。わたしは貴方以外の誰のものにもなりたくない。だから、淳太。お願い。ここで、わたしを・・・。」
そんな凛の願い聞いて、淳太は沈鬱した表情で彼女を自分の背から下ろし、そしてぎゅっと抱きしめた。
「凛。好きだ。お前の事がずっと。俺にとってお前は、いつだってただの女の子だった。たった一人掛け替えのない、誰よりも幸せにしてやりたい、ただの女だったんだ。」
そう嘆くように口にして、淳太は凛に口付けた。
「一緒になろう。今、ここで。結ばれて、それで夫婦になろう。お前を一人になんかさせない。お前を一人置いていきはしない。三途の川は、俺がおぶって渡ってやる。」
そう言う淳太に押し倒されて、凛は彼と一つになった。彼を受け入れた痛みが、交わった熱が、彼と夫婦になった事を実感させて、凛は幸福感で胸がいっぱいになった。
そして、淳太の手が首に伸び、凛は彼を見上げた。逆光で彼の顔がよく見えない。でも、彼がちゃんと自分の願いを叶えてくるようとしているのがわかって、嬉しくて、凛は満面の笑みを浮かべた。
「ちょとの間痛くて苦しいだろうけど。出来るだけ苦しまないですむように、すぐ楽になるようにしてやるからな。」
そんな言葉とともに、首にかけられた指にグッと力が入る。息が詰まって、意識が薄れていって、
「凛。愛してる。俺もすぐ、あとを追うから。」
凛が最後に聞いたのは、そんな淳太の泣いたような声だった。
目が覚めて、凛はあれは夢だったのかと思った。小窓から入る月の光がまだ夜だと告げている。夜明けはまだだと告げている。
淳太が迎えに来てくれた。淳太と交わって、夫婦になった。そしてわたしは淳太の手で・・・。
それが自分の願いが見せた幻だとわかっていても、凛はそれに酷く慰められた。自分の純潔は淳太に捧げたのだと、本当の自分は淳太の手でもうあの世に逝ったのだと、そう思えばもう、大丈夫だと思った。
ここにいるわたしは凛ではない。ここにいるわたしは、福を授ける神様なんだ。これから嫁ぐのは、凛ではなく神様なんだ。これから行われるのは凛の嫁入りではなく、神様の嫁入りなんだ。そう自分に言い聞かせて、凛は静かに涙を流した。あれが夢でなければ良かったのに。そう思って、自分の首の淳太に締められた所に手を当てる。そうするとチクリとそこに痛みが走って、凛はハッとした。
淳太に締められた首の跡が痛い。淳太と交わった、その痛みがまだ自分の中に残っている。これはどういうことなのだろう。アレは夢ではなかったの?自分の身体に刻みつけられた淳太の存在の跡の確かさを実感して、凛は戸惑った。
視線を感じ凛が格子の外に目をやると、そこには青白い顔をした母がいた。母は、感情の読み取れない顔でじっと凛を見つめていた。
「お母さん?」
母の様子のおかしさに、凛は薄ら寒ささえ覚え、恐る恐る声をかけた。
「ちゃんと戻ってきたか。ちゃんと。お前があのまま逝かなくて良かった。」
そう言って、母の目から涙が落ちる。それを見て、凛は自ら死を望んだことに深く罪悪感を覚え胸が苦しくなった。
「お母さん、ごめんなさい。大丈夫だから。泣かないで。」
そう口にすると一瞬母が驚いた様な顔をして、そして、狂ったように嗤いだした。
「お前は、わたしがお前を心配しているのだと思っているのか。わたしが、お前を慈しんでいると・・・。」
心底蔑む様に母が言う。
狂気に満ちた目で母が言う。
凛は母のその姿に恐怖を覚え、身が縮こまり震えた。
「おめでたい奴だ。誰がお前なぞの心配などするものか。わたしから可愛い娘を奪い、愛しい夫まで奪ったお前の事を・・・。」
母から投げつけられた言葉を理解する事を心が拒絶して、凛はただ呆然と母を見つめた。
「わたしはただ、お前が楽に死ななくてよかったと言ったのだ。お前が心穏やかに死を迎えなくて、心から喜んだのだ。誰がお前に安らかな死を迎えさせてやるものか。誰がお前を幸せなどにするものか。これからお前は嫁入りを名目に、怪異蒐集を趣味とした変態のもとに売られるのだ。お前のことはどうとでも好きなようにしていいと言ってある。せいぜい苦しんで、苦しんで、苦しみ抜いて、二度とこの世に生まれてなどきたくはないと、この世に絶望し死んでいけ。」
そう言って嗤う母を見て、凛は、あぁ自分はずっと赦されてなどいなかったのだなと実感した。心が拒絶し、その言葉を理解する事を拒んでも、それでもなお重ねられる自分への悪意に、どんなに嫌でも自分が憎まれていると分かってしまう。赦されてなどいなかった。娘だと思われていなかった。ただずっと憎まれ恨まれ続け、母は、わたしが誰よりも不幸になる事をずっと望んでいたんだ。今まで母がわたしにしてきたことは全て、母から全てを奪ったわたしへの復讐だったんだ。そう思うとただただ悲しくて、凛は涙を溢れさせた。
そんな凛の姿を見て母が嬉しそうに笑う。そして、そんな母を見て凛は、母を喜ばすために自分ができる事が、不幸になる事だけだったなんてと思って虚しくなった。わたしが不幸のドン底で死んでいったと、そう思えたら、母は少しは気持ちが軽くなるのだろうか。そう考えてみてもそうはならない気がして、凛は自分が死んだ後の母を想ってどうしようもない気持ちになった。
「そうだ。お前が懸想していたあの男。あの男は死んだよ。」
そんな母の言葉が妙に鮮明に耳の奥で響いた。
「かわいそうにな。お前のような化け物に執着などしなければ、そんなことにはならなかったものを。最後の最後までお前のことをどうにかしようと本当にしつこい男だった。だから村の者達をけしかけて嬲り殺しにしてやったわ。もう二度とあの男はお前を迎えになど来れん。これでもう、わたしの邪魔をする者はいない。」
母の高笑いが屋敷の中に響いて、凛は目の前が真っ暗になった。
目の前に居たはずの母の姿も見えない。あれだけ響いていた母の高笑いも聞こえない。わたしは、どこにいるの?漠然とそう考えて、そして、凛の中に唐突に淳太がもういないということが入り込んできた。
彼と過ごした日々が走馬灯のように自分の中を駆け巡る。彼の姿が、その温もりが、鮮明に自分の中に蘇って、凛は両手で顔を抑え叫んだ。
淳太。淳太。彼の名を何度も呼びながら咽び泣く。
泣いて、泣いて、泣きじゃくって、いつしか凛を暗闇が包み込んでいた。
『本当に、お前は泣き虫だな。』
淳太の声がする。
『お前をおいて、俺が一人でいくわけがないだろ。顔を上げろよ。』
そう言われ、凛は涙塗れの顔を上げた。そこにはただ闇だけがあってなにも見えない。淳太の姿はどこにもない。でも、
『ほら。一緒にいくぞ。』
そんな淳太の声が聞こえた気がして、凛は彼の名を呼んで抱きしめるように闇の中に腕を伸ばした。