第四話
ウキウキした気分で家に帰ってきた凛が目にしたのは、泣き叫び手当たりしだい家の中の物を薙ぎ払う母の姿だった。
何が起きたのかわからない。
何でこうなったのかわからない。
わかるのは、 いつもなら帰ってきているはずの父の姿がなくて、母が一人だということ。そして、母が今まで見たことのないほど荒れて、喚き散らし暴れている現実だった。
今まで何度も母が暴れる姿を目にしてきた。でも目の前のこれはそのどれとも違った。今までの暴れるは八つ当たりのようなものだった。父に宥められすぐ落ち着くような、切羽詰まったものではなかった。でも今の母の姿は、八つ当たりというにはあまりにも痛々しく、全てを投げ出し周りにある全てを、そして自分自身さえも壊さんとしている様だった。
そんな自分にはどうすることもできない現実に、凛はただただ茫然と、全てが壊されていこうとする光景を眺めていた。
自分の帰宅にすら気がつかない母の形相が、悲観に暮れ救いを求めているように見え、凛は胸が締め付けられた。家に入る前のウキウキした気分はとうにどこかにいってしまった。でも、父の帰宅にきっと希望があるのだと、父が自分の話しを信じて沢山のお金を持って帰って来てくれたら、きっとこれからは良くなるに違いないのだとそう思って。凛は母にも希望を持ってもらいたくて、意を決して声を出した。
声に反応し、母が振り返る。凛を目にした母の顔が憤怒に歪み赤を通り越して赤黒くなる。
「お前か。これもお前の仕業なのか。凛だけではなくあの人までわたしから奪うのか。お前は。お前は・・・。」
そう叫びながら鬼の形相で迫ってきた母に首を絞められて、凛は、一瞬意識が遠のきそうになり、そして、母の指が首に食い込むその痛みに気を取り戻し、必死に抵抗した。
自分の首を絞める母の手を掴み、引き離そうと、凛は無我夢中で暴れたがそれはビクともしなかった。必死に抵抗する凛に掻かれ腕の皮が裂け血が滴り落ちてもなお、首を絞める母の手の力が弱まることはなかった。
母の指が凛の細い首をギリギリと締め付け喉に食い込んでいく。やめて。痛い。苦しい。お願い助けて。助けて。そう思うが声を出すことはできなかった。しだいに意識は遠のき力が入らなくなり、凛は自分の首にめり込んでくる母の指の圧の強さに、母が本気で自分を殺そうとしていることを悟った。
これほどにまで母は追い詰められていたのか。父の帰宅が少し遅くなっているだけでこんな風になってしまうほど。そう思うと凛は悲しくなった。自分は何を間違えたんだろう。自分が目に映らない方がと母を一人にしてしまっていたのがいけなかったのだろうか。それとももっと早く、父を楽にする方法を見つけていればよかったのだろうか。お金が入り、父が仕事をしなくてよくなれば、父も母も楽になれるはずだった。羽根を伸ばしてゆっくり休んで、今より幸せになれるはずだった。なのに、そうなる前にこんなことになってしまうなんて・・・。そんなやり切れない気持ちに苛まされて、凛はついに抵抗する意思を失った。
お母さん、ごめんなさい。わたしが神隠しになんかあってしまったせいで、わたしがおかしな子になってしまったせいで、わたしが・・・。わたしがお母さんの人生を狂わしてしまった。だから、わたしなんてこのまま、このままお母さんの手で・・・。そう生きることを完全に諦めかけた時、凛の脳裏に淳太の姿が蘇った。結婚の約束をしたことを思い出して、淳太のお嫁さんになりたかったと未練が湧いて、それは涙となって凛の目から流れた。
その瞬間、それまで全く弱まることのなかった母の指から力が抜け、それは首から離れていった。呆然とした様子で母がそっと凛の顔に手を添える。そして凛の頬をつたう涙を優しく拭い、母は強く凛を抱きしめた。
母の咆哮が響く。激しい憂いと悲しみと後悔と、そんな感情が混沌とした嘆きの声。
身体が軋むほどの強さで自分を抱きしめる母が、繰り返し、繰り返し、自分の名を呼んでごめんねと言うのを耳にして、凛はそっと目を閉じた。
母が名前を呼んでくれたのはいつ以来だろう。母が抱きしめてくれたのは・・・。母はきっと、自分自身どうすることもできない感情にずっと苦しんでいたのだ。辛くて、辛くて、わたしを憎く思って。それでも今も、ちゃんとわたしを想ってくれていたのだ。そう思うと凛は救われたような気がした。今までのことが、本気で殺そうとされたことさえどうでもいいことに思えた。
全ての気力を使い果たし電池が切れてしまったように動かなくなってしまった母を奥の部屋に横にして、凛は母がめちゃくちゃにしてしまった居間を片付けながら父の帰宅を待った。しかし、いつになっても父は帰ってこなかった。次の日も、その次の日も、父が帰ってくることはなかった。
凛が、父が母と自分を置いて家から出ていってしまったのだと知ったのは、あれ以来寝たきりのようになってしまっていた母が漸く起きて居間に出てこれるようになってからだった。
大金を手に入れた父は、その大金を置いて出ていってしまっていた。これだけの金があれば、母娘二人一生食うには困らないだろう。今までは自分がいなければお前たちが路頭に迷ってしまうと我慢してきたが、もうこれで我慢することはなくなった、自由にさせてくれと言って。父は町に働きに出ている間に町に好い人ができていた。町にも家庭を持っていた。今までこの家に帰ってきていたのは、ただ責任感と情けだけで、もうこの家に父の心はありはしなかった。そんな事を母の口から聞いて、凛は自分がしてしまった事の結末に胸が締め付けられ身体が震えた。
自分の話しを信じて父が大金を持って帰ってきてくれれば全てが良い方に行くのだと思っていた。そんな事を思って期待に胸を膨らませていた自分がいた。でも、その結果は、父にとってはきっと良い事で、母にとってはとても悪いことだった。父はずっと望んでいたであろう、別の場所での新しい家族との門出を手に入れて。母は、大金と引き換えに、父を失い絶望した。父のぼやきを実現させた結果は、父だけの願いを叶える結果にしかならなかった。そこには凛が描いていたような、家族みんなが幸せになる結末など存在していなかった。
これは浅はかな自分のせいだ。そう思った凛は、母に全てを打ち明けて、床に額を擦り付けて、母に赦しをこいていた。ただひたすらに、必死になって赦しをこい続けた。だから凛は気がつかなかった。赦しをこう凛を見下ろす母が一体どんな顔をしていたのか。だから凛は、過ぎてしまったことは仕方がないと言う母を、これからは母娘二人寄り添って生きていこうと言う母の言葉を信じた。そして、母が自分を赦してくれたのだと、また娘として受け入れてくれたのだと喜んでいた。だから凛は、今度は母の願いを叶えて欲しいと言われ、二つ返事で了承した。そしてその後も母の言うままに、母に言われるままに、母の為、そして母の連れてくる誰かの為に自分の力を使うようになった。それが自分をどのような未来へと誘っているのか気づく事なく、凛はただ、自分が母の力となり人の力となれる事に喜びを感じ、母の為、人の為と性を尽くした。